第五話 演習飛行4
オリヴィアはコーヒーをすすった。軍用品の、安く保存がきく豆のコーヒーだ。正直いってあまり美味しくはなかったが、カフェインは取っておかねばならなかった。
演習飛行の日程は、長い割にあまり余裕がなかったのだ。一日のうちで眠っていられるのは、せいぜい一時間、最大で途切れ途切れに六時間とれるかどうか。
睡眠中にもなにか不測の事態があればたたき起こされるし、そもそも航空艦の艦長は出撃中にほとんど眠れない。観測手も複数名居るとはいえ、艦の弱点となりうる下方の警戒は、ほとんど艦長に――つまり、精神感応能力に任されているのである。
だからこそ、何度も短い睡眠をとるような形で眠る。艦長座席はそうした理由もあって、ほとんどスイートホテルの最高級品ベッドのような座り心地を保有していた。
「とはいえ、眠り心地が良すぎるのも、それはそれで……。持って帰れないものでしょうか、この椅子」
「さすがに無理かと……」
笑いをこぼしながら、エリザが答える。しかし、他の艦長も同じことを言っていたとも付け加えられて、オリヴィアの仏頂面も、さすがに苦笑を禁じ得なかった。
航行はすでに七日目を迎えている。今回の演習飛行では、各種武装、各種機構、そしてそれらの動きが計算上の負荷を超えないかをテストする予定だ。次いで、革新的な機構に船員が適合できるかという試験も兼ねている。
日程としては、国土上空の巡回と移動に六日。途中の演習で計六日。補給と休息に一日ずつかけて二日。それで計二週間の予定だ。過酷といえば過酷だが、ヴァルカンドラは積載容量にかなりの余裕があり、糧秣や居住区の充実には事欠かない。そのため、兵の不満は比較的少なく抑えられていた。
とはいえ、船上であることに変わりはない。水は必要最低限しか配給されず、食事もほぼ一定量。船が飛んでいる限りトラブルの可能性は常にあり、真に心休まる時は存在しない。街に停泊しての休息は、多くの船員が待ち望んでいた。
オリヴィアもである。もうこの時点で、彼女の舌からはコーヒーの苦味がこびりついて離れないような気さえした。
ベッドでも椅子でも、この際ぐっすりと眠れるなら地べたでも構わないとさえ思っていた。だから、停泊予定地点であるアルフェングルーの街まであと半日となったとき、司令室で小さな歓声が上がったのも無理からぬことだった。
オリヴィア・エーレンハルトが後世に残した日記では、この初航海について、「舟の上の七日間がこれほど大変なものだとは想像もしなかった」といった感想が記される。「家で寝たい」といった愚痴もあった。
ところが、そうした記述はせいぜい二行か三行で終わった。
それ以上の事件が、起こったからだ。
七日目の夕暮れを過ぎ、段々と空の端が暗く、夜の手に抱かれ始めたころ。ようやくヴァルカンドラのクルーたちにも、アルフェングルーの街の明かりが見え始めた。
アルフェングルーはかつて何もなかった土地であるが、約百二十年近く前、帝国の発展期において交通の要所として抑えられた土地である。その後戦役の最中、敵国たる"王国"の行軍経路を塞がんとするため、要塞化された。
しかし昨今の戦役に至るまで、結局王国はアルフェングルーへの侵攻を行わなかった。また、元より往来の盛んな交通の要所であった事も重なった結果、大きな宿場町となり、その後歓楽街などが増加したことで、一気に観光都市となったのである。
とはいえ、ここが停泊地点として選ばれたのは、何も船員の憂さ晴らしのためではない。元は要塞化されていた名残で、アルフェングルーには比較的大規模な軍事施設が残っているのだ。
その中には当然、大型艦用の着陸場や整備場が備わっている。そこで一時、点検整備などを行うのだが、その間、船員は――多少の制限や、門限はあるが――自由行動である。
「あの、オリヴィア艦長。今よろしいですか?」
