第三話 演習飛行2

 居づらい空気に耐えられず、オリヴィアは腕を精神感応用の操縦管から引っこ抜く。液体金属は、彼女の体や服に付着することもなく、ただ筒の中で揺れていた。


「エリザ副艦長、少しの間ここを頼めますか? 私は艦内を一度見てくるので」

「分かりました。一時、指揮権限をお預かりいたします、ごゆっくり」

「……恐縮です」


 物わかりのいいエリザ副艦長は、オリヴィアにだけ見えるようウィンクを飛ばした。彼女はそれを苦笑でもって出迎える。このクールな雰囲気を持った美人は、見た目よりもずっとユーモラスだ。

 だからこそ責任も重い。優秀な部下がいればいるほど、嫌々に艦長職についているオリヴィアの肩身は狭くなり、またしなければならない仕事の、最低限がどんどん高くなっていくからだ。

 そうなってはもはや、どこへ行っても針のむしろのようなものである。少なくとも、総合司令室にずっと居続けようとは到底思えなかった。


 あてもなく歩き出すが、ヴァルカンドラは案外広い。それもそのはず、艦の全長は装甲を含め約三百メートル。おまけに中の通路は複雑怪奇に入り組んでいるために、全長よりもなお広いだろう。

 時折配管から響く音は、まるで怪物のうめき声のように低い。ヴァルカンドラほどの巨体を動かしているのだから、機関の音が大きく重いのは当然といえば当然だが、それでもその音が鳴るたび、オリヴィアは自分が怪物の中に入り込んでしまったのだと勘違いしてしまいそうだった。


 しかしどこへ行こうか。とぼとぼ歩いていた彼女は、曲がり角から近づいてくる足音に気づいてギリギリで足を止めた。すると、少し軽快な足取りの男が、曲がり角からぬぅっと出てきたのである。

 背の高い男だ。それなりに高く、高さだけでオリヴィアの二倍近くもあるヴァルカンドラの通路でも少し窮屈そうに歩いているほど。しかし、腕や足が細いので、あまりがたいの良さは感じない。

 髪はオリヴィアのそれよりも明るめの茶色で、少し軽薄そうな笑みを浮かべている。


 そんな彼は、彼女の姿を見て、一瞬首を傾げる。"女の子?" そんな目だ。咳払いを一つ入れると、ようやく階級章に気づいたらしく、慌てて敬礼をしてきた。慌てすぎたのか、すこし形が崩れていた。


「おわっ、オリヴィア艦長! これは失礼を……」

「いえ、構いません。ブルーノ二等空佐、ここで何を?」


 自分の名前を憶えていたことに驚いたのか、ブルーノ・レルズは軽薄そうな笑みを、もう少し温かみのあるものに変えた。


「あー、飯……ではなく、食事をとりに行こうかと。整備がひと段落したんで。でもちょっと迷ってまして」

「楽にしていただいてけっこうです。……でも、食堂は真反対の方向ですよ」


 ぽかんとした顔に、今度はオリヴィアがくすりと笑った。とはいえ、オリヴィアも予習せねばすっかり迷ってしまっていただろう。かなり大胆な試験艦であるヴァルカンドラは、他の艦と比べても構造が大きく異なっている。

 別の艦に慣れていればいるほど、あまりに違うレイアウトに困惑し、迷ってしまう。ヴァルカンドラの船員たちにまず配られる標準装備として、ヴァルカンドラの地図と方位磁石がある、などというジョークが後にはやるほどだった。

 なお、実際に配布されていたのは地図ではなく、迷ったときのマニュアルであった。


「まいった……元来た道もわからんのですよ」

「そうですか。では、ひとまず食堂まではご一緒いたしましょう」

「よろしいので?」

「ええ。……ところで私は今、甘い物が食べたい気分でして」


 ブルーノはひとしきり笑ってから、それは大変だ、とひどく芝居がかかったように言った。それから、少し居住まいを正し、それから見とれるほど見事な所作で挨拶した。


「思っていたより、ずいぶん愉快な人だ。もちろん、奢らせていただきますよ、艦長」


 女たらしとは多分こういうやつのことを言うのだろうな、とオリヴィアは思った。




 ヴァルカンドラの食堂は、他の艦と比べてもかなり広い。オリヴィアは食堂が存在する艦に乗ったのがここが初めてなので、あくまでも口伝だが、それにしてもちょっとした喫茶店ぐらいの広さはある。

