第二十三話 雨と工具3

 あれからきっかり二週間。時計はウェディングドレスのごとく完璧な梱包を伴って、オリヴィアの手元に返ってきた。


 長年の使用によって擦り減ったり傷ついたりしてどうしようもない部分はあれど、表面は鏡のようにピカピカで、新品同様――いや、それよりもずっと輝いて見えた。

 時計の針も、以前までの停滞が嘘のように鮮やかに動き始め、刻まれる時の舞踊が規則正しさを伴って揺れる。その歩みを止める気はないと、そういわんばかりの勤勉さである。

 まこと良き腕だ。性格やこだわりの強さには"難あり"の判を押さざるを得ないが、素人のオリヴィアにも、また仕事があれば頼もうと、そう思えるだけの出来であった。


 とはいえ、あの職人は長生きできないだろう、とオリヴィアは思う。どれだけの金子を受け取ったところで、それが定期収入でなければ、ただのあぶく銭に過ぎないのだから。

 そして人間という生き物は、あぶく銭で生きながらえることは出来ても、あぶく銭だけで生きていくことはできないものだ。


 天を仰ぐ。思い浮かぶ。仕事に真摯で、偏屈な職人の顔。家族を大切にしたいと思う、気弱な部下の顔。


 何かで助けになりたい、とは思う。だが、いったい何ができるだろう。少女は黙って目を閉じた。

 これは軍事どころか国家の問題である。戦役後のずさんな補償から端を発したことなのだから、本来であれば国家の手によって救うべきなのだ。その規模でなければ救えない、と言い換えてもいい。

 個人がどれだけ踏ん張ったところで、救えるのは一人二人。そして、救っても見逃されるのは肉親程度の人間だ。

 オリヴィアは軍人であるから、どこかに肩入れしてしまえば、それは"癒着"と捉えられかねない。個人の問題を超えて、にされかねないのだ。


 出来ることは個人の範囲を超えられないのに、しがらみばかり大きくなる。ため息が重く部屋を漂い、ぎぎい、と椅子が嫌な音を立てた。


「……母様。私に、何ができるでしょうか」


 言葉の雫がこぼれた。写真立ては何も答えない。ただ、思い出の中の母の顔が、にっかりと笑っていた。夏の川を思わせる、涼しくもあたたかな笑み。厳格な父も、高慢ちきな兄も、不慣れそうに、けれど確かに笑っている。

 母の手にはオリヴィアがいた。まだ赤子のオリヴィア。まだ夢を見ていた、小さな小さな自分。

 思わず手を伸ばす――その時、写真立てが揺れて、ぱたりと倒れる。ハッとして椅子から起き上がったが、幸い、写真立てに傷はない。

 そして倒れた拍子に、その下敷きになったいくらかの紙が、ぱらりと彼女のひざへと落ちてきた。


 便箋だ。南部特有の太い字で、あれこれと季節の挨拶や近況が書かれている。母方の親戚の方から以前送られてきた手紙であった。

 帝国と南部連邦は未だ確執が大きく、そのため彼ら親戚と一度も顔を合わせたことはない。ないが、それでも彼らには、家族の情というものがあるのだろうか。季節が変わるたび、こうして手紙を送ってくれる。


 オリヴィアも筆まめなたちではないが、家族の一人として認められていることに悪い気はせず、こまめに返信していた。最近はそれも軍務で滞っていたが、それでも遠縁からの手紙は変わりなく送られ続けている。

 この手紙も早朝に届いたもので、これから返信を書こうとしていたのだ。なんのけなしにそれを手にとって、読む。


 季節の挨拶を飛ばして、軽い詩が挟まれ、それからようやく内容が始まる。これは帝国における手紙の作法としても一般的であるが、南部の方は内容の前に挟まれる詩が少し長い。

 さて内容はといえば、シンプルなもので、端的に行けば人手が足りないと嘆く声であった。


 帝国は南部連邦が武装蜂起することを常に恐れており、それ故に男手を奪って帝国軍に入れ、軍需工場を設置しないなど、そもそも戦力そのものを持たせないようにしてきた。

 昨今はその待遇も多少改善されつつあるとはいえ、いまだ南部に課せられた税や軍役は重く、それが南部と帝国との軋轢をさらに深めているのだが、それはひとまず置いておく。

 問題なのは男手だ。農家、軍人、商人、どの産業においても男手は欠かせないが、特に問題なのは職人だ。


 農家も商人も、女手でもある程度は代用でき、規模によってはそれだけでも事足りる。軍人についても、今のところはひとまず帝国の支配下にあるのだから――矜持が許すかどうかはともかく――帝国軍に任せておけばいい。


