第10話 洋上にて

 南太平洋は比較的気候が穏やかであり、大荒れする事は滅多に無い。それはこのオセアニアも同様であり、フィジーもその恩恵に預かっている。そのためフィジーやその周辺国は漁業や観光業が安定した収入として外貨獲得手段となっているのであった。


 そんな穏やかなフィジー諸島の内海を進む一隻の客船があった。一見ただの中規模客船に見えるが、中は大型魚・・・の捕獲を前提とした造りに改造されている船……『ブルー・パール号』である。


 現在甲板上の手すりに身を預けて、流れていく海の景色を飽きずに眺めている女性の姿があった。ガイド・・・としてこの船に乗り込んだレベッカである。


 彼女らは現在、エンバイロン社という会社に雇われて彼等が海に逃してしまったという実験動物……古代鮫メガロドンの足跡・・を追ってこのフィジー内海を航行している所であった。


 船の縁から海を眺め続けているレベッカの元に、後ろから1人の人物が近づいてきた。


「……俺には代わり映えしない水平線しか見えないが、ずっと見ていて飽きないかい?」


「……! バージル……」


 近づいてきたのはレベッカの元カレ・・・であるバージルであった。今はエンバイロン社の主任研究員らしい。彼に誘われてレベッカは今回の仕事を引き受けたのであった。


「飽きないわよ。この海自体の美しさは勿論だけど、この下に数え切れないほどの命が躍動していて、それぞれが相互に作用しあって生態系を築いてるのよ? どんな芸術作品よりも優れた偉大なるアートだわ。自分達の足の下にそんな世界が広がってるって想像するだけで楽しくならない?」


 レベッカが問いかけるとバージルは苦笑してかぶりを振った。


「やれやれ、君は昔から変わらないな。俺はその海の生命をどんな風に人間に役立てるかの方が気になるがね」



 彼とレベッカは元々はニュージーランドの同じ大学の同じ海洋学部の同級生であった。その時に知り合ったのだ。そして当時は互いに成績や実績を競い合うライバルと言える関係であった。だが互いに意識し合う内にいつしか相手に惹かれている事に気づいたのだ。


 そしてどちらともなく歩み寄って交際するに至った。だが……


「海を役立てるですって? それは傲慢な考え方だわ。私達はこの地球に……海に生かしてもらっているのよ。あくまで今ある自然の生態系を壊す事無く、海が与えてくれる恵みだけに感謝して、それ以上を求めるべきじゃないわ」


「100年前ならそれでも良かっただろうが、生憎今は経済発展、人口爆発の時代で、自然が与えてくれるものを受動的に享受しているだけでは豊かな生活は維持できない。自然の恵みを効率よく引き出す研究は人類にとって必須の命題だよ」


「それで母なる自然を壊してしまっては本末転倒だわ。際限なく豊かさを求めるのはやめて、今ある自然が養える範囲の人口と経済レベルで満足すべきなのよ人類は」


「今も増え続けて豊かさを求め続ける途上国の人間の前で同じ事が言えるかい? 君の論理は結局のところ富める者のゆとりから来る傲慢・・だよ」


 互いに持論をぶつけ合う2人はいつしか睨み合っていた。そして双方とも同じタイミングでそれに気づいて苦い笑みを浮かべた。


「やれやれ、大学時代そのままだな」


「ええ、そもそも何であなたと別れたのか思い出したわ」


 自然や科学に対する互いの考え方が合わずに、結局別れる事になったのであった。そして時を経た今でもその考え方や信念に変わりがない事を互いに確認した。



「この話題はやめよう。今はそれとは別に共通の話題・・・・・がある事だしな」


「賛成」


 レベッカは頷いた。共通の話題。それは勿論、彼女達が今この船に乗っている理由……メガロドンについてだ。


「とりあえず君達のアドバイスに従って東に舵を切っているけど、奴は本当に東にいると思うのかい?」


 既にエンバイロン社の人間達とのブリーフィングは終えており、レベッカはウィレム達とも相談しながら、バージルやエンバイロン社から聞いた情報を元にメガロドンの行き先の予測を立てたのであった。


「勿論確証はないわ。でもあなた達から聞いたメガロドンの生態を聞く限りでは、今向かっているのはそいつが好みそうな環境条件に一番マッチする場所のはずよ。まあ、あなたのあの嫌味な上司・・は納得していないみたいだったけど」


 肩をすくめる彼女の言葉にバージルは苦笑する。彼の上司に当たるタイロン・ベイルは融通の効かない学歴至上主義であり、レベッカ達の事を過激で暴力的な活動家集団と決めつけて、端から見下して嫌悪している様子であった。


