されど心の傷は深く
「最初の半年は、無理せず仕事に慣れることと生活設営に集中してもらえば良いよ。戦力としては期待してないから」
ミュンヘンに赴任した初日。着任のあいさつに出向くと支店長は笑いながらそう言った。それが三十歳を過ぎて初めて海外勤務になった俺に対する気遣いであることは分かった。だから、大人しく頭を下げた。
だが、心の中では、今に見てろよと思っていた。たしかに海外勤務は初めてだが、その分、国内でみっちり積み上げてきた製品知識や仕事力には自信があった。その仕事ぶりを評価されての海外赴任だという自負もあった。
結論から言うと、支店長の言ったことは百パーセント正しかった。赴任からの半年間、俺はまるで役に立たなかった。半年後でも、立ってるかどうかは怪しいものだった。
仕事も確かに色々と覚えたり、対応しないといけないことが多くて大変だった。だが、それより大変だったのは生活設営だった。生活に問題があると仕事にも支障が出るのは海外でも日本でも同じだが、海外では生活自体が大変だ。なので、少しでも落ち着いた生活が送れるように生活設営が重要なのだが、この生活設営自体に苦戦した。つまり支店長の言葉は気遣いでもあり、極めて適切なアドバイスでもあったのだ。
ビザの取得や住民登録、免許の書き換え、家具や家電製品の購入・設置と、生活設営の苦労をあげれば数えきれないが、その中でも一番大変だったのは家探しだった。
物件は日本にあるのと同じようなネットの住宅紹介サイトで探したのだが、会社や出張で使う空港へのアクセス、日常の買い物の利便性、駐車場やエレベーターといった設備にエリアの治安までを条件に加えると、そもそも会社の家賃規定に収まる物件がほとんど出てこなかった。
たまに条件に当てはまる物件が出てきても、下見のアポイントが取れなかった。拙い英語で書いたメールには、ほとんど返事が返ってこなかった。なんとか下見のアポイントが取れたとしても、実際に訪れてみるとネットに掲載されていた写真とはまるで違うことも多かった。それらの関門を乗り越えて、ようやく契約段階にまで進んでも、そういう良い物件にはやはりドイツ人のライバルがいて、ここでも外国人のハンデのせいなのか契約に至らなかった。
書き出してしまえば、それだけのことだ。だが、実際にやってみるとそれは本当に大変な作業だった。良い物件を見つける夢を見て、下見お願いのメールを出さないと、と夜中に飛び起きたこともあったほどだ。ところが、そんなに大変だったにも関わらず、俺は途中から家探しを楽しむようになっていた。
家探しの楽しさは二つあった。
一つは、ドイツ人の生活が垣間見えることだった。ドイツで賃貸の部屋を借りるとき、下見の際には、まだ前の住人が住んでいることが多い。ドイツ人が実際に暮らしているリビングやキッチン、子供部屋、バルコニーを見ることは興味深く、またドイツ人のことを知るきっかけにもなった。
そしてもう一つが、様々なエリアや建物でも新生活を夢想することだった。
下見が決まると、俺は日本から持ってきたガイドブックやインターネットで、そのエリアのことを調べて予備知識を頭に詰め込んだ。その上で、下見の日には、約束の時間よりも二時間ほど早く現地に到着して、辺りを散歩した。下見の日程が先の時には、週末に二度三度と時間帯を変えて、散歩したこともある。
そうして散歩しながら、想像するのだ。異国の、この街並みで暮らす自分と家族のことを。それは、手触り感のある夢想だった。インテリアショップのショールームで想像するような、それのずっとリアルな奴だ。そして、俺にとっては、ずっとセンチメンタルな奴だった。
瀬戸内海に面した小さな町で生まれ育った俺は、何をきっかけにしたのかも分からない子供の頃から、異国の地に漠然とした憧れを抱いていた。家の近くの児童公園で、ブランコに乗って、夕焼けの方向を見ながら、あっちの方向に外国というものがあるんだと思っていた。
今自分が異国の街角で見ているこの夕焼けがあの頃の夕焼けに繋がっているのだと考えると、胸の奥が震えた。
家探しが好きだった。だから、やっとのことで部屋を決めることが出来たときも、心の中では少し寂しさがあった。住む場所が決まっていない振りをして、家探しを続けることも可能だった。実際、少し考えてみたりもした。でも駄目だった。本当に家を探している時じゃないと、あの高揚感はやってこないと俺には分かっていた。
ただ、巡り合った物件は最高だった。
経済的な材料が使われるようになった八十年代より以前の、昔ながらの重厚な材料が使われた、いわゆる旧式の建物は趣きがあり、その一方で内部はフルリノベーションが施され快適さが確保されていた。ミュンヘン中心部のヴィクトリア市場に面したその部屋の窓からは市場やペーター教会の尖塔を見渡すことが出来、部屋にいながらミュンヘンの鼓動を感じることが出来た。
