第二十一話 雨と工具1

「……あちゃあ……」


 休日を何日が過ごしたある日のこと、オリヴィアは自室で額に手を当てていた。


 なぜかといえば、少女の愛用していた時計が壊れたのである。何年も使っていたが、いくら処置しても動きそうにない。先日雨に濡れたのが致命傷になったのだろうか。

 かちり、かちりと音を立てて必死に動こうとはしているものの、秒針は震えるばかりで、もう昼間も近いというのに、短針は四時ごろを指したままだ。長針だけは正常に回っているが、それがかえってもの悲しさを感じさせる。


 こまごまと油をさしたり、出来る限りの整備はしてきたつもりだったが、もし内部機構の問題であれば、門外漢のオリヴィアにはもはやどうしようもない。

 どうするべきか、と窓の外を仰いだ。外では先日と同様にしとしとと雨が降っている。風は強くなく、傘さえさしておけばどうとでもなりそうな程度の雨量だ。しばしの逡巡ののち、オリヴィアは意思を固め、席を立ち、外へ出かけた。


 ぱちゃり、ぱちゃり。歩を進める。大人用の傘は大きく、彼女の体を覆ってあまりある。雨に濡れる心配はなさそうだ。

 記憶をたどっての足並みは、時折ふらついたり、来た道を戻ったり、立ち止まったりと順調には進まなかった。そのうち見知った道にたどり着いたので、そこからはスムーズだった。


 ――昔、時計を買った日は、珍しく母と外出した日だった。

 普段は病弱で伏せっていることの多い母であったが、時たま体調がいいと、オリヴィアを連れて遊びに出かけていた。使用人たちは止めたが、母はそれをいつも無理やりに突破した。腕力で。病弱とは到底思えない剛力であった。

 こういうものは、長く使えるものを買うこと、と母は言った。審美眼は持ち合わせていなかったが、交渉は得意で、すぐに良い品を見つけてくれたのだ。


 愛着はある。信用もある。だがなによりも、思い出がある時計だった。直して使い回せるなら、それに越したことはない。


 とは言え、彼女が知っている時計店はそう多くなく、母といった場所以外は、一か所しか知らない。そして前者の候補は定休日、二つ目の候補は今しがた閉店しているのを確認してしまった。

 自室を出てたったの数十分だったが、オリヴィアの万策は尽きたと言えた。


「……困りましたね」

「オ……オリヴィアか、艦長……?」


 途方にくれながら思案に走っていた彼女は、聞き覚えのある声に振りむいた。赤色の傘を手にした、小柄な女だった。薄暗い雨雲の下、それでも鮮やかな髪が、冬の花のように目立って見えた。

 しかし、その少女然としたどこか華やかな雰囲気とは裏腹に、姿はどことなくすすけて見える。背も少し曲がっているし、瓶底のような形をした分厚い眼鏡が、余計にその可憐さを野暮ったさに変換していた。


「マルナス整備士長ですか」

「ひゃい! ま、マルナスであります!」


 口を開けば、どことなく怯えたようにどもる声。そういう性質たちなのだと事前に書類で知っていなければ、引っ込み思案な少女だと思っただろう。マルナス・シュミットはそういう人間であった。

 元々は車両の整備工場で働く、優秀なエンジニアだ。しかし、複雑な機構に対する理解の深さと、その整備の手際に目を付けられ、カンテブルク戦役末期ごろに徴兵されることとなった。

 その後一年程度の戦役を経たのち、戦役上りとしてそのまま軍に所属し続けている。


「オ、オリヴィア艦長はな、なぜここに?」

「時計が壊れてしまったので。修理を依頼できないかと思っていたのですが……」


 閉店していたとは、とちらと目を向ける。二、三年ほど昔に一度来ただけだ。開業と廃業のペースが早い帝都なのだから、そうなっていてもおかしくはないのだが、しかしまだ続いているだろうという楽観視があった事は否めない。