アルフェングルーの街にある食事処を頭に浮かべていたオリヴィアは、ためらいがちな声で現実に引き戻された。少し眠たい目を、ぐいと開けて見てみると、通信士のハムト二等空尉が、なんとも言えない表情で立っていた。
こうしてみると、ハムトはとても軍にはいなさそうな顔つきの青年だった。地味、と言ってもいい。顔立ちはそれなりなのだが、垂れた目と言い、少しはね気味の癖っ毛と言い、町のパン屋でも営んでいそうな顔だ。オリヴィアの言えた話でもないが。
「ええ、なにかありました?」
「いえ、その、ですね」
首を傾げる。言いよどむハムトの顔が少し青い。体調不良かとも思ったが、どうやらそうではない。なにやら深刻そうな顔だった。
彼の仕事は主に、本部や他艦船からの連絡の受信、そして通信傍受などもだ。平時は受信しか行っていないため、彼が問題とするようなことは起きないはずだった。
「……ハムト二等空尉、急を要する話ですか」
「それは、その……場合によっては、かと」
こういう時、あまり報告を急かさないほうが良いのだろうな、とオリヴィアは思った。逆の立場なら、早く言え、でなければ下がれと言われてしまうと、どんな報告でも喉から出てこない、そう思ったからだ。
軍人の多くは、職務に誠実だ。そうであるがゆえに、相手にも誠実かつ確実であることを求めがちである。それ自体が悪いことではないが、こと上下の関係に格差があるとき、大きな隔たりとなりかねない。
友人とまではいかなくてもいいが、少なくとも、怯えずに報告できるだけの関係性を、どこかで築かなければならない。自覚して、胃の重さが少し増した。艦長席に沈み込んでしまうような心地だった。
「では報告を。何もなければそれでいいのですから、言うだけ言ってみてください」
そういうと、ハムトはあからさまにホッとした顔になった。呼吸をやめてしまったかのような青い顔にも、少しだけ血色が戻ってくる。
「さきほど、オリヴィア艦長のご指示の通り、アルフェングルー軍事空港に連絡をしました。通信から三分と二十秒後、こちらでも視認したと返答がありました。ですが……」
「ですが?」
「……意味不明な文章が混じっていました。"5-2-5番滑走路は誘導灯が切れているから注意しろ"と」
息一つ、挟まる。
「5-2-5番滑走路なんてありません。あそこは、四番滑走路までです」
ふむ、と声が漏れた。言い間違えということもありえるか。いや、そんなことはない。その後修正の連絡もないのだから、仕事はこなしたということだ。加えて、アルフェングルーの軍事空港はすでに住宅街に囲まれており、これ以上の拡張の余地はない。
5-2-5、5-2-5。口の中で呟いてみる。たしかそんな言い回しをどこかで聞いた、と思ったところで、オリヴィアの脳裏で記憶が閃いた。士官学校だ。あれはたしか諜報科の符号会話術における言葉だったはず。意味は――
オリヴィアは目を見開き、鋭く叫んだ。
「着陸準備を中断! 反重力炉の出力をあげてください!」
「え?」
「なっ!?」
司令室のあちこちから非難するような声が上がる。彼女は僅かも引く気なく、更にかぶせるような大声で挑んだ。
「アルフェングルーは今、敵地です! 第一種警戒態勢、砲撃戦用意ッ!」
その言葉を待っていたかのように、アルフェングルーの空港からいくつもの影がとびだった。異様に早く、無粋にあちこちがとがった影。暗くなり始めた空に舞うその姿は、ある種、空を泳ぐ魚のようで。しかし、それほど平和な存在ではない。
――5-2-5という数字と、それに対する否定的な言葉。その符号の意味するところは、「現在地、我が制御を離れるがごとし」。
すなわち、"被占領中"の意である。
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