第三十九話 真昼の閃光4
オリヴィアは湯気の霧に隠れることを選んだ。通路は広くないが、オリヴィアの矮躯であれば十二分に動ける。異様な量の汗が体を伝う感覚は不愉快だが、致し方ない。
「くそがっ、ちょこまかと!」
ヒュリアスは白仮面の下に憤怒を浮かべ、懸命に火を放つ――だが、どれも有効打にならない。
小さな火は降り続ける水で掻き消され、命中軌道に残った火もあっさりと回避されてしまう。狙いを絞ろうにもこの水蒸気の中、動き回る少女を捉えることは困難。範囲攻撃を行えば楽だが、いたずらに大きな火を出せば消耗するばかりだ。
それに、あまりに強い火を出せばオリヴィアが死ぬ危険性もある。生け捕りの指示があると語ったのは、他でもないヒュリアス自身なのだ。オリヴィアもそれを承知で立ち回っていた。
霧の切れ目からオリヴィアの目が覗く。鋭くまなじりにこもった殺気を見て、ヒュリアスは思わず身を捩った。
瞬間、弾ける火薬の高らかな音色が鳴り響く。
「っ、この……!」
「掠っただけですか。やはり胴体を狙うべきですね」
ヒュリアスが何よりも恐ろかったのは、少女の冷徹さだ。人を撃つのに迷いがない。引き金と発砲にわずかの躊躇もないのだ。この濃い水蒸気の中では、オリヴィアとてまともに見えていないはずだが、照準がブレないのである。
数発の発砲に過ぎないが、耳、脇腹、頬――とっさに回避しなければ致命傷だった弾ばかり。
このままいけば、間違いなく勝てる。無慈悲に手か足を打ち抜いて、そのまま能力で眠らせる事ができる。炎は危ないが、至近距離で火を放てば、オリヴィアの命を奪ってしまう以上、ヒュリアスは大きく動けない。
だが、それは"このままなら"の話である。
「……手加減ができるような相手じゃねぇ、か」
「む」
戦うために訓練を積んだ者同士で殺し合いとなれば、もう勝敗など関係ない。
「殺す気で行くぞ、クソガキ」
――炎。
少女は咄嗟に飛び退ったが、少し遅い。肌を焼く熱にかすかに呻きながら、でたらめに引き金を引くが、弾はたちまち炎の中へと消えていくほかなかった。
これは、確かに殺す気の出力だ。ヒュリアスの隣で燃える、人間ほどの大きさの火を見て、思う。そうなれば、明らかに出力、そして体格で負けているオリヴィアでは対抗もできない。
本気でくればあっさりと殺される事など目に見えている。
だからこそ、それを待っていた。
「まぁ、いいさ。命と作戦を優先しろって言われてるしなァ。優先と絶対を間違えちゃいけねえ。後で怒られっちまうかもしれねえけどよぉ……」
オリヴィアは意識を集中させ、ヒュリアスに向き合い、そして銃を下ろした。先ほどの発砲でほとんど撃ち尽くし、残弾は残り一発。マガジンも手元にはない。壁面をたたけばまだ出てくるだろうが、白面の炎がそうはさせまい。
「んで? 投降する気にでもなったのかよ?」
「まさか。あなたこそ、投降はまだ受け付けていますよ」
「言ってろクソガキ……」
炎が膨れ上がっていく。通路を覆い尽くす熱が、スプリンクラーの飛沫を受けてなお強い。これだけ強力な現象への感応能力は極めて珍しい。
たいていはオリヴィアのようにライター程度の火をともすのが精一杯だ。才能もあったろうし、それ以上に訓練や実践も重ねただろう。
彼女に落ち度があったすれば二つ。
不用意な言葉で隙を作ったこと。それから――オリヴィアが何者であるかを、忘れていたこと。
オリヴィアが何事かをつぶやく。そして、炎が放たれる寸前。
「燃え……ッ!?」
床が暴れ出す。少なくとも、彼女にはそう思えた。
何がと考えるような暇もなく、ヒュリアスは空中へと投げ出され、そのまま壁へと叩きつけられる。短い滞空時間ではあったが、防御姿勢も整わない状態であれば、人間の骨などたやすくへし折れるものだ。