 全員が一斉に食事をとることはできないが、そもそも誰も勤務していない状況は停泊時ぐらいのものであるため、休憩中の全員が来ても座れる程度の大きさであれば十分。大変に効率的なサイズだ。

 厨房の向こうでは、やたらとがたいのいい大男が、鍋やらフライパンやらをもってドタバタと歩き回っている。料理の巨人といった風情であるが、あの図体でずいぶん小回りが利くな、とオリヴィアは変なところで関心してしまった。


「クラウス! クラーウスっ! こっちに今日の定食ふたつと、それからデザートを一つ、俺の支払いで頼む!」

「うむ」


 ブルーノが遠間から声をかけると、クラウスというらしい巨人は、妙に響く低い声で言葉少なに返答した。忙しそうだが、まるで手が三本あるかの如く、クラウスは奮闘していた。

 この艦は、推力と積載量にかなりの余裕がある。新型機構の採用によって。そのため、食料や燃料はかなり余分に搭載されている。

 さすがに限りはあるし、おかわり自由とまではいかないが、それでも毎食満足できるだけの量が出てくるのは、帝国最新技術に幾千も感謝をささげたくなるほど嬉しいことだ。

 給料からいくらか引かれるが、望めばデザートも出てくるというのだから、もはや技術部に足を向けては寝れなかった。


「ここの飯は美味いんです。クラウスは元々、皇室御用達の料理店のコックだったんだそうで。でも、店主と喧嘩して追い出されたところ、今代の皇帝陛下に拾われたと」

「なるほど」


 確かに、手早い調理で運ばれてきたスープとパンは、ともすればそこらの料理店での外食よりもおいしそうに見えた。デザートはマフィンのようなもの。クリームが少し上にのっていて、時折かわいらしく揺れている。


 食前の祈りを短くすまし、スープを一口含んでみる。すると、深みのある、しかしどこか心を温めてくれるような味がした。煮込まれた肉は程よくほぐれていて、うまみを残しながらも、舌に残らず溶けていく。ほう、と口から息がこぼれた。たしかにおいしい。

 しかも、汁の方は味が濃い目なので、パンを浸しても大変美味い。育ち盛りとはいえ、大人向けの分量を、オリヴィアはほどなくすべて平らげてしまった。


 デザートの方はといえば、我こそはカップケーキでございと言わんばかりの小綺麗な姿で鎮座しており、大口に切り取ってかじってみても、味に雑味が一切ない。くどさを感じないクリームの深い甘みと、素朴なマフィンの味がまったく喧嘩せずに共存している。

 点数をつけることすらばかばかしい、実に満足できる昼食であった。


「……こんなところにいるべきではないですね。今すぐ店でも建てるべきです」

「でしょ? でもクラウスのやつ、皇帝陛下に恩を返すって言って聞かないんですよ。それでとうとう従軍料理人です」


 大した人だ、とオリヴィアは関心して、何度もうなずいた。少し遠くの調理場で、クラウスが誇らしげに胸を張っているのが見える。

 おいしい料理のおかげで、彼女にも勇気がわいてきた。自分も仕事をしなければならない、と。まだゆっくりしていたいと愚図る腹をさすってなだめ、意を決して立ち上がる。ブルーノがきょとんとした様子で首を傾げた。


「ブルーノ二等空佐。あなたの持ち場、空挺発着場は機体後部でしたよね? そして、近くに第一機関室もある」

「ええ、その通り。……まさか」

「案内していただけますか、第一機関室――機関室長のところに」


 ぎょっとした目をして静止しようと立ち上がった彼は、オリヴィアの睥睨を――彼女にそんな気はないが――受けて、そのまま硬直した。

 明らかに静止するような瞳は、どこかすがるようでさえあった。だが、彼女はそんなものを意にも返さず、使った食器を返却すると、ブルーノを半ば引きずるようにして食堂を出る。


 彼が止めるのも無理はなかった。第一機関室の長たるジュロイ=マクセン=バームタームは、何を隠そう、オリヴィア・エーレンハルトが艦長に就任することを、最後の最後まで断固反対していた男なのである。

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