第21話 海上の檻

 レベッカ達も甲板に出ると、外には確かにあの趣味の悪いサルベージ船『ディープ・ポセイドン号』の姿が見えた。あの船に乗るのは正直気が進まないが、贅沢を言っていられる状況ではない。


 バージルや乗組員達が携帯用のタラップを用意している。本来は緊急時に船から埠頭や陸地に降りるための物だが、平らにして橋のような簡易通路にも出来る。『ディープ・ポセイドン号』をあのタラップが届くくらいの距離に横付けしてもらって、向こうの甲板に橋を掛けるという訳だ。


 タイロンが無線機を全て壊してしまい携帯も電波が届かずに使えないので、マサイアスが甲板の縁から大声と身振り手振りで向こうの船に残っている船員達に、船をこちらに横付けするように伝えている。その甲斐あって何とか伝わったのか、『ディープ・ポセイドン号』がゆっくりと動き出した。



 そして……異変・・は唐突に起きた。いや、ある意味では今までの不気味な沈黙がようやく・・・・破られたとでも言うべきか。



 こちらに近づいてきていた『ディープ・ポセイドン号』が揺らいだ。海面に波も立っていないのに不自然に揺らいだのだ。


「んん? 何だ、今の揺れはぁ?」


「……っ!」


 マサイアスが怪訝な声を上げるが、レベッカ達は即座にの仕業だと気づいた。それを裏付けるように『ディープ・ポセイドン号』の揺れが更に強くなる。この時点でマサイアスや徐達も異変に気づいたらしい。


「おいおい、どうなってやがるんだ!?」


「あー……マサイアス君。これは、もしかすると……」


 そのうち『ディープ・ポセイドン号』の揺れが更に強くなり、甲板にいた何人かの乗組員が転倒して、大半は手すりなどに捕まって無事だったが、運の悪い者達が一部海原に放り出された。そして……奴が姿を現した。


 海に放り出されてもがいている船員達の下から迫る巨大な黒い影。そして海面が異様に盛り上がり、奴が上半身のみを海面に出すようにして、不運な乗組員達をまとめて一呑みにしてしまった。それは冗談のような光景であり、昨夜とは異なって明るい陽の光の元で見る奴の姿は、ある意味でより現実離れしたCGか何かのような印象を与えた。


 だが……その「CG」は紛れもない現実なのだ。



「な、な、な……」


 マサイアスや彼の部下たちは目の玉が飛び出るほどに見開き、顎が外れたかのように口を開けて、呆然とその光景を見やっていた。まあ無理もない。アレを初めて見たら誰だってそうなる。


「こ、これは……夢、ではないようだね」


 徐や彼の部下たちも同様に驚愕して額を押さえていた。さしもの海千山千の中国黒社会出身の徐も、このある意味で馬鹿げた光景には心底からの驚きを隠せなかったのだ。


 だが彼らの現実を受け入れられない驚愕をよそに、化け物は『ディープ・ポセイドン号』にさらなる攻撃を仕掛ける。船の揺れが更に強くなり、向こうの甲板にいる船員達がひたすら手すりやら何やらに掴まって悲鳴を上げていた。


「……! おいこら、やめろ、化け物野郎が! 俺の船から離れやがれっ!」


 マサイアスが声を枯らして怒鳴るが、勿論それでやめるような奴ではない。それどころか揺れは更に強くなり、そして……


「――――っ!!」


 『ディープ・ポセイドン号』がに大きく揺れて、船尾の部分が高く持ち上がった。下から突き上げているのは勿論あの化け物鮫だ。



 船尾部分が高く持ち上がり、まるで前につんのめったような形となった『ディープ・ポセイドン号』は……縦に一回転してそのままひっくり返った!



 『ディープ・ポセイドン号』はこの『ブルー・パール号』に比べたら小さいが、それでも千トンくらいはあるはずだ。そんなサイズと重量のサルベージ船が縦方向にひっくり返る光景は、目の前で見せられても到底現実のものとは思えなかった。


 船が近くまで寄って来ていた事もあって、凄まじい水しぶきがレベッカ達の元にまで霧雨となって降り注ぎ、船が転覆した際に起きた大きな波のうねりが『ブルー・パール号』を揺らした。


「おお……お、俺の船が……俺の船がぁぁぁぁっ!?」


 だがそんな状況の中でマサイアスは甲板にへたり込んで頭を抱えていた。レベッカは咄嗟に彼に駆け寄って胸ぐらを掴んだ。


「馬鹿、しっかりしなさい! アンタの船員達を1人でも多く助けるのよ!」


「……!」


 彼女の発破にマサイアスは目を瞬かせた。転覆した『ディープ・ポセイドン号』から辛くも逃げ出した船員達が、沈みゆく船から必死に離れてこちらに向かって泳いできているのが見えた。とりあえず彼らだけでも助けなければならない。


 前回の『襲撃』の時にいくつかのロープは鮫に食いちぎられてしまったが、まだ何本かは残っていた。それを急いで海面に投下していく。『ディープ・ポセイドン号』から脱出した船員達がロープに群がってくる。


 それはつい昨日の光景の再現のようにも思えたが、さりとて他に有効な救助方法も思いつかないし、その道具や設備もない。


 そしてやはり昨日の再現のように、哀れな犠牲者達の足下から浮上してくる恐怖の影。凄まじい水しぶきと共に奴が海面から頭を突き出した。それだけで数人の人間がその顎に噛み砕かれた。血しぶきと阿鼻叫喚の地獄絵図となり、海面が赤く染まる。


