第23話 ウィレム
フィジー内海のサンゴ礁を一隻のボートが全速力で東進していく。操縦しているのはマオリ人の大男ウィレムであった。普段は豪胆な彼の顔も流石に不安と緊張と……そして恐怖を隠せないでいた。それも無理からぬ事であった。
(まだか? 奴が船から
今のところ奴の気配は感じないが、あの鮫の形をした怪物の事を考えれば全く楽観視できない。それに追ってきてくれなければそれはそれで困る。
(海に潜るレベッカを危険に晒す訳にはいかんからな)
彼女がそれを名乗り出た時、危険な事に反対する気持ちと、他ならぬ彼女が男達に先んじて名乗り出た事に誇らしい気持ちを同時に感じていた。
彼女と出会ったのは約4年前ほどだ。切っ掛けは何の事はない。まだギャングのような連中と付き合いがあった彼だが、昔から動物は好きである時捨てられていた子猫を何匹か拾ったのだが、自分では扱いきれずに困って、近くの動物愛護センターに持っていったのだ。その時何かの用事でそこを訪れていたレベッカと出会った。
強面のウィレムが子猫を大事そうに抱えていた姿にギャップを感じたのだろう。興味を持ったらしい彼女が声をかけてきて、手続きの間他にやる事もなかったので彼女と会話している内に、お互いの名前や状況などを知った。
『動物が好きなら自然も好きって事よね。腕っぷしも強そうだし、良かったらウチで働いてみない? 今丁度あなたみたいな頼りがいのあるタイプが欲しかったのよ。色々
実際にそれまでの生活になんの張り合いもなく、ただ無為に過ごしていたとも言えるウィレムは、最初はただ合わないようならやめればいいと、ほんの気紛れで彼女の誘いを受けた。
だがそれから間もなく、彼はレベッカの言っていた事が決してその場だけの謳い文句や誇張ではなかった事を思い知る事になった。レベッカはウィレムでも驚くくらい行動的で、しかも危険を恐れずどんな難題の保護活動にも挑戦した。それを疎ましく思う輩も大勢おり、トラブルも絶えなかった。文字通り退屈になる暇もないような日々が続いた。
いつしかウィレムの中から合わなければいつでもやめようという気持ちはなくなっていた。レベッカとともに勤しむ環境保護活動に非常な充実感を覚えるようになっていた。それが彼のライフワークになるまでさして時間はかからなかった。
(……壊させん。少なくともレベッカをこんな所で絶対に死なせる訳にはいかん)
彼は内心で再び強く決意する。そのためには何としてもこの囮作戦を成功させて、極力長くあの化け物を引き付けておかねばならない。
(さあどうした、化け物。ここにお前が襲いやすい格好の獲物が逃げているぞ?)
彼のそんな内心が伝わったはずもないだろうが、後方確認用のミラーに不自然で大きな波のうねりが映った。それと同時に海面から徐々に突き出してくる黒っぽい突起物。それが海面を割って白い泡の軌跡を描きながら恐ろしい速度でボートに迫ってきた。
「……! 来たか!」
既にボートは限界まで速度を出している。ウィレムは左手で操舵輪を握りながら、右手にライフルを構えた。こんなものが効くはずもないが、奴の注意と敵意をより引き付けられれば充分だ。
後方の突起物は徐々に大きくなっている。奴がより海面に浮上してきている証拠だ。ウィレムは上半身を捻って牽制代わりの銃撃を奴に撃ち込む。当然効かないが、心なしか奴の速度が上がったような気がする。
やはりというか奴の泳ぐ速度はこのボートにも追いつけるレベルらしい。このまま無策に真っ直ぐに進んでいるだけだと、確実に奴に捕捉される。
ウィレムは操舵輪を動かしボートをジグザグに曳航させて奴を撹乱しようとする。ボートの立てる飛沫が不規則にうねる。だがただの動物ならともかく、人間並みの知能を持つ怪物には小手先の撹乱など通用しないようだ。
惑わされる事なく一直線にボートめがけて肉薄してくる巨大な影にさしものウィレムも恐怖を感じたが、諦めたらそこで終わりだ。レベッカを生かす事が最優先だが、彼自身も好んで自殺をする趣味はない。
(こいつを引き付けた上でナイライ島まで辿り着ければ俺の勝ちだ)
そうすれば彼も死なずに済むし、島まで引き付けておければ奴が諦めて船まで帰るとしてもかなりの時間を稼げるので、レベッカ達が安全に爆弾を回収できる可能性はそれだけ高くなる。
そこまで考えた時、大きな波がうねった。直後に凄まじい水音と水しぶきが上がる。
「……!」
奴が海面から姿を現し、その巨大な口でボートに噛みつこうと迫ってきたのだ。ウィレムは必死に操舵輪を切ってそれを回避する。何度か動揺の綱渡りが繰り返される。ウィレムはその間にも必死でライフルを撃ち込むが、やはり大して効いている様子はない。
(化け物め!)
