第19話 鬼の職業病
「……本当に?」
「はい。地獄は確かに存在しています」
「そう……良かった。それが知りたかったんです」
長い前髪で目元は見えないが、うつむく女性は薄い唇でニンマリと笑った。
スッと女性が立ち上がると、角無し鬼の肩が小さく跳ねた。
「あの……紅茶は、いかがですか」
聞いてみるが、女性は初めに出されたコーヒーにも手を付けていないのだ。
「いいえ。私にはまだ、ここは早かったようですね。でも、知りたかったことが知れたのでいいです」
と、背を向け、
女性は見向きもせずに人界側の扉を開けると、元来た道を戻って行った。
「……帰っちゃった」
半開きにされた扉を閉じ、角無し鬼は、
「相手が地獄で裁かれることを知っても、恨みは軽くならないんだ。人界に戻っちゃった」
呟きながら自分のソファへ戻ってきた。
普段なら懺悔日誌が用意される黒テーブルに、軟膏と立て鏡が現れていた。
「なに?」
角無し鬼は鏡を覗き込んだ。
「えっ、なにこれ」
翡翠色の頬がデコボコしている。角無し鬼は、指でそっと触れてみた。
「どうしよう……痒くてヒリヒリする。あっ、腕にも出てきた――」
先ほどまで女性が座っていたソファを見ても、何か残っている訳でもない。角無し鬼は首を傾げるが、ボコボコと膨れていく自分の肌を見て目を潤ませた。
「……
黒テーブルの上で、すぐに黒電話が緑鬼を呼んだ。
肌も髪も服も緑色の緑鬼は、
「おぉ……デコボコだなぁ」
ソファの足元に膝をつき、緑鬼は角無し鬼の顔を見上げた。
「緑鬼、これ、どうしよう……」
今にも泣きだしそうな表情で、角無し鬼が呟く。
「急にデコボコが出てきたのか?」
と、緑鬼は角無し鬼の頬や腕を見ながら聞いた。
「うん。怨念が強くて冥界に進めなくて、帰っちゃった女の人を見送ってすぐ……黒テーブルが鏡を出してくれて、見たらこうなってた」
「うーん、怨念のアレルギーにでもなったのかな」
「そんな事になったら僕、もうここで仕事できないよ……なんか、どんどん酷くなる。あー、涙も沁みるよぉ」
「これ、効くのか?」
軟膏の入った、平たいガラス容器を手に取って緑鬼が聞いた。
「わかんない。それ、傷薬なんだけど」
「普通の傷じゃないもんなぁ」
「どうしよう……」
黒テーブルにガーゼタオルが現れた。緑鬼はガーゼタオルで角無し鬼の涙を優しく拭いてやり、
「医者を連れて来てやる」
と、言って立ち上がった。
「えっ?」
「
不安げに見上げる角無し鬼に頷いて見せ、緑鬼はすぐに冥界側の扉を出て行った。
『鬼』は獄界に属する存在だ。
地獄へ落ちた人間に罰を与える鬼も多いが、冥界や人界へ出て働く鬼もいる。
肉体労働や外回りや内勤事務。鬼の労働は人間に近いものがあるかも知れない。
お化けは死なないと聞くが、鬼も怪我や病気をする。
そんな鬼たち専用の医者も、地獄に存在していた。
緑鬼が背の小屋を
額の中央の小さい角も長い髪も、裾の長い着物や羽織も真っ白だ。素肌の色すら、白壁の懺悔室に溶け込むような白色だった。
「
その名も白鬼だ。
懺悔室に戻った緑鬼は、角無し鬼の前に背負子を向けた。しゃがみ込むと、白い鬼は床へ膝を下した。
白鬼と呼ばれた白い鬼は、不安げな表情のまま泣き続けている角無し鬼に優しい笑みを向けた。深い笑い皺が刻まれているが、老人という年齢ではない。
「やぁ、君か」
「知ってるんすか」
「以前にも二度、この子を診たことがある」
「マジすか。怨念が強い死人が人界に引き返してった後に、こんなデコボコができ始めたみたいなんすよ」
緑鬼が説明すると、角無し鬼もしくしく泣きながら頷いた。
「あぁ、可哀想に。痛みはあるかい?」
「……触ると痛いです。体中、痛痒い感じで」
腕のデコボコを優しく撫でてやりながら白鬼は、
「大丈夫、すぐに治るよ」
と、優しく言った。
「初めてこの子を診た時なんて酷いのだよ。他の子たちと同じ
「二度目は?」
