第10話 死者の門

 灰色の空気が流れ、雲や霧のように黒い霞がかかっている。

 時折湿った風が吹き、乾いた大気を押し流す。

 辺りに植物は無く、黒い土と大岩に覆われている。

 あの世へ向かう死者たちの通る『死者の門』前では、増え続ける人々が人気アトラクション並みの行列を作っていた。

 死者の門は、遠く離れて見なければ門ともわからないほどの大きさだ。はるか上空に豪奢な拵えの門瓦が乗っている。

 門の左右に続く壁も見上げるにはつらい程の高さがある。灰色の大気の中で透き通るような白色の壁だ。死者たちの列は門の左右を、白壁沿いに伸びている。

 死者たちにも色は無く、半透明でやっと人の形がわかるような姿をしている。煙のような人影が、ゆっくりと門の中央へ歩いて行く。

 閉じられているように見える門の下には、死者たちの通るくぐり戸が口を開けていた。

 白壁沿いに並ぶ左右二列の死者たちは、左右順番にひとりずつくぐり戸を通って行く。門を進めば、左右の列がひとつに合わさるのだ。その先に到着地が見える訳でもなく、死者たちの列が道のように連なり灰色の空間へ飲み込まれていく。

 この死者の門では、死者をひとりずつ確認しながら通すことが肝心だった。もし生者など通してしまっては大事になる。

 くぐり戸を通る死者たちを、門番たちが見守っている。

 髪も眼も、肌の色も漆黒。大気と同じ灰色の衣を身にまとった門番たちは、くぐり戸や門の周囲に立ち、表情も無く死者たちの列を見詰めている。


 巨大な死者の門に向かって左側。壁沿いに列を成す死者たちが、ぷつりと途切れている場所があった。

 灰衣の門番たちが集まり、無表情を合わせて首を傾げている。

「早くしろよ! どこまで行かせようってんだっ」

 煙の塊のような人影が声を上げて動いているだけだが、ひとりでジタバタと暴れているのが見て取れた。

「いつまで待たせやがるんだっ」

 後ろの死者に順番を抜かれないよう列からは出ずにいるが、暴れる死者は取り囲む門番たちに向かって声を上げている。

 何も言わない門番たちだが、顔を見合わせ頷き合う。ひとりの門番がスッとその場を離れて門へ向かった。

 死者の門の両脇には、白壁に組み込まれたような門番小屋がある。

 死者たちの横を滑るようにやって来た門番は、ぴょんと列を飛び越え門番小屋へ入る。そして、すぐにもうひとり別の門番を連れて、もう一度死者の列を飛び越えた。もうひとりの門番は、他の門番たちよりも黒色の強い灰衣をまとっている。