 腕は悪くなかったのだが、立地が悪かったのだろう。中心街からは少し離れているし、案内らしい案内もなかったのだから。


 次の候補は存在しない。ここ最近――特にカンテブルク戦役中は、一切外出を行わなかったオリヴィアだ。帝都の姿はすっかり様変わりしているし、案内を頼めるような友人もいない。

 八方ふさがりでぐるりと目を回した彼女は、ふと視界のはしに、じりじりと後ずさっていこうとするマルナスの姿を見て、口を開いた。


「整備士長。良い時計屋を知りませんか?」

「えぅっ!? ……ぁ、えと……し、親戚の経営している店でよ、良ければ……」

「では、そこで」




 マルナスの案内した店は、中心街から随分離れた、さびれた店だった。看板が出ていなければ、民家としてスルーしてしまったかもしれない。

 あちこちが腐ってしまったかのような、さび付いた印象の所だ。あまり繁盛はしていないのだろう。実際人通りはまるでなく、窓から覗き込んでも、恐らく店主であろう老人が一人、寂しさそうに体を揺すっているだけだった。


「う、腕はい、良いんですけど。お、大叔父さま、お客さんです!」


 ずしずしと店へ乗り込むマルナスの背について、オリヴィアはそろそろと足を踏み入れた。


 外観のひどさに対して、店の中は落ち着いていた。木製の家屋は外の雨でかすかに独特のにおいを発していたが、それはそれで、独特の雰囲気といえる。

 壁を見渡せば、窓や出入り口を除いて、そこら中に時計がかかっている。掛け時計、置時計、腕時計、おそらくは日時計であろうものまで、所狭しと並んでいて、乱れることもなく、勤勉に時を刻んでいる。時計の軍隊だ。

 壮観、と言っていい。少なくともオリヴィアは、これほどにすべてが規則正しく動く空間は初めてであった。規則性とはある種の美しさである。どこを見てもカチコチと、乱れ一つないこの空間は、その美しさに包まれているのだ。


 偏執的とさえ言える調整がなければ、こんなことにはならないだろう。間違いなく、目の前の老人は腕利きで、その上時計狂いの変人だった。


「大叔父さま、お、お客さんですよー……」

「……聞こえとるわい」


 ぼそぼそと蚊の鳴くような声の会話ののち、老人はオリヴィアの方を振り向いた。岩を削って作ったようにごつごつとした、無表情を浮かべる老人であった。


「時計の修理か」

「はい。こちらを」


 少女が袋を差し出すと、老人はそれを奪い取るように受け取り、すぐに時計を取り出して眺めた。持ち上げ、下げて、上から下へ。薄められた瞳は針を彷彿とさせ、汚れ一つ、埃一つでもあろうものなら怒鳴り出しそうな、偏屈な顔だった。

 だが、その分真摯だ。自分の仕事に対し、何一つとして欠点を作り出したくないのだろう。そういうこだわりに、その職人の性格が見える。


 あちこち眺めまわし、かるく振ったり、ルーペを用いてのぞき込んだりと忙しく動いていた職人は、そのうちに動きを止めた。少し、その硬い顔が和らいでいるように見えた。


「……いい品だ。それに、よく整備されておる。何年使った?」

「もう五、六年ほどになります。直りますか?」

「直す。だが、まずは見積からだ。一週間は最低でももらう。長ければ一月はかかるぞ」


 オリヴィアが頷くと、老人はふんと鼻を鳴らし、ずんずんと店の奥へ引っ込んでいった。客の方を顧みることもないあたり、店番の一人か二人要るのではないかと、要らない心配を少しした。

 おいて行かれた少女は、マルナスが持ってきてくれた椅子に座る。外を見るが、まだまだ雨はやみそうにない。それどころか、見積を待っているうちに、もう少し強くなりそうだ。


「雨、止みませんね」

「でっ、ですね」


 しとしとと時間が過ぎていく。


 わずかな気まずい時間ののち、ふとして、オリヴィアは口を開いた。


「ところで……今日、何か御用時があったのではないのですか? 案内させてしまいましたが」

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