 しかし、職人というのは一子相伝だ。そうでなくても家単位であり、上より継がれ、下へ渡していく。そして家名を継ぐのは一般的に男であり、そのため職人の多くは男なのだ。

 男手を根こそぎ持っていかれ、家系ごと技術の途絶えた職人も少なくない。女系職人を育て技術を継いだ家もあるが、やはり多数派とは言いがたかった。


 いくらか散見される帝国領からの引き抜きを匂わせるような文言は、軍の寮へ至るまでに検閲されていないあたり、冗談なのだろうか。

 仕事をためておくにも限度はある。人手を増やそうにも、機械は勤勉に動き続けてしまうのだから、いずれ限界は来る。そうなったとき帝国に依存したくはないが、自力での解決は難しい。南部連邦の本音はそこにある。


 そこでオリヴィアに、一つの思いつきが浮かんだ。


 電撃的なものではない。だが、どうしようもないとグダグダしているよりは、余程状況を改善できるはずだ。帝国にとっても、南部連邦にとっても。

 あれはどこにしまっただろう、そんな思考よりも先に手が動いて、引き出しの中に伸びる。随分使っていないものだから、多分奥の方に――ぼんやりとした考えの中、ガサゴソと引き出しを探る手が、目的のものへ至る。

 便箋だ。ほとんど無地の質素な品である。封筒もあった。


 迷いはあった。だが、こうするべきだという確信もあった。


 ハッキリ言って、オリヴィアは人を頼るのが苦手だ。人に頼るなと、常日頃から押さえつけられて育ってきたことに加え、責任感が強い性格も災いした。

 誰かに責任を押し付けることになるのではないか。自分が背負うべき責任はがどこかにあるのではないか。そういうことに過敏になり、臆病になり、なにもかも自分でやらねばならないような気持ちにいつも襲われ、心の休む暇がほとんどない日々。

 なまじ多才であったことも、そういった有り様を加速させていた。


 だから、こうして筆を執っていても、指は時折止めてしまう。迷い、ためらい、やはりやめようと筆を置くこと二、三度。


 自分一人で出来ることは少ない。そう認めてしまうことは、彼女のつちかってきた責任感に対する反逆だ。

 助けを求めようとする心を押し殺し、抑えつけて生きてきた彼女の責任感は、いまや重石の領域を遥かに超えていた。それこそ、を丸ごと背負うような重圧が彼女にのしかかっている。

 それでも、手を伸ばしたいと思う心が、重圧の最中で迷う指先を推し進めて、とうとう文を完成させた。以前のようなそつのない返信とは違う。ほとんど報告書のような、飾りのない文体。それが、今の彼女の精一杯であった。


「これで、いいのでしょうか……」


 誰にともなく呟くと、家族の写真が再び目に入った。皆笑っている。そういえば、滅多に家には帰ってこない祖父も、この写真にはいるのだ。しろがねの髪に太陽の光を映して、にかりと笑う好々爺。

 "進みなさい。進みたいと思う方に進みなさい"。祖父は口を酸っぱくして言った。それはおそらく、若い頃自由に振る舞えなかったことの反動なのだろう。その境遇は、やはりオリヴィアに少し重なっていた。


 ――大丈夫。オリヴィア、君は賢い子だ。祖父の声が、オリヴィアの脳裏をよぎっていく。


 ――進むべき道が、つかみ取るべき善が、ちゃんとわかる子だ。だから安心して、堂々と生きなさい。もし困ったら、もし迷ったら、こう口に出しなさい。


「……今持つ全てを投げうっても、案外心臓は動いている。そうなのですよね、祖父おじい様」


 オリヴィアは呟いて、手紙を封筒にしまい込んだ。エーレンハルト家の紋章が確かに刻まれた蜜蝋は、果たして静かなる決意の証となった。




 さて、南部は職人不足に困っている。そんな場所の立場ある人物へ、オリヴィアが出した手紙の内容は、こうはじまる。


「是非一度、帝都にいらしてください。腕があり、しかし仕事がない人が大勢いるそうです。たとえば、私の時計を直してくださった方は――」


 結果が出るのはいつになるだろうか。その結果帝国の職人が少々減った所で、オリヴィアには預かり知らぬ所である、と彼女はいたずらっぽく笑った。

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