 ふたりが暴れる死者の元へやって来ると、集まっていた門番のひとりが、

門番頭もんばんがしら

 と、声を出した。

 門番頭と呼ばれた灰黒色の門番は、列を途切れさせている死者とその前後で戸惑う様子の死者たちに目を向けた。

「これは、何事なのですか」

 と、他の門番たちに尋ねる。

 死者たちには無表情を向けていた門番たちも、門番頭には少し困った顔を見せて首を傾げた。

「なに、こそこそやってんだよっ」

 と、暴れる死者が声を上げた。

 門番頭は、白目の無い真っ黒な眼を見開いた。

「俺のこと喋ってるんだろうがよっ。言いたいことは本人に向かって言いやがれ!」

 地団駄じだんだを踏みながら、死者は声を上げている。

「……これは?」

「先程から、この調子で……」

「なぜあのような者が、ここに並んでいるのでしょう」

 門番頭が呟いても、門番たちは首を傾げるばかりだ。

「おいっ、こっちに来やがれよ! 俺の声が聞こえねぇのかっ。このまま成仏させるつもりか、このやろうっ!」

「困りましたね。これは通せません」

 遠巻きに見詰めたまま、門番頭は言う。

人界じんかいに返しますか」

 と、ひとりの門番が言ったが、門番頭は顎に手を当てて少し考え、

「あの子に頼みましょう」

 と、言った。


 死者の門の白壁を横目に、ぴょーん、ぴょーんと、跳ねるようにやって来る影がある。

 数人の門番が、近付く影に気が付いた。

 やって来たのは、鮮やかな緑色の肌をした鬼の青年だ。髪も黒く濁った緑で、服や頭の上の一本角も深い緑色をしている。黒や灰色ばかりの風景の中、遠くからでもよく目立つ。

 通過しそうだった緑色の鬼も途切れた死者の列に気付き、門番たちの側へやって来た。

 ひらひらとした門番たちの衣と違い、緑色の鬼は作務衣に似たつなぎ服を着ている。

「なんすか、あの死人しびとは。列が途切れてるなんて珍しいすね」

 と、緑色の鬼は軽い調子で聞いた。

「あぁ、緑鬼みどりおに。ちょうど良い所に」

 と、門番頭が言った。その姿通り、緑鬼と呼ばれた緑色の青年は、

「はい?」

 と、聞き返す。

「配送中ですか?」

「送り届けて、また探しに行くところです」

 緑鬼が答えると、門番頭は騒いでいる死者を指差し、

「あの死人を捕まえて下さい」

 と、言った。

「なんかわかんないけど、俺の小屋に入れちまって良いですね?」

 そう言って緑鬼は背中を傾け、背負っていた箱を見せた。

 犬小屋のような小さい家を背負っている。緑色の屋根と緑色の戸が付いた、白い壁の小屋だ。小屋の壁から背負い紐が伸び、リュックサックのように背負っている。

「お願いします」

 門番頭に言われ、緑鬼は背中の小屋を騒ぐ死者に向けた。

 緑色の戸が開き、人影姿の死者は目にも止まらぬ速さで小屋の中へ吸い込まれてしまった。パタンと戸が閉まり、辺りはしんと静かになった。

 足を止めていた死者たちが、ゆっくりと歩き出す。後方の死者たちも続いて行き、途切れていた列は一本に戻った。

「あぁ、良かった。静かになりましたね」

 と、門番頭は言い、集まっていた門番たちに目配せする。

 門番たちは小さく頭を下げ、それぞれの持ち場へと散って行った。

「緑鬼、こちらへ」

「はい」

 ゆっくりと流れる死者の列を追い抜きながら、緑鬼は門番頭について行く。

 門番小屋が見えて来ると、門番頭は死者たちの頭の上をふわりと飛び越えた。緑鬼も続いてぴょんと跳び越える。

 緑鬼を連れた門番頭は、門番小屋の木戸を開けた。

 小屋の中は小さな民家のようだった。テーブルがあり椅子があり、流し台や戸棚に机も置かれている。正面には門の向こう側へ続く扉もあり、中では数人の門番が事務仕事をしていた。

