日本の河川砲艦の歴史

 日本において河川砲艦が、登場したのは日清戦争後、中国大陸に権益を持ち始めた頃だった。

 大陸の河川、特に揚子江は物流の大動脈であり内陸の大都市に繋がっている。

 下関条約で内陸の川に面した都市の開港を認めさせたため、その履行を確実にするため河川砲艦を配備することにした。

 河川砲艦を配備することで、中国への牽制になり日本の利権を守ることが出来る。

 また中国で騒乱が起きた時、現地にいる日本人を保護できる。

 それを理由に兵力を出し権益を更に拡大する事も算段に入っていた。

 中国だけでなく、中国に進出しようとする欧米列強も河川砲艦を配備しており、これらの艦艇に対する牽制も任務に含まれていた。

 そのための専用艦艇を必要とされ伏見を始めとする、河川砲艦が建造された。

 海外に駐留する必要上、外交交渉も必要な事から軍艦と定義され、駆逐艦では途中から外された菊花紋が艦首に掲げられ、日本の外交の一翼を担った。

 その任務は支那事変まで変わらず、代替わりしつつも駐留は続いた。

 初期の内は小型であり、河川専門ということもあって、外洋航行能力が無く、経験も無いため海外に発注、現地組み立てが普通だった。

 そのため大日本帝国海軍軍艦でありながら、その生涯において一度も日本本土に寄港したことがない砲艦も存在した。

 後に経験を積んだことから日本でも建造できるようになり大型化して外洋を渡れる様になり、日本で建造し東シナ海を横断して揚子江に配備される事になったが、多くは揚子江に留め置かれたままとなる。

 揚子江に配備される砲艦の特徴は、内陸の重慶まで航行出来る能力、水深の浅い揚子江を航行出来るよう吃水は0.7m未満、水流の早い三峡周辺を遡上できるよう一六ノット以上の速力が出せるよう求められた。

 勿論、軍艦としての武力を持つように指定されていたが直接照準の出来る火砲はもとより陸上部隊に有効な間接射撃の出来る小型砲を求められていた。

 また、外交の一翼を担うため、領事館のように来賓を招き会食できる設備を有すること、長期間駐留するため居住設備が良好である事を求められており、独特の艦艇で会った。

 変化が現れたのは支那事変からだった。

 日本と国民党がが全面戦争となり、河川砲艦は権益保護から、本格的な戦闘に参加することとなる。

 河川が多く、移動が難し陸上部隊に対し、川があれば何処へでも行き、船という搭載力の大きな乗り物は強力な火力を有していた。

 多くは最大でも一二サンチ砲クラスだったが、陸上部隊では銃砲の部類に当たり、有力な火力支援部隊となって頼りにされた。

 しかし、外交の一翼としての任務は低下。

 太平洋戦争が始まると欧米の権益が接収されたことにより、さらに外交面は不要となり、昭和19年には軍艦から外される。

 そして終戦時には国民党軍によって武装解除され、国民党軍へ編入され日本の河川砲艦の歴史は終わったかに見えた。

 だが、一時の事でしか無かった。

 太平洋戦争終了後、国民党と共産党の対立が再燃し第二次国共内戦が勃発。

 国民党は劣勢となった。

 この頃アメリカは国民党の腐敗から見捨て始めており援助を減らしていた。

 そのため蒋介石は、旧日本軍人に助けを求めた。

 蒋介石は元々日本陸軍へ入隊した経験があり、日本を頼りにしていた。

 戦争となり内部事情から敵対していた――支那事変時、日本の侵略より共産党撲滅のために兵力を割いていたくらいだった。

 だが、周囲の意見により日本との戦いに向かう事になり、第二次大戦を戦い勝者となったが、共産党を撲滅するために再び日本に協力を求めた。

 これが日本人軍事顧問団の始まりでパイダン――白団と呼ばれた。

 その中には砲艦部隊も含まれており揚子江を警備することとなった。

 人民解放軍が揚子江渡河作戦を敢行した時砲艦が上陸地点へ駆けつけ、上陸地点と特火点を破壊し、防衛に成功する大きなきっかけを作った。

 以後、蒋介石の信頼は高まり日本人顧問団が増えた。

 さらに日本製の武器を求めるようになった。

 アメリカからの援助が少なくなったこともあり日本に代わりを求めた。

 当初は軍備放棄のため、武器の製造に難色が示されたが、極東戦争中より、国民党を援助するため、大量の武器が生産供給されてから変わった。

 極東戦争後は再度の戦争に備えて更に活発になり、国民党向けの武器の生産、開発も行われた。

 その中には、河川砲艦も含まれていた。

 揚子江が事実上の軍事境界線となった中国でが河川砲艦の重要性が更に高くなった。

 そのため、日本に建造を依頼。

 経験と技術のあった日本で建造され供給された。

 その出来栄えに国民党は満足し、追加発注と更なる発展型が求められた。

 年を追うごとに技術は良くなり、河川砲艦は発達した。

 その性能は、ベトナム戦争で証明された。

 ベトナムにおいてサイゴン周辺、メコンデルタはベトコンの活動地域であり、デルタ地帯のため河川が発達しており陸上部隊のみでは川に阻まれた。

 そこでッ河川砲艦が必要となった。

 ヘリコプターもあったが、搭載力が少なく常に空を飛べるわけではない。

 容積があり浮かぶ基地、支援陣地として河川砲艦が必要とされた。

 だが、米軍は外洋艦艇重視の方針であり、警備用の魚雷艇や上陸作戦のための少数の揚陸用艦艇を除いて河川で使える艦艇を建造していなかった。

 そこで揚子江向けに建造していた日本の河川砲艦が目に入り、投入する事を決定した。

 日本も商機を見いだし、建造。

 中国用のモノを現地に持ち込み不具合を確認した後、改良型を建造して納入し、活躍した。

 火力支援、上陸、部隊輸送も勿論だが、ヘリの発展に伴い、ヘリコプター母艦さえ建造された。

 使い勝手が良いため、南ベトナム軍だけでなくアメリカ軍も購入し使用している。

 そのため魚雷艇と共にベトナムの川を日本の河川艦艇が航行することになる。


https://kakuyomu.jp/my/works/16816927862106283813/episodes/16818093085098446424

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る