満月がいっぱい ≪ この探偵は「ち」を愛でる ３ ≫

2 お屋敷でドーナツを

　その家の門はとても立派で、高さがあって屋根もある。そこから高さは半分程度だが、白（しろ）漆（しっ）喰（くい）の塀（へい）があり、ぐるりと敷地を囲っている。塀にも瓦（かわら）葺（ぶき）の、小ぶりな屋根があった。どんな金持ちが住んでいるのだろう、と思わず立ち止まって見てしまう人も少なからずいそうだ。

「数寄屋（すきや）門って言うんだよ」

隼人（はやと）がぽつりと言った。

　そんな家に朔（さく）と満（みちる）は住んでいた。二人のために隼人が用意した住処（すみか）だ。５００坪くらいはありそうだ。

　昭和の時代、戦後の混乱に乗じて手に入れたって隼人は言っていた。隠れるように、人（ひと）形（なり）の時でさえ、近所に姿を見せずに人狼兄弟はここで暮らしている。だから近所は空（あ）き家（や）と思っている。何十年も変わらぬ姿なのだから、そうする必要があるはずだ。

「バンちゃん、ボケーっとしない。ほら、行くよ」

　隼人が解錠する間、屋敷の立派さに圧倒された僕は、ぼおっと門や塀を眺（なが）めていた。隼人は、木造の門扉の横に取り付けられた通用口なのか、小さな、やっぱり木造の引き戸を開けて中に入った。慌てて僕も引き戸をくぐる。すると隼人が施錠した。

　尻尾（しっぽ）があるんじゃ買い物にも行けないだろうと、来る途中、いろいろと食料品や飲料を買い込んだ。かなり重くなったけど、持っているのはもちろん僕だ。僕一人だ。隼人は手ぶらで、少しも持つ気なんかサラサラない。

　ちなみに支払いも僕だ。いつでも僕だ。隼人がお金の管理なんかできるはずもなく、たぶんお金の使い方だって知ってるかどうか、怪しいもんだ。もとより隼人はお金に価値を感じていない。人間に紛れて暮らしてるんだから、少しは価値を感じろよ、と、いつも思う。いつも、思う……

　門を入ると飛び石のアプローチになっていて、玄関も間口（まぐち）が２間（けん）ある。引き戸を開けると上（あ）がり框（がまち）に朔が座り込んでいた。

「朔、来たよっ！」

隼人が微笑む。

「うん……」

いつも強気の朔が、情けない顔で隼人を見上げた。それでも、上がり框の上に見える、ふさふさした尻尾を少し揺らした。

　広縁を通って奥に行く。純和風の屋敷はよく手入れされているけれど、かなり古いもののように思えた。そして僕を驚かせたのは、広縁から見える庭の景色だ。

　漆喰塀の際（きわ）にこそ植栽があるものの、庭には何もない。外観や、建物の感じから和庭園が広がるものと思ったら、芝（しば）が植えられているだけだ。

　じろじろ庭を見る僕に、隼人が

「フェンスのないドッグランだよ」

と笑った。なるほど……朔と満が駆けまわって遊ぶために、隼人はこの屋敷を用意したんだ。

　満は畳（たたみ）の上にカーペットを敷き、そこにソファーやローテーブルを置いた部屋にいた。隅（すみ）っこに膝（ひざ）を立てて腕で包み、そこに顔を伏（ふ）せている。泣いていたんだと思う。

　隼人が声を掛けると、パッと顔をあげ、

「隼人ぉ～」

と、隼人の名を呼んで、やっぱり少しだけ尻尾を振った。

　隼人はソファーに座ると、買ってきたドーナツを食べると言い出した。３歩歩けば忘れるくせに、甘い物の事は忘れない ―― 違った、あれは確か鶏（にわとり）だ。ハヤブサは貯食する。隠した場所を忘れたりしない。そうか、食べ物の事は忘れない、ってことか。

