第二十二話 雨と工具2
いくらかの逡巡があった。マルナスは先ほどよりも挙動不審になり、口を開いては閉じるという奇行を始めた。言うべきか、言わざるべきか。迷っている様子に見えた。
無理なら言わなくても、とオリヴィアは言うが、マルナスは黙って頭を横に振るばかりだ。無理強いする気もなかったのだが、それほど言い難いことなのか? 少女は首をかしげるほかなかった。
ただ、所在もなく雨を眺めているうちに、マルナスの動きが少しずつ落ち着いていった。大きく息を吸っては吐いている。わかりやすく緊張はしていたが、しかし、先ほどの今にも爆発せんばかりの挙動よりは随分マシになっていた。
「え、と。ま、まず艦長の案内は、その、大丈夫、です。しっかりした予定があったわけではな、ないので」
「そうでしたか。……では何をなさっていたので?」
「し、親戚回り、です。……艦長は、その。帝都の情勢をご、御存知ですか?」
情勢、とオリヴィアは口ずさむ。大まかに把握はしているつもりだが、確信というほどのものはない。なにせ、帝都は毎日毎日、北から南まで更新が続いているといっても過言ではないのだ。
十年もたてば、帝都は刷新されるのだ。古くとも良い物、強く伝統的なものだけが残り、そうでないものは淘汰される。
弱肉強食。文化的な帝国人の都を指すには、少々物騒な単語であるが、まさにこの四文字が帝都の商業事情を示すにはふさわしい。だから、彼女もそのすべてを網羅しきることは出来ていなかった。
「シュ、シュミット家は、職人の家です。く、車の整備から、大工まで……たくさんの道に分かれてい、いますけど」
ここもそうです、とマルナスは言った。時計職人の一派だと。しかし、そうかと納得するには、少しさびれ過ぎている気もした。
職人というのは、生涯続く仕事である。いくら社会や時代が終わり、あるいは変わっても、連綿と続いていくものだ。彼らが積み重ねていく血と技は、帝国の歴史を織りなす石レンガの一つなのだから。
そして歴史が長いということは、それだけかかわっている人間が多いということだ。依頼主、下請け、組合による横の連携――"つながり"という点において、職人は強い。
それがここまでさびれているというのは、単に立地や客層、店主の問題というわけでもあるまい。
その考えにいたることを知っていたかのように、マルナスは言葉を続けた。
「でも……前の戦役で、男手はほ、ほとんど抜かれてしまったので。その間に破産したりも、持ち崩した家も、あります」
「戦時補償や徴兵に際した保険は受けたのですよね?」
「は、はい。でも、失った顧客や仕事はも、戻ってきませんから……」
そういうものか、とオリヴィアは渋い顔をした。実際のところ、カンテブルク戦役の終結当時において、帝国が行った補償はあまり満足なものだったとはいいがたい。大規模な徴兵事業は軍事費を圧迫し、失われた資産には急速な補填が必要不可欠だったのだ。
なにせ
結果として削られたのは、戦時における徴兵で、商業的な損失を被った人間への補償だったのである。
無論、一定の基準や契約に基づいて最低限のことは行われ、多くは救われたが、金がすべてを救えるわけでもない。こうして十全とは言えなかった例も多くある。
未だ、戦争の傷は深い。それは体や心のものだけでなく、生活そのものに与えたものもそうだ。
「ここのお、大叔父さまも徴兵されたんです。弟子も取ってい、いなかったので、仕事を他に取られてしまって……」
「このありさま、と」
仕事は出来るが、仕事がない。ないものは出来ないので、金が出ない。
そうなるともう宣伝に力を入れるなり、支出を減らすなりといった商業的な方向での努力が必要だが、えてして職人というのはそうした小細工を嫌う。仕事を見てほしい、認めてほしい一方で、自分から売りに出すのは苦手なものだ。
やせ我慢といえばそれまでだが、"獅子は飢えても虫を食らわず"とも言う。つまり、
「……さ、佐官になって、お給料が増えましたから。休みのたびにす、少しずつ、仕事やお金を渡したりしてます。でもやっぱりげ、限界はあります」
「まぁ、そうでしょうね。
金を与えているだけで平穏に生きられるなら、帝国と王国は笑顔で手を取り合っていることだろう。だがそうではないのが人の世の常である。
まして、佐官の給料はたしかに一般職業と比べるとかなり高いが、あくまで一軍人の領域をはみ出ることはない。生活費を払い貯蓄をして、そのあとに残るのはいかばかりか。
少なくとも、仕事がない人間を十人二十人養えるような、大きな額ではないことだけは確かだった。
まして、一時生活が楽になったとて、その日その日だけ生きていればいいというわけでもない。自分で金を稼げなければ、根本的な解決にいたることは出来ないのだから。
マルナスの行いを愚かとは断じられない。だが、きっと無駄になってしまうことの方が多いとは、思う。オリヴィアは複雑な顔のまま黙り込んでしまった。
そんな折に、奥の扉が開いて、時計と紙を手に老人が戻ってきた。神経質に整えられた紙の束は、おそらく部品表だろう。値段らしい計算の跡も見えた。
「見積もりが出たぞ。二週間はもらうが、直せる。どうする」
「それでお願いします。……ずいぶん、安いですね」
突き出された紙をパラパラとめくって、オリヴィアが言う。さすがに細かい部品の値段まではしらないが、それでもそれなりに高い時計だ。部品が安いということはあるまい。以前修理に出した時計屋でも、老人の請求より一回りは大きい額だった。
安物を使ってごまかそう――そんな魂胆があるようには見られない。自分の飯を削ってでも時計をいじってそうな老人だ。むしろ、修理のためにいくらでも法外な値段を吹っかけて来そうな雰囲気があった。
老人はフン、と鼻を鳴らした。
「いい時計だ。それに、下手くそだが丁寧に整備されてる。気分がいい壊れ方なんだよ。理由なんぞ、それで十分だろう」
「はぁ……そういうものですか?」
「そういうものだ」
もっともらしく頷く老人をみて、オリヴィアは何も言わなかった。
職人の心にはいいだろうが、それを眺めることになる周囲としては、到底受け入れられる態度ではあるまい。実際、マルナスは何かを言いたげな表情をしていたが、口の方は堅く引き結んでいた。
もともと、あまり人にものを言えるたちではないのだろうな、とオリヴィアは思う。吃音であることもそうだが、そもそも本質的に、あまり強靭なたちではないのだ。
実際、軍人として勤務していたとはいえ、彼女の基本は後方勤務――軍お抱えの整備士の一人というべき存在であった。それが紆余曲折あって戦役を乗り越え、ヴァルカンドラに乗っているのはまさしく奇運であるとしか言いようがない。
そんな彼女であるから、こうした職人肌の親戚に何を言えるでもなく、ただ支援という消極的なやり方でしか助けようがなかったのだ。
彼女がもう少し、気の強い人間であったならば、案外あっさりと解決した話だったのかもしれない。ままならないな、と思いながら、オリヴィアは明細書に目を落とした。
それから、その冒頭に記載された店名を眺めて、頭にしかと叩き込んだ。
「ま、多少高くなってもいいので、出来る範囲でお願いします。長持ちするように」
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