 殺戮劇を演出した怪物が一旦海に潜ると波が大きくうねる。だがチャンスは今しかない。


「今だ! 早く掴まれ!」


 ウィレムが下に向かって怒鳴る。生き残った船員達が必死にロープに掴まる。何とか残りの全員がそれぞれのロープに掴まる事ができた。


「よし、引けぇっ!!」


 ウィレムの音頭で甲板の男達が一斉にロープを引っ張る。アンディやバージルも手伝っている。勿論社長であるマサイアス自身や彼が連れてきていた社員たちもだ。徐と彼の直属の部下らしい数人の中国人はその牽引作業には加わっておらず、海面を見下ろしていた。



 だが今回はロープを牽引する人数が多いからか、前回よりは速いスピードで引っ張り上げる事が出来ていた。しかしそれでも怪物の次なる攻撃には間に合わなかった。


 奴が再び海面から姿を現し、大きく跳び上がるようにしてロープの一本に食らいついた。当然そこに掴まっていた人間ごと。もう一本のロープに掴まっている者達から悲鳴が沸き起こる。


 怪物が再び海中に没するが、おそらくすぐに次の攻撃に移るはずだ。もう一本のロープの引き揚げが間に合うかは微妙なラインだ。案の定また海面から黒い影が急浮上してくる。このままでは間に合わない。レベッカがそう思った時……


 ――連続した銃撃音。徐の部下の中国人達が、海面を突き上げて再び跳び上がろうとしていた怪物めがけて持っていたライフルを連射したのだ。勿論あの化け物鮫はライフル掃射などで死なない事は実証済みだが、それでも多少の牽制効果はあったようだ。怪物が跳び上がる勢いが緩んで、既にかなり高い所まで引っ張り揚げていた救難者達の所まで届かずに、そのまま弧を描くように海中に戻っていった。


「引き揚げを手伝うだけでなく、奴を妨害する役目もいた方が良いだろう?」


 という徐の言葉も尤もであった。そのお陰もあって、遂に一本のロープのみ引き揚げに成功した。救出に成功した『ディープ・ポセイドン号』の乗組員はたったの3人であった。他は全員海の藻屑と消えたか、あの怪物の腹の中だ。




「……クソが。クソが! クソが! クソッタレがぁぁぁっ!!!」


 マサイアスが慟哭じみた怒りの絶叫を放つ。一瞬にして自身の船が海の藻屑と消えたのだ。その心中は察して余りある。だがマサイアスはレベッカの方に殺意さえ孕んだような目を向けてくる。


「チクショウ、このビッチが! お前のせいだ! お前らがこんな所にいやがるから……!」


「はあ!? 何言ってるのよ!? 逆恨みはやめて頂戴! 勝手に乗り込んできたのはそっちでしょ!」


 レベッカは目を剥いて反論する。こっちが頼んだ訳でもないのに勝手に寄って来てこの船にまで乗り込んでおいて、今の惨劇が彼女のせいだなどというのは明らかに暴論だ。マサイアスは理性を無くしているようだが、だからといって大人しく理不尽な怒りや憎しみを受けてやるつもりはない。


「うるせぇ! このアマ!」


 激昂したマサイアスが殴りかかってくるが、その寸前でウィレムが割り込んで強引にそれを止める。


「やめろ、馬鹿が! それ以上暴れると言うなら俺が相手だ」


「ああ!? 上等だ、クソが!」


 だが怒り狂ったマサイアスはそれでも止まる気はないらしい。その場があわや乱闘に発展しかけた時……


 ――ライフル銃の間断ない銃撃音が空に響き渡った。


「……!!」



「……そこまでにしたまえ、マサイアス君。君の被った損害には心底から同情するが、今は他に優先すべき事柄があるだろう? 即ち……あの化け物をどうやって討伐・・するのか、という事柄がね」



 徐がそう言ってマサイアスを諭す。今の銃撃は彼の部下達の威嚇射撃であった。


「と、討伐ですって? あの怪物を? 正気で言ってるの?」


 レベッカがその場にいた人間たちの気持ちを代弁する。だが徐は肩をすくめた。


「他にどうしようがある? 『ディープ・ポセイドン号』は沈没してしまった。即ち私達は完全にこの船に閉じ込められたという事だ。外部への通信手段が一切ない状況でね。他に偶然この近くを別の船が通りかかるまで待つかね? それまで水や食料が保てば良いがね」


「……!!」


 言われてレベッカはその事実に気づいた。彼女だけでなく、その場にいた全員がだ。そうだ。これで彼女たちは全員ここから逃げ去る手段を失った事になるのだ。徐の言う通り、他の船が偶然近くを通りかかるのを待つのは現実的ではないし、下手したらその船も奴に襲われて難破するかも知れない。


 レベッカはここに来て、あの怪物が何故最初マサイアス達がこの船に乗り込むのを襲わなかったのか、分かった気がした。


「おいおい……まさか奴は俺達を兵糧攻め・・・・しようとでも言うんじゃないだろうな」


 同じ結論に至ったらしいバージルが呻く。恐らくこの『ブルー・パール号』は奴が転覆させたりするには大きすぎ、重すぎるのだ。偶々船の整備不良によって航行不能に陥れる事は出来たが、それ以上の事は流石のあの怪物も出来ないようだ。精々船を揺らすのが限界なのだろう。


 何度かの攻撃を経てそれを理解したあの怪物が作戦を変更したに違いない。勿論全てこちらの推測だが、あの怪物が高い知能を持っている事を考えると、案外当たらずとも遠からずではないかとレベッカは思った。

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