第12話 悪霊叢 水死

 懺悔室ざんげしつの中に、雨が降っている。

 いや、天井からポタポタと水滴が落ちてくるのだ。潮の香りだった。

 珍しい現象にポカンとしてしまっていた角無し鬼は、小さく咳払いし、ソファに座る青年に目を向けた。

「……うちに帰りたいんです」

 人界側じんかいがわのソファには、全身びしょ濡れの青年がうなだれている。

 先ほどまで表に出ていたエプロン姿の女性は悪霊叢あくりょうそうから抜け、あの世への道を進んで行った。

 次に現れたのは、海で溺死したTシャツ姿の青年だ。

「田舎のにおいがする、古い家……」

 熱い緑茶が黒テーブルに用意されているが、青年はまだ一度も顔を上げていない。

「骨は残ると思ってたんです。骸骨みたいのが、水の底に。でも、波の力って凄いんですね。バラバラになって、どこに自分の体があるのかわからなくなってしまって」

「海でずっと、彷徨さまよっていたんですね」

 角無し鬼が聞くと、びしょ濡れの青年はうなだれたまま頷いた。

「ずっと、助けを呼んでいたんです。どうしても見付けて欲しくて……近くを通る人を呼んで、自分の居場所まで引っ張って来ようとしていました」

「それは……」

「でも、あの場所に生きてる人なんか引っ張って来たら、死んじゃいますよね。そんな事にも気付かなくて……」

「でも、気付いたんですね」

 青年は顔を伏せながら何度も頷いた。

「道連れにしたい訳じゃなかったんです……怖くなって、やっと海を離れて来ました」

 角無し鬼は、髪と同じ苔色の湯飲みを両手で包むように持ち、

「ここまで来るの、大変だったでしょう」

 と、聞いた。

「初めは海に鎖で繋がれているようでした。だけど、海を離れたいと思ってる内に、鎖がゴムのように伸びるような感覚になったんです。背中を引き戻しそうなゴムを、なんとか伸ばして海を離れました。でも、どこへ行けばいいかわからなくて、また海へ戻されそうだったんです。もう、地獄でもどこでもいいから、連れて行ってくれと願っていて……」

 ――そこを、悪霊叢に捕まったんだなぁ。

 角無し鬼は湯飲みを茶托ちゃたくに戻し、

「ここではもう、引き戻される感覚はないでしょう?」

 と、聞いた。

「あ……本当だ」

 気付いたように青年は、やっと顔を上げた。

 短髪でスポーティな印象を受ける、日焼けした青年だ。

 正面に座る角無し鬼の存在にも、やっと気が付いたらしい。

「えっ、誰? ここは?」

 左右の白壁や、水滴の落ちる天井にも目を向けている。海水の雨は続いている。

 角無し鬼は翡翠色ひすいいろの肌に、苔色の髪の少年だ。その姿にも青年は驚いているようだった。

「ここは、あの世の手前の懺悔室。僕は、角無し鬼です」

 と、角無し鬼は名乗った。

「角無し、おに……?」

「はい。角の無い鬼です」

「その先、地獄ですか」

 と、青年は、角無し鬼の背後にある冥界側めいかいがわの扉に目を向けた。

「いいえ。それはまだ、ずっと先にわかることです」

「もう、地獄へ行くって、わかってます」

 首を振り、青年は言う。

「なぜですか」

「だって、小さい子を殺しちゃったんですよ!」

 声を上げる青年の目が潤み始めた。角無し鬼は、その目を真っすぐ見つめ、

「あなたは殺すつもりで殺したわけじゃありません。道連れにしようとしてしまったことに気付いて、必死に海から離れようとした。家に帰したい体が海にあるのに、他人を道連れにしないために、あなたは必死に海から離れたのでしょう」

 と、話した。

「だって……もう、小さい子を殺してしまった」

「見つけて欲しいだけだと言って、生きた人間を呼び続けることもできたんです。そのせいで誰かが死んでしまっても仕方がないことにして。あなたは、そうしなかった。地獄へ行くかどうかって、そういう部分が重要なんですよ」

「……でも」

「それに、生前のあなたは周りの人たちに好かれていたじゃありませんか。たくさんの人たちが、あなたの冥福を祈っています。本来は、そこが一番重要なんです」

 すまなそうに頭を掻きながら青年は、

「そういう、ものなんですか」

 と、呟いた。

「そういうものなんですよ」

「……そうなんだ」

「この先に、進めそうですか」

 と、角無し鬼は聞いてみる。

「はい。その先ですね。もう、海に繋がってる感じもありませんし」

 冥界側の扉へ目を向けた青年は、黒テーブルに用意されていた熱い緑茶をひと口飲んだ。小さく息をつくように頷き、立ち上がる。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 いつの間にか、天井から落ちてきていた水滴も消えている。床も濡れていない。かすかに、潮の香りだけが残っていた。

 自分で冥界側の扉を開けると、青年は小さな角無し鬼を見下ろした。

「あの、角無し鬼さん?」

「はい」

「……あなたは、あの時に死なせてしまった子ですか」

「いいえ、違います」

「そうですか……あはは、すいません」

 頭を掻きながら冥界への道を進んでいく青年に、角無し鬼は笑顔を向けていた。

 そして扉を閉めると、懺悔室の中へ振り返った。


 青年が座っていたはずの人界側のソファには、卑屈ひくつそうな男が座っていた。

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