近所には手頃な、それでいて本格的なドイツ料理やイタリアンレストランがあり、建物の1階には街で評判のステーキハウスが入居していた。しかも、そんな街中だというのに、建物の地下には駐車場も備わっていて、条件的には本当に非の打ち所がない物件だった。たった一つの弱点を除いては。
完璧な物件の唯一の弱点、それは本来メリットであるはずの駐車場だった。この建物の駐車場は複数の問題を抱えていた。
まず、通りから車二台分ほど奥まったところにあった駐車場入り口への進入部が、直角激狭だった。次に、建物は交通量の多い通りに面していて、進入のチャンスは毎回一度きりだった。万が一入り方を間違えでもしようものなら、前にも後ろにも進めないという地獄の展開が待ち受けていた。
そしてさらにそんな状況にとどめを刺したのが、一階のステーキハウスだった。ステーキハウスの喫煙コーナーが、あろうことか駐車場の進入口の隣だったのだ。街で評判の店だ。店内はもちろん、喫煙コーナーだっていつも賑わっている。つまり、その建物の駐車場を利用するためには、複数ドイツ人眼前直角激狭駐車場進入ゲームに参加するしかなかったのだ。
ひどい話だ。だがそれらは全て、運転が苦手な俺からしてみればという話でしかなかった。そう、俺は文字通り致命的に運転が下手だ。そして実際のところ、俺が並べたてた駐車場に関するあれやこれやの不満は、俺以外の住人にとっては不満の種ですらなかった。それが俺自身の認識であり、そして単純な事実だった。
自分自身の非が理由で、完璧な物件を取り逃すことなんて俺にはできなかった。
だから俺は、毎日、本来であれば一日の中で一番解放感を覚えるはずの仕事終わりに、一の日の中で一番ストレスを覚えながら、自宅に向かって車を走らせた。そして、その日もそうだった。
初夏の金曜日の夜だった。金曜日の仕事上りは日本でもドイツでも嬉しい。しかも初夏はミュンヘンの一年の中で一番気持ちの良い季節だ。例の罰ゲームが待ち構えてることはもちろん憂鬱だったが、その後のビールや週末のことを考えると、いつもよりは軽い気持ちで家に向けて車を走らせていた。家が近づき、ステーキハウスの看板が見てくるまでは。
ミュンヘンの中で一番気持ちの良い初夏の金曜日の夜。街でも評判のステーキハウスの喫煙コーナーは、当然のように、いつもの倍以上のドイツ人スモーカーで溢れ返っていた。遠目からも進入口が煙って見えるほどだった。ずしりと胃袋にきた。
別に、煙が運転の邪魔になると思ったわけじゃない。遠目でも煙るくらいたくさんの酔っ払いスモーカーの目前でミッションに挑まないといけないことが嫌だっただけだ。
嫌なことというのは後送りにしたくなるものだ。そして、後送りにするとろくなことはない。この毎日の苦痛の儀式の中で良いところがあるとすれば、それは後送りできないことだった。交通の流れの中では、自分でペースを決めることはできない。やるしかないのだ。そう思うと、覚悟を決められるものだ。
その日も、思い悩む間もなく、進入口は近づいてきて、俺は右折のウインカーを出した。
進入口は相変わらず、くそ狭かった。進入口には歩道を突っ切る形で入っていく。 車のスピードを下げ、俺が歩道に車を乗り入れていくと、一杯聞し召して赤ら顔のドイツ人たちの注意がこちらに向けられるのを感じた。一秒も早く、この場を切り抜けたい一心だった。
ハンドルをゆっくりと切って行った。フロントガラス越しの視界に、忌々しい吸い殻入れが見えた。吸い殻入れとの位置関係で、進入角度が適切かどうか判断してた。その日はいつもより切り返しが遅かった。だが、適切というのは必ずしもピンポイントではなく、前後に余裕があるものだ。世の理だ。早く終わらせたかったから、いつもよりスピードも少し早かった。だが大切なのはスピードじゃない。角度だ。これまた世の理だ。
そのまま車を進めた。吸い殻いれがフロントガラスから消えたころに、ものすごい摩擦音が聞こえた。扉越しに振動が伝わってくるくらい激しく車の左側を擦った。しまった、と思った。サイドミラー越しにドイツ人に目をやると全員が、オーマイガーとドイツ語で言っているのだろう感じで、口をぽっかりと開けていた。
時間は巻き戻せない。そのまま車を駐車場入り口に進め、リモートキーで扉を開けた。扉が開くのを待っている間、バックミラーに映ったドイツ人たちが、しきりに車の左側を見ろ左側を見ろと、ゼスチャーで俺に伝えようとしているのが見えた。
向こうからも俺が見えているのは分かっていた。だから俺は悠然とシートに身を委ね、ちょっと車を擦ったくらいどうってことないよ、を態度で体し、そのまま何食わぬ様子で駐車場に入ると、やつらからは目の届かない自分のスペースに車を停めた。
それから車の中でむせび泣いた。
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