 戸棚の前で帳面を見ていた門番に、門番頭が何か言付けた。その門番はすぐに、戸棚から長方形の木箱を取り出している。

 門番頭はひと息ついて、テーブルに添えられた椅子に腰掛けた。

 木箱を取り出した門番は、壁から飛び出す杭に木箱を縦長に取り付けている。

 他の門番が、湯飲みに入った黒い液体を出してくれた。テーブルの上、門番頭と緑鬼の前に湯飲みを置く。

 立ったまま緑鬼は、

「で、どうするんですか、こいつ」

 と、聞いた。門番頭は両手で湯飲みを包み、

「あなたに運んで欲しいのです」

 と、言った。

「地獄に直でいいんすか?」

 緑鬼が聞き返すと、門番頭は黒い液体を一口飲んでから、

「いいえ。懺悔室ざんげしつです」

 と、答えた。

「あぁ、角無し鬼の?」

 すぐに答えた緑鬼を見上げ、

「はい。場所もわかりますか?」

 と、門番頭は聞いた。

「時々遊びに行くんで」

「おや、そうでしたか」

「あいつの色、良いと思いません?」

 端正な表情の緑鬼が目元をほころばせて言う。

 門番頭は思い浮かべてみながら、

「あれは獄界ごくかいにいる鬼の突然変異でしょう。顔色の同じ鬼なら、獄界でも見られるのでは?」

 と、言った。

「いや、俺、あの角の色は無理っす」

 手をひらひらさせて緑鬼が言う。門番頭は小さく溜息を吐いた。

「あなたの好みなど知りませんよ。あの子に電話しますから少し待っていて下さい」

「まだしてなかったんすか」

 壁に掛けた縦長の木箱は、古い箱型電話機だった。

 木箱にラッパ口の受話器を取り付けてから、門番は何度も電話を掛け直している。蜂の巣のようにたくさんの穴が開いたダイヤルを、くるくると回し続けていた。

「懺悔室は不安定な場所にあるので、電話がなかなか繋がらないんです」

 電話機の前で受話器を耳に当てながら、門番はこちらに顔を向けて申し訳なさそうにしている。

「単に出たくないんじゃないですか。この前、鬼でも過労死するのかってぼやいていましたよ」

 そう言いながら、緑鬼は湯飲みを持ち上げた。くんくんと、においを嗅いでいる。

「おや、忙しいのですね。でも、手に余るならば他の鬼があてがわれるはずです。電話を拒否など許されているとは聞いてませんよ」

「厳しいな。そうなったら、鬼のくせに角が無いなんて突然変異がまた生まれるんすかね」

「さぁ。どうでしょうね」

 緑鬼は黒い液体を舌先で舐めてみた。しかし、渋い顔をしてすぐに湯飲みをテーブルへ戻す。

「あ、繋がりそうです」

 と、電話機の門番が言った。立ちあがった門番頭に受話器を差し出す。

 門番頭は小さなラッパ口の受話器を受け取り、耳に当てた。

 緑鬼がツンと尖った耳で聴き耳を立てていると、受話器の向こうから、

「はい、懺悔室です」

 と、角無し鬼の声が聞こえた。

「すみません、冥界めいかい死者の門です」

 と、門番頭が言うと、

「あぁ、門番頭さん」

 と、角無し鬼が答える。

「困った死人がいましてね。あなたにお願いしたいのです」

「死者の門に並んでいる死人ですか?」

「成仏させるつもりかこのやろうと、叫んでいるんです。霊自身に成仏するつもりが無ければ、あの列には並べないはずなんですけどね」

 そう言って、門番頭は小さく溜息を吐いている。

「そうですね。そういう人は懺悔室に来るはずです。どうしたいのか自分でもよくわからないんでしょうかね」

「なるほど、そう見ますか」

「会ってみないことにはわかりませんが、よくわからない内に流されて来てしまったのかも知れませんね」

「緑鬼に連れて行ってもらいます」

「わかりました」

「では」

 と、門番頭は受話器を箱型電話機に戻した。

「では、緑鬼。頼みましたよ」

「はい。預かって行きます」

 門番頭と小屋にいた門番たちに軽く会釈して、緑鬼は門番小屋の木戸を開けた。

 外に出ると、すぐ目の前を煙の塊状の死者たちが通り過ぎていく。緑鬼はその頭の上をひょいと跳び越え、背中の小屋を背負い直した。

 死者の門を背後にポーンと跳び上がる。死者たちの歩く壁沿いの道から離れれば、黒岩や硬い土ばかりの景色だ。緑鬼は弧を描いて大岩の上に降り立ち、もう一度跳び上がる。