とくに、彼女は腕を下敷きにする形になってしまった。左腕の骨は折れたか、そうでなければ罅が入っていることは間違いない。
そんなヒュリアス目掛けて、オリヴィアは容赦なく蹴りを叩き込んだ。大の大人一人を気絶させられる蹴りだ。それは枯れ枝のように左足の骨を破壊し、数歩分を吹き飛ばしてみせた。
「が……ァ……!? て、め……ッ!」
「勝負あり、です。まぁ、これが真っ当な勝負であれば、反則負けもいいところでしょうけれど」
苦痛と怨嗟の叫びを前にしながらも、少女は冷静だった。
オリヴィアは何をしたのか。その答えは、
飛行戦艦は停泊のため、特殊な重力場を発生させる錨を必要とする。普段は艦内の反重力炉を、電子的に制御することによって艦のバランスを保っているが、炉が止まっている間は、地面に打ちこまれた重力錨がそれを代行するのだ。
重力錨そのものは艦内設備とは別の動力で稼働する。逆を言えば、艦内の機器系統からは半ば独立しており、感応能力による直接操作が容易なのである。
そしてオリヴィアはそこに、足の先から艦内に巡らせていた精神感応能力の手を突っ込み、いじくり回した。ほんの一瞬とはいえ、その行為はこの艦が水平を保つための足場を崩したにも等しい。
突然、バランスを崩しメトロノームのように揺れる船に――つまりヴァルカンドラそのものに、ヒュリアスは弾き飛ばされたのである。揺れを予期しているオリヴィアは、滑落防止用の取っ手を掴んで無事であった。
艦内のクルーにも被害を受けたものはいるだろう。だがそれは些細な問題だ。責任感の鎧は、冷酷にそう告げた。
その瞳に、人間的な情など一切浮かんでいない。帝国軍人。今のオリヴィアは、まさにそう呼ぶべき機械であった。
「降参をおすすめしますが……その様子では無理そうですね」
「……」
そもそも、感応能力者の拘束は極めて難しい。気絶させれば話は別だが、輸送にしても手間がかかる。なにせ、相手は無手だろうと問題なく能力を使えるのだ。
下手に近づけば手痛い反撃を喰らいかねないし、最低限の感応能力でも手錠を外すぐらいの事は出来る。長時間捕えておくのであれば、特殊拘束具を必要とするだろう。
手間に見合わない。リスクが大きい。オリヴィアはそんな理由のもと、殺害を是とした。
「……ころ、せよ。撃たない、なら……自分でやるぜ」
銃を再び持ち上げる。残弾は一発だが、人を殺すのに弾の一発でもあれば足りる。先ほどまでは能力による防御があったが、苦痛によって集中を乱された今、まともに感応能力を発動することは出来ない。
自分の動作がひどく緩慢だった。狙いをつける目がぼんやりとかすみ、引き金に掛けた指が重い。
殺さねばならない。殺さねば害となる。分かっていても、怖いのだ。誰かを殺す事は怖い。オリヴィアに残されていた感情が叫んでいた。
――今更か? あれだけ殺そうとしておいて?
――今更か? あれだけ殺しておいて?
それを責任感の鎧が封殺する。
「帝国軍人法に基づき……拘束に従わない感応能力者であるあなたを、殺害する義務が、私には」
「言い訳は、それだけか?」
「……」
「やれよ。……殺せよッ、この臆病者が!」
オリヴィアはふと、自分の手が震えているのに気づいた。気づいたが、もう自分では、どうしようもなかった。
心の中で膨れ上がりつづけた自責の念は、もはや彼女自身ですら覆い尽くすほどのもので。何もかも燃やし尽くすような絶望の中で、彼女の指に力が宿る。ギリ、と引き金が引き絞られた。
だが果たして、弾丸が発射される事はなかった。それより先に、銃口を無理やり引き下げる手があったからである。
「もう、やめろよ。やめてくれ」
振り向くとそこには、避難していたはずのラインハルトが、泣きそうな顔で立っていた。
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