第三十八話 交流



沢崎さんから一通りのレクチャーを受け、開店準備を手伝う私。


シンプルな白の壁掛け時計に目をやる。時刻はまだ八時半だ。


「ふふ、さっきはごめんなさいね」


微笑みながら私にそう話しかけるのは、身なりを整えて戻って来た沢崎さんのお母さん。


「あ、いえ……」


大丈夫です。って返すのも変な気がした私は、思わず言い淀む。


改めて沢崎さんのお母さんを見つめる。グレーのワイシャツに黒いエプロン、そして黒のスラックス。スレンダーな体格も相まって、よく似合っている。


偶然にもミニドリップの格好と大差なかったおかげで、私の格好が浮くことはなかった。


ワイシャツの色がグレーか白かなんて、些細な誤差だ。


「ったく、冗談じゃないぜ……朝からダチになんてもん見せやがるんだ」


「まるで汚いものを見せたような言い方するじゃない。そんなことないわよね、春巻ちゃん?」


「へ? あ、えっと……はい。あと、春巻じゃなくて……春風……です……」


唐突な問いかけにたどたどしくも、言いにくそうに答える私。


「あっごめんなさいね? 人の名前を間違えるなんて良くないわ」


「いい加減覚えてくれよそこは……別に難しい名前じゃないんだから」


申し訳なさそうに謝る沢崎さんのお母さん。そんな様子を見て、呆れた眼差しを向けながらため息をつく沢崎さんの姿。


「もう大丈夫よ、ちゃんと覚えたから。改めてよろしくね。えーと、小春ちゃん!」


「……よろしくお願いします」


満面の笑みで名前を間違える沢崎母に、私は半ば諦め気味に答える。


いっそ、春風より小春の方が可愛いんじゃないか……なんて。


「……春風、な? 全然覚えてねえじゃねえか!」


「でも惜しかったじゃない。進歩が見えるのは大事なことよ」


「惜しいとか進歩とかねえんだよ! そもそも、単純に失礼なんだって!」


ごもっともすぎる沢崎さんのツッコミを聞きながら、私は思わず苦笑いを浮かべる。


「名前と言えば……沢崎さんのお母さんを、私はどうお呼びすればいいですか?」


少し今更な気もするが、改めて私はそんなことを尋ねてみる。これからずっと沢崎さんのお母さんと呼ぶのも、なかなかに面倒だと思ったからだ。


沢崎さんと沢崎さんのお母さんが一緒にいる時、呼称が似ているのでややこしいことになってしまうのもある。


……それに関しては、私が沢崎さんを名前呼びすればいい話だと我ながら思うのだが、正直慣れていなくて恥ずかしいので無理だ。


「あら? そういえば名乗ってなかったわね。こほん、沢崎桜雪さわさきさゆきって言います。呼ぶときはさっちゃんでよろしく頼むわね」


軽くウィンクをしながら、自己紹介をしてくれた桜雪さん……もとい、さっちゃん。


「さ、さっちゃん……ですか……」


「おい春姉が引いてるじゃねえか! 頼むからこれ以上ダチの前で恥をかかせないでくれ! 春姉も、こんなアホの言うことはスルーしてくれていいからな!」


私の反応を見て、すぐさま声高に叫ぶ沢崎さん。引きまではしなかったものの、正直反応に困ったのは本当だ。


「何よー、せっかくお友達とコミュニケーションを取ろうとしてるのに……」


「そんなコミュニケーションの取り方があるか! もっと真面目に会話しろ!」


「だって……この子、とってもイジり甲斐があって面白いんだもの」


上機嫌な様子で、私を抱き寄せて頭を撫で始める桜雪さん。唐突な接触に、再び動揺が走る。


「いや、えっと……」


「本当、真夜と違って可愛げがあるわー。どう? うちの子にならない? 怒りっぽい妹と、ちょっと変わった弟が出来るけど」


「おい待て! 何で俺が妹なんだよ! 雰囲気的に絶対俺の方が姉だろ!」


どうやら自身が妹ポジションにされたのが不満な様子の沢崎さん。違う、ツッコミどころはそこじゃない。


「何言ってんの、どう見たってあんたの方が幼いじゃない。妹みたいな可愛げは確かに小春ちゃんの方があるけど」


「悪かったな可愛げがなくて! ちなみに春姉、誕生日はいつなんだ?」


「……十月一日ですけど」


桜雪さんの胸元に顔の左半分を埋めながら、ほどよい柔らかさに居心地の良さを感じつつ私は小さな声で呟く。


「……くっ!」


誕生日を聞き、あからさまに悔しがる沢崎さん。なるほど……私より後だったのか。


「一応教えてあげるわね小春ちゃん。この子、十一月二十九日生まれなのよ」


「……そうだったんですね」


「くっそ……俺の方が年上だと思ったのに」


どうやら沢崎さんの中では、自分の方が年上だという自負があったようだ。


しかし、実際そこまで差があるわけではない。それに――


「でも、羨ましいですよ私は」


「……羨ましい? 十一月二十九日が?」


私の台詞に、きょとんとした様子で問いかける沢崎さん。まるでどこに羨む要素があるのか、と言いたげだ。


「はい。だってあの尾崎豊と同じ誕生日ですよ? 良いじゃないですか」


「……おざきゆたか? 誰だそれ」


「今どきの子で知ってる人は少ないんじゃない……? しかも誕生日なんて、逆によく知ってるわね小春ちゃん」


「常識ですから」


「ふふ、やっぱり面白い子ねー小春ちゃんって」


改めて私の頭を撫でる桜雪さんと、一人内容が分からずポカンとしている沢崎さん。


「……春風です」


そんな中、私は冷静に桜雪さんの呼び間違いを訂正するのだった。

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