「ここで、ひとりで務めをさせられるかって。身体的には問題なさそうだけど、戦闘能力は元々ないから身を守る対策は必要って答えたんだよ。それで確か、逃げ込める空間がここに備えられたと聞いたけど」
白鬼が言うと、横壁に避難部屋の扉が現れた。
「そうだったんだ……すごく助かってます」
「君はここに必要な能力を持って生まれた。この場所は必要だ。でも、務めを全て成し遂げなくてはいけない訳ではないよ。それは、医者が死人をひとりも出さないのと同じだ。できないことはできない。それで良いんだよ」
「白鬼さん……」
ぽろぽろとこぼれる涙を拭いてくれながら緑鬼が、
「……お?」
と、角無し鬼の全身を見回した。
「デコボコ、消えてきたね」
いびつに出っ張っていた腫れが、徐々に小さくなっていく。
「えっ、あ、すごいっ、平らになってく!」
と、角無し鬼も自分の腕を見下ろして目を丸くした。
「何したんすか?」
「デコボコには何もしていないよ。これはね、自分ひとりで全部できなきゃいけないとか、失敗しちゃいけないっていう意識が強くなりすぎて出てくる
「吹き出物……」
角無し鬼と緑鬼は、顔を見合わせて目をパチパチさせた。
「……そっか。白鬼さんが、それで良いって言ってくれたから」
「なるほど。それで治ったんすね」
「でも、本当の事だからね。覚えておくんだよ」
「はい」
腫れあがっていた頬や額も、元通りの可愛らしい翡翠色の顔に戻っていく。
「もう少し休んでいれば、すっかり引いてしまうだろう」
「マジすか。良かった」
と、緑鬼が安堵の表情を見せた。
「また何かあれば呼びなさい。緑鬼に連れて来てもらうから」
黒テーブルが返事をするように黒電話を出して見せる。白鬼は黒テーブルにも優しい笑みを向けた。
「ありがとうございます。あの、お忙しいのに」
「いいんだよ」
「じゃあ、休んでろよ。白鬼先輩、送って来るから」
緑鬼が、薪でも運ぶような背負子を白鬼に向けてしゃがみ込む。
「どっこいしょ」
と、白鬼は緑鬼の背負子に腰掛けた。
「じゃあ、またね」
と、軽く手を振る。
白鬼を背負った緑鬼は、冥界側の扉を出て行った。
手を振って見送っていた角無し鬼はソファに座り直すと、恐る恐る鏡を覗いた。
「よかった、治ってる。ビックリした……吹き出物だって……」
もう一度泣き出した角無し鬼に、黒テーブルが温かいココアを出してくれた。
「鬼用の医者を、こんなに人界の近くまで連れて来たのは君くらいだよ。見る目あるじゃないか」
地面すら見えない白い空間で、白鬼を背負う緑鬼だけがくっきり目立つ。
空中でポーンと跳ねるように進みながら緑鬼は、
「見る目あるって言うんすか?」
と、聞いた。
背負子の後ろへ伸びる綱を両手で掴み、バランスを取りながら白鬼は、
「正解だってことだよ。あの吹き出物は酷くなると硬くなるんだ。全身に広がって体が動かなくなる」
と、言った。
「マジすか……」
「気をつけておあげ。頭の中や体内にも吹き出物ができたら、さすがに死んでしまうからね」
「あんなのができたのは初めてです……最近の客は大変なのかな」
と、緑鬼が首を捻る。
「あの子の務めを手伝える鬼はいないけど、ちょくちょく遊びに行って、ひとりじゃないと思わせておいてあげるのが一番かもね」
「……なるほど。しっくりきました」
「ふふ。君は懺悔室の担当なんだろう?」
「あの辺りの出入り口の管理の、ついでって感じだったんスけどね」
と、緑鬼は苦笑している。
「いいじゃないか。あんなに可愛い子だ」
「はい」
平然と即答する緑鬼に、白鬼はもう一度ふふっと笑った。
「緑鬼も忙しすぎては困るね。君がもう少し、獄界にとって重要な懺悔室への配慮をする時間がもてるように、報告しておくからね」
「あ、助かります!」
緑鬼は明るく答え、ポーンと高く跳ねた。
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