「バンちゃん、朔に聞いてコーヒー淹（い）れて」

朔が頷（うなず）いて、キッチンに案内してくれた。

　ところが、

「たっぷり砂糖を入れるんだ。コーヒーメーカーで淹れたって判るもんか」

と、朔がコーヒーメーカーをセットした。すぐにぼこぼこ音がし始める ―― 朔の手、指先が尖（とん）がっている。それって……

「少しずつだけど、人（ひと）形（なり）が解（と）けてるようなんだ」

　僕の視線に気が付いて朔が言った。

「このままじゃ、狼の姿になったまま二度と人（ひと）形（なり）に戻れないんじゃないか。そしたら隼人と一緒にいられなくなるって、満は泣いてる」

朔・・・朔も同じ不安を抱えているんだろう？　そう思ったけれど、僕は何も言わずにいた。

「なにこれ！」

　朔の予測に反して、コーヒーメーカーのコーヒーだと、すぐ隼人にバレた。

「ボクはね、バンちゃんが淹れたコーヒーが飲みたかったんだよっ！」

「隼人、たまにはこれで我慢しろよ」

と、朔が言うと

「なに？　朔は心配して駆けつけたボクに、コーヒー１杯ご馳走してくれないつもりなんだ！？」

「えぇと、それ、バンちゃんが淹れたんだよ？」

　朔、それ、嘘。違うって、最初に認めてるよね？　我慢しろって言ったよね？

「ボクを騙（だま）せると思うなっ！　バンちゃんの匂いがしない。これはコーヒーメーカーで淹れてる！　朔、本当にワンちゃん？　コーヒーで鼻がおかしくなってる？」

　隼人、それ言っちゃダメ、朔を『犬』呼ばわりしちゃダメ。

「隼人、怒んないで。ミチルのドーナツ、あげるから。はい、隼人の好きなオールドファッション」

唸（うな）りだした朔を抑えながら満が隼人にドーナツを差し出す。

「ホント？　貰っていいの？　ミチル、今日も可愛いね」

一瞬で隼人が機嫌を直す。

　隼人、おまえ本当に神なのか？　いや、神はもともと怒りっぽくって気紛（きまぐ）れか。

　朔の話によると、こないだ満月城 界隈（かいわい）に出没していた妖怪『夜行（やぎょう）さん』の正体を暴（あば）いて、夜行さんと化していた怨霊（おんりょう）を成仏（じょうぶつ）させた日から、不調が出始めたらしい。

　あの日、帰ってから二人して普通に就寝したけれど、目が覚めたら３日も経っていた。そのあとも、なんだか疲れが取れないと思っていたら、お尻がムズムズし始めて、尻尾が勝手に出てきたらしい。さらに手足の指が尖がり始め、心なしか体毛も増えた気がする……

　そう言えば、あの満月の夜、満も朔も狼に変化（へんげ）しなかった。いつもなら満月を見ると、本人たちの意思に反して狼になり大暴れするのに、あの日は人（ひと）形（なり）のまま隼人の指示に従っていた。

「うーーん……何であの夜、二人は狼にならなかったんだろう？」

深刻な顔で隼人が言う。すると朔が

「おい、隼人。隼人が大丈夫だって言ったんじゃないか」

と、慌（あわ）てる。

「ボクが？　朔、ボクのせいにしないでよ」

言い募ろうとした朔に、そっと満が耳打ちする。

「隼人、忘れちゃったんだよ……」

満の顔を見て、朔が青ざめる。

　見かねて僕が

「隼人、何とかしてあげてよ」

と言うと、

「バンちゃん！　ボクが二人を見捨てると思ってるんだ？」

と、例によってお冠（かんむり）だ。

「とりあえず、この屋敷に異変が起きてないか確認する。もっとも、何かあれば、ボクがとっくに感知しているはずだから、念のため、ね。バンちゃん、行くよっ！」

って、僕も一緒に行くのかい？　まだ、ドーナツ１個も食べてないぞ？

　怒らせるのも面倒なので、渋々（しぶしぶ）隼人についていく。

「大丈夫、バンちゃんの分、食べとくから」

と、満がニッコリ請（う）け負（お）った。

　隼人はさっさと屋内を回り、庭に降りた。

「さすが狼の巣。ネズミどころかゴキブリ１匹いやしない」

「どこかに隠れてるんじゃないの？」

「天井裏はもちろん、床下もくまなく見ている。ボクが見落とすはずもない」

と、クスリと笑う。

―― 忘れてた。隼人はウジャトの目で見ていたんだ。全てお見通し。朔がコーヒーメーカーを使ったのもお見通しってわけだ。嘘つきめ、なにがバンちゃんの匂いがしない、だよっ！

「あ……」

　急に隼人が一本の木に駆け寄る。椿だ。

「メジロの巣だ」

「メジロって人狼に悪影響があるの？」

すると軽蔑しきった目つきで隼人が僕を見る。

「バンちゃん、ただのメジロにそんな力があるわけないじゃん」

「……」

　泣きたい気分で椿を見ると、枝の隙間（すきま）の葉陰（はかげ）に壺（つぼ）のような塊（かたまり）が見える。きっとあれがメジロの巣なんだろう。隼人の趣味の一つに、鳥類の子育て動画の鑑賞があったことを思い出した。

　中でもハヤブサの子育て風景は大好きで、

「うわぁ、真っ白け！　モコモコ！　ふわっふわっ！……カラスに食われるなよ」

なんて、ぶつぶつ言いながら食い入るように見ているときがある。

　きっとメジロの巣にヒナがいないかと期待したんだろう。でもあいにく今は営巣の時期じゃない。隼人の関心はすぐメジロの巣を離れた。

「塀の外に呪（まじな）い札（ふだ）が貼られているわけでもないし・・・なんでだろう。バンちゃん、わかる？」

「僕に判るはずないやん」

「聞いたボクが馬鹿だった。ごめんね、バンちゃん、無知なのを自覚させちゃって」

　もう、ヤダ。早く家に帰りたい。家に帰ってクローゼットに籠（こも）りたい。隼人が僕のために、わざわざ工務店に注文して作ってくれた、あの居心地のいいクローゼット……

「バンちゃん、妄想してないで、帰るよ。早く来ないと置いてくよ」

「はいはい、待って」

　一人じゃ僕は帰れない。初めて来たんだ、隼人について来たんだ、僕が帰り道を覚えているはずない。３歩歩けば、なんて、隼人を馬鹿に出来ないね ―― 涙。