内心で毒づく。それが聞こえた訳でもないはずだが、怪物が恐ろしい身体能力を発揮して海面から跳び上がり、
「ぬぅぅぅぅ!!」
ウィレムは唸りながら全力で舵を切る。その甲斐あって際どい所で奴のボディプレスの直撃を回避する事ができた。しかし当然ながら着水の際に凄まじい水しぶきと海面のうねりが発生し、ウィレムの乗るボートを揺さぶり水浸しにする。
ボートが木の葉のように大揺れする。ウィレムでなかったら振り落とされていたかもしれない。だが何とか耐えきる事に成功した。
一瞬たりとも動きを止める訳にはいかない。ウィレムは素早く太陽の位置から方角を割り出して、東に向かって進み始めた。
その後も怪物は執拗にボートを破壊しようと攻撃を仕掛けてくる。噛みつきは勿論、再びボディプレスを仕掛けてきたりもしたが、それも何とかやり過ごす事が出来た。地獄のような綱渡りが続いたが、そんな彼の視界の先に小さな島影が見えてきた。ナイライ島だ。
(やっとか! あそこまで行ければ俺の勝ちだ……!)
港も何も関係ない。砂浜に突撃してボートごと強引に乗り上げてしまえばいい。いかな怪物も海棲生物ではある以上、陸に揚がる事はできない。ウィレムの中に希望が芽生えた。だが……
「……!!」
ボートの速度が目に見えて急激に落ち始めた。ウィレムは勿論限界までエンジンを回しているが、何故か異音がしてエンジンの働きが弱まっていく。
「おい、一体何だ!?」
焦った彼が視線を巡らせるとエンジンモーターのカバーに大きな亀裂が入っているのが見えた。あそこから海水が侵入したらしい。
(まさか、奴のボディプレスを躱した時か……!?)
凄まじい衝撃と揺れだけでなく、大量の水しぶきが叩きつけられたのだ。余程頑丈なボートでない限りどこかが破損してもおかしくない衝撃であった。しかしよりにもよって今このタイミングで、しかもエンジンが破損したというのは余りにも運が悪すぎる。
いや、奴の知能を考えると、もしかしたら意図的という可能性も捨てきれないが。いずれにせよ同じ事だ。
「クソ!! あともう少しなんだぞ! 頼む、あと少しだけもってくれ!」
ナイライ島の海岸はもう既にかなり大きくなってきている。あと数分で到達できる距離だ。ウィレムは悪態をつきながら必死でエンジンを回すが、ボートは無情にもどんどん速度を低下させていく。
当然だが再びボートの追跡を再開させたあの化け物との距離は、それに比例して短くなっていく。
(……どうやらここが俺の死に場所のようだ。すまん、レベッカ。俺が生きて戻るという約束は果たせそうにないが、せめてお前達の無事だけは守ってみせる。この4年、本当に楽しかったぞ)
自らの運命を悟ったウィレムはむしろ晴れやかな表情となり、レベッカやアンディ達の無事を心から願った。そしてライフルを再び右手に構えた。
「来い、化け物め! 俺を殺したければ貴様も無傷では済まんと思えっ!!」
獣のような咆哮を上げながら、ウィレムは迫りくる怪物の大きく開かれた巨大な顎めがけてライフル銃を乱射し続けるのだった……
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