 バッタのように跳ねながら、緑鬼は灰色の大気の奥へと消えて行った。


 角無し鬼のいる懺悔室は、真っ白な空間の中に浮いている。

 外から見れば扉のついた白い箱だ。白い空間の中でも、白い懺悔室は不思議とハッキリ見えていた。

 扉へ繋がる道も地面すらもない空間だ。やや低い位置からやって来た緑鬼は、斜め上に跳ねながら懺悔室へ到着した。

 ノックもせずに冥界側の扉を開け、

「よお」

 と、緑鬼は懺悔室へ顔を出した。

「ご苦労さま」

 ソファの肘掛けに寄りかかりながら、角無し鬼は扉の前で待っていた。

 身を屈めて入って来た緑鬼が腰を伸ばすと、角無し鬼の背丈の倍はある。小さな角無し鬼を見下ろすと、緑鬼はきょとんとして、

「――あっれ、顔色変わっちまったのか?」

 と、聞いた。

 翡翠色ひすいいろの肌が所々濃くなって、角無し鬼の顔が斑模様まだらもようになっていた。

「えっ、本当?」

 と、角無し鬼は両頬を押さえた。

「どうした、奇抜な模様になってるぞ。案外好きだが」

「模様?」

 横壁に姿見鏡が現れていた。姿見に顔を映し、角無し鬼は目を丸くした。

「うわ、何これ。恥ずかしいなぁ」

 緑鬼が手を伸ばして、角無し鬼の頬をつついた。

「痛いよ、触らないで。さっきヒステリックな死者に、熱い紅茶をかけられたんだ」

「紅茶?」

「うん。後先考えずに、ヒスを起こしたかった死者。ティーカップを投げた後に、ティーポットの中身もかけられたんだよ。カップが当たった頭はコブになってるし、顔に紅茶かけられて凄く熱かった」

 話しながら角無し鬼は、姿見に映した顔を覗き込んで頬と額の隅を撫でている。

 長身の緑鬼は姿見の横に膝をつき、

「火傷か、これ」

 と、角無し鬼の顔を覗いた。前髪を撫で上げ、緑鬼は斑模様の広がる額を眺めた。

「こんな風になったの初めて。死者に怖がられちゃうかな」

「門番の奴らや俺のことも見てるんだ。このくらいじゃ怖がられやしねぇだろうけどよ。俺の小屋に時間は存在しねぇし、氷で少し冷やせよ」

 黒テーブルに緑鬼が目を向けると、黒電話と並んで氷嚢が置かれていた。

「さっきまで冷やしてたんだよ」

 角無し鬼の額のコブも触ってみながら、

「茶など出すのはやめてしまえ」

 と、緑鬼は言う。

「だって、お茶とかあると話が進むんだもん。でも今は熱い紅茶いやだから、次はアイスコーヒーにしよう」

「あっちの部屋に居るから、俺にも一杯くれ」

「居てくれるの?」

「始終見てかねぇと門番頭に文句言われそうだ。ここの飲み物は美味いしな」

「うん。はい」

 角無し鬼は、黒テーブルに用意されたアイスコーヒーのグラスを差し出した。

「ブラックで良いんだよね」

「おう。じゃあ、出すぞ」

 と、緑鬼は背中を向けた。緑屋根の小屋の扉がパカリと開く。

 すぐに、白い靄の塊が流れ出した。

 靄の塊は一度、床に落ちてから人の形に膨らんだ。頭の部分が膨らみ、手足が伸びる。

 靄の手を引いて行く角無し鬼に、グラスを持った緑鬼は、

「頼んだぜ」

 と、言って、横壁の前に立った。普段は壁になっているが、横部屋への木戸が現れる。

 緑鬼が木戸を開けると、横部屋の中は、ちょっとした待合室になっていた。

 大きなソファベッドが置かれ、戸棚の上には小さなテレビと古いラジオが並んでいる。壁のフックには上着を掛けるためのハンガーも下がっている。

 死者が重なった時に待たせておくための待合室だ。

 横部屋は悪霊がやって来てしまった時に角無し鬼が逃げ込むための、避難部屋になることもある。必要に応じて姿を変える便利な部屋だ。

 横部屋に入りかけてから緑鬼が、

「そうだ。その死人、さっきまで騒いでたんだ。気を付けろよ」

 と、言った。

「わかった。気を付ける」

 角無し鬼が頷くと、緑鬼はアイスコーヒーをすすりながら木戸を閉めた。


 懺悔室には、角無し鬼と人の形の靄だけになった。

 人の形の靄をソファに座らせ、角無し鬼も向かい側のソファに腰掛ける。

 ――突然、騒ぎ出すだろうか?

