第11話 悪霊叢 呪い
その女性は扉の向こう側で、うつむいたまま動かなかった。
気配に気づき、角無し鬼が
いつから立っていたのだろうか。
透けている訳ではないが、なにやらぼやけて見えるエプロン姿の女性だった。
「こんにちは」
と、角無し鬼が声をかけても、うつむく女性は反応しなかった。
「あの。どうぞ、こちらへおかけ下さい」
ソファへ促そうと、角無し鬼は女性の腕に手を伸ばした。
しかし、パチッと音をたて、何かが角無し鬼の手を弾き返した。
「えっ」
弾かれた手を押さえて一歩下がり、角無し鬼は女性の腕に目を向けた。
黒い影のような細長い草が伸びている。
よく見れば、体のあちこちから黒い草が生えてくる。
「なぜ、こんな所へ……あっ、待ってください!」
止める間もなく、女性は
『ここに、来たかった』
女性の胸の奥から、男の声が重苦しく響いた。エプロン姿の女性の口は動いていない。
「入れるんだ……どうしよう」
女性はもう一歩進み、その背後で人界側の扉が閉じた。そして、うつむいたまま動かない。
「……ここに入れるなら、安らかになることを願ってるはず。お仕事、しなきゃ」
角無し鬼は呟くと、
「座ってください」
と、もう一度ソファへ促した。
黒テーブルにティーセットが現れ、死者を呼ぶように紅茶の香りも広がった。
「こちらへどうぞ」
角無し鬼が自分のソファから呼ぶと、うつむいていた女性はスローモーションのように、ゆっくりとソファの前までやって来た。
そのまま、人界側のソファに座る。
とりあえず第一関門クリア。などと考えながら角無し鬼は、
「ここは、逝き迷う死者のお話を聞く、ティールームです」
と、言った。
冥界に名付けられた正式名称は『懺悔室』なのだが、地獄を連想する死者もいるので、怨念を刺激しないようにティールームと言った。
「……ティールーム?」
先ほどの男の声と違い、かすれた女性の声が聞き返した。
女性は、何か気づいたように顔を上げた。
「……えっ、ここは?」
やっと女性の表情が見えた。目が覚めたように瞬きを繰り返し、女性は懺悔室を見回している。
少しやつれた表情をしているが、まだ若く見える女性だった。
「未練のある死者のお話をうかがうティールームです」
「ティールーム……」
女性の体表を覆うように生えていた、怨念の草が消えている。
死因や本心を見る角無し鬼の目に、やっと女性本来の姿が見えた。
数日前に心臓発作で亡くなった女性だった。
「紅茶はいかがですか」
すすめられたティーカップを見つめながら女性は、
「私、心臓発作だったんですよね」
と、聞いた。
「はい。心臓発作で亡くなりました」
「やっぱり、姑に見られていたんでしょうか」
深い溜め息を吐き出し、女性はティーカップに手を伸ばす。
「……お姑さんが、なにか?」
「呪いです。
そう言って、女性は紅茶をひと口飲むと、もう一度溜め息を吐き出した。
「藁人形……あぁ、五寸釘で丑の刻参りですか?」
「はい。なんだか、神社の桜の木とか聞くんですけど、近所に神社もないし、大きな桜の木までは繁華街を通るので……人に見られずに行って帰って来るって無理なんですよね、今どきですから」
と、女性は話す。
角無し鬼も紅茶をひと口飲み、
「呪っている途中を人に見られるといけないんでしたっけ」
と、聞いてみる。
「行き帰りも、見られちゃいけないらしいんです。でも、部屋の中だと効き目が無さそうなので、庭の桜の木で夜中の二時にやってたんです」
「なるほど」
「でも結局、私が心臓発作なんて……やっぱり、姑にでも見られて、自分で呪いを被ってしまったんですね」
「違いますよ」
「――え?」
「あなたの死に、呪いは関係ありませんよ。あなたはただ、お姑さんとご主人から受けたストレスで、体内サイクルが崩れていたんです。だから、心臓発作を起こして亡くなったんですよ」
「ストレス……」
「はい。呪いのせいじゃありませんよ」
「なんだ……そうだったんですか……」
「はい」
視線を落とした女性は、への字に曲げた口にティーカップを運んだ。
「それは、呪いが手遅れだったってことですね」
と、女性は言う。
「そうですねぇ」
「あの。呪いって、もっと私が早く始めていれば、ちゃんとあっちが死んでくれたんでしょうか」
真剣な面持ちで聞かれ、角無し鬼は少し困った表情を向けながら、
「おそらく、死んでくれなかったと思います」
と、答えた。
「呪いなんて、やっぱり無いんですか?」
女性が肩を落としながら聞く。
「わかりません」
と、角無し鬼は答えた。
「ですが、あなたが受けたストレスは、ちゃんとご主人やお姑さんに罪として残っているんです。地獄で罰せられます」
「そうなんですか?」
「はい」
「本当に? ちゃんと?」
「はい。本人が覚えていなくても、ありのままの罪は消えないんです」
「それなら……安心しました」
への字に曲がっていた女性の唇が薄く笑った。ゆっくりと紅茶を飲み干し、
「ありがとうございました」
と、立ち上がった。
軽い足取りで角無し鬼のソファを通り過ぎ、
薄い笑みで会釈すると、女性はパタンと扉を閉めた。
冥界側の扉が閉じ、角無し鬼は女性の座っていたソファに目を戻した。そこには、うなだれた男が音もなく座っていた。
ぎょっとして、角無し鬼は自分のソファに尻もちをついた。
――やっぱり、
強い怨念をもつ浮遊霊たちを取り込んだ、悪霊の集合体……。
「あの女性は、抜けて逝きました。まだ、ここに居たいですか」
角無し鬼は、震える声で聞いた。
青年に姿を変えたその存在は、うなだれたまま頷いた。
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