 最終的にレベッカがバージルと同じニュージーランドの名門大学を主席・・で卒業している事を説明して、何とか納得してもらったという経緯がある。


「それについては申し訳なく思うよ。彼は少々……浮世離れ・・・・していてね。まあ頭が良いのは間違いないんだが……」


「典型的なお勉強だけが得意な世間知らずって感じだったわね。できれば余り関わり合いになりたくないタイプね」


「まあ広い船だし、彼はただのオブザーバー・・・・・・として参加しているだけだから、余程の事が無い限りはそうそう関わり合いになる事も……」



 バージルがそこまで言いかけた時、デッキの少し離れた場所から何やら人が集まって騒いでいるらしい音が聞こえてきた。怒鳴り声のようなものも聞こえる。2人は顔を見合わせた。


「何だ? 喧嘩か?」


「ちょっと勘弁してよね。見るからに堅気じゃなさそうな人達ばかりなのに、更に喧嘩っ早いって訳? これじゃ私達も安心して乗ってられないわね」


「それを言われると痛いな。君達には絡まないように言ってあるんだけどな……」


 そんな会話をしつつ、とりあえず騒ぎの様子を見に行く2人。声がはっきり聞こえる距離まで来てレベッカは眉を上げた。どうやら2人の男が怒鳴り合っているようだが、そのうちの片方は彼女がよく知っている声であったからだ。


「アンディ!?」


 レベッカは走り出した。騒ぎのもとにはすぐに到着した。そこには何人もの男達が集まって、いがみ合っている2人の人物を押さえつけて制止しているという構図らしかった。そのうちの1人がレベッカの弟であるアンディだった。ではもう1人は……


「この……低能低俗な馬鹿めが! 貴様のような軟派男、ここではなく同じ低能どもが集まって乱痴気騒ぎするビーチがお似合いだ!」


「ベイル部長!?」


 追いついてきたバージルも目を見開く。それは先程も話題に出ていたばかりのバージルの上司であるタイロン・ベイルであったのだ。



「うるさい! 嫌がる女性に無理やり迫るお前は低能以下の犯罪者だろうが! ナリーニに謝れっ!」



「……!?」


 タイロンに言い返すアンディの言葉の内容にレベッカは驚いた。よく見渡すと少し離れた所に顔を青くしたナリーニがいて、震えながらその騒ぎを見ていた。


 その様子を見たレベッカは何となく事態を察した。恐らくあのタイロンが1人でいたナリーニにちょっかいを出したのだろう。で、彼女が大声を出すか偶々アンディが通りかかるかして、ナリーニを助けようとしたアンディとトラブルになったという所か。


 思う所はあるが、とりあえずこの騒ぎを収めなければならない。レベッカは男達がもみ合う現場に敢えて割り込んだ。


「アンディ、何してるの!? やめなさい!」


「……! 姉さん! こいつ、ナリーニを……」


「解ってるわ! でもとりあえず一旦落ち着きなさい! ナリーニも怖がってるわよ!」


「……!!」


 姉の言葉に目を見開いたアンディは、自分を顧みるゆとりが生まれたらしく暴れるのをやめて大人しくなった。


「部長! あなたは何をしているんですか!」


「ホプソン! 私は何もしとらん! ただあの女に声をかけただけだ! そしたらこの馬鹿が勘違いしていきなり殴りかかってきたのだ! 私は悪くない!」


 タイロンが自己弁護に喚く。レベッカは咄嗟にナリーニの方を振り向くと、彼女は青い顔のまま首を横に振った。それだけで充分だった。


 弟はいきなり人に殴りかかるような短気な性格じゃない。普段はむしろもう少し激しい性格をしていてくれればと思うくらいなのだ。そのアンディが人を殴るなど、それだけで余程の事があったのだと推察できる。



「……弟達には後で詳しい事情を聞くわ。でも警告しておくけど、もしまた同じような事が起きたら私達はこの仕事を降りるわ。どんなに報酬を積まれてもね」


 今は状況がはっきりとは分からない。アンディがタイロンを殴った事も事実なので、一方的に彼等だけを糾弾する訳にも行かない。とりあえずこの場はそれで収めるしか無いだろう。バージルが神妙な表情で頷いた。


「ああ……肝に銘じておくよ。本当に済まなかった。彼には俺からよく話しておく」


「そうして頂戴。言っとくけど彼は運が良かったのよ? もしナリーニにちょっかいを出している現場を見たのが弟じゃなくてウィレムだったら、今頃彼の怪我はこんな物じゃ済まなかったでしょうよ」


 ウィレムはブリッジの方で『船長』と何か話していてこの場には不在であった。身長190センチ以上、体重120キロを超えるウィレムは、しかも格闘技の経験もあるので、彼に殴られたらタイロンなど木の葉のように吹っ飛ぶことだろう。


 レベッカはそう警告しつつバージルにこの場の処理を任せて、アンディとナリーニを伴って与えられた船室へと戻っていくのであった。

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