 靄は少しずつ輪郭をはっきりさせていく。角無し鬼は軽く息を飲んで、靄が人の姿になるのを待った。

 姿がはっきりしていくにつれ、朦朧もうろうとしていたらしい死者は徐々に意識を戻し始めたようだ。

「うーん」

 と、唸り声を上げた死者は、中年の男の姿になっていた。

 角無し鬼が見詰めていると、男はハッと気付いたように当たりを見回した。

 工場の制服のような、使い古したジャンパーを着た赤ら顔の男だ。髪の薄くなった額に皺が寄っている。

「気が付きましたか」

 声をかけた角無し鬼に驚いたようで、男は威嚇するような表情を向けてきた。

「なんだ、ここっ」

 と、大きな声を上げた。

「落ち着いて下さい。ここは未練を解くために、お話を聞かせてもらうティールームです」

「……なんだ、それっ」

「懺悔室と呼ばれることもあるのですが、ここでは」

 角無し鬼の言葉を遮るように、男がソファの肘掛けに拳を打った。

「俺は悪事なんか働いてねえっ。懺悔することなんかねぇよ!」

 男の大声が小さな懺悔室の中に響く。角無し鬼は落ち着いた声で、

「この懺悔室は、悪事を告白させるための部屋ではないんです」

 と、言った。

「なら……なんなんだ」

 ぶつけるような言い方ではなくなったが、男の声は大きかった。

 男は、もう一度小さな懺悔室を見回した。

 黒テーブルには、いつの間にかアイスコーヒーのグラスがふたつ、角無し鬼と男の前に置かれていた。

「さっき俺が並んでた所はなんなんだ」

「死者の門です。突然お連れしてビックリなさったと思いますが、お話を伺いたくてここへ来てもらったんです」

「他のお客様の迷惑になりますから? 別室にお出で頂きましたって訳か?」

「いえ、そういう訳では――」

「言いたいことがあるならお前が聞くってんだろっ。馬鹿にするんじゃねぇ!」

 いきり立った男は、アイスコーヒーのグラスを掴んだ。水を巻くようにグラスを振るい、男は角無し鬼にアイスコーヒーを引っかけた。

 顔を背けることも出来ず、角無し鬼は目を閉じただけでコーヒーを被ってしまった。額に当たった氷が、こつんと音を立てた。

「すみません……あなたは、そのままでは幽霊の姿のまま、この世を彷徨うことになってしまいます。安らかに眠るということが出来ないんです。あなたの未練を軽くするために、お話を伺いたいんです」

 ポタポタとコーヒーの滴を落としながら、角無し鬼は顔を伏せて話した。

「未練なんか、軽くなるもんかよ。俺は死んだんだ。騙されて、人生を棒に振らされて、野垂れ死にしたんだよっ」

 角無し鬼は両手を膝に乗せたまま、濡れた顔を拭いもせずに男を見上げた。

「誰か、特定の人物に恨みをもっている訳ではないようですが」

 言われて男は、自分の膝に拳を乗せ、

「俺は頭が悪いのさ」

 と、言って数度、拳で自分の膝を叩いた。

「いつも行き当たりばったりだ。裏なんか考えねぇ。だから騙されるんだ」

「裏表をもち、人を騙して自分の良いように進んで行く人たち、全員を恨んでいるんですね」

「みんな、そうやって上手く生きてるんだ。そういうのが世渡り上手って言うんだよ。こうするために、こう言っておくとかな。俺だって、わかっちゃいるんだ。だが俺は、そんな風に頭を使えるほど賢かねぇんだっ」

 そう言って、男は項垂れながら両手を握り合わせた。

「真っ当に生きてきたと、言えませんか?」

 と、角無し鬼が聞いてみると、男は床へ向かって舌打ちした。

「まともな生活も出来ずに何が真っ当だ。別に人を騙さなくたっていい。こうならないように、こうしておくだの、行動しちまう前に考えてればいい。俺にも、それが出来れば良かったんだ」

「難しいです」

「みんなやってることだ。考えて行動してるだけだろ。当たり前のことじゃないか」

「それでも、あなたには裏表があるように思えてしまって、その場その場では出来なかったんですね」

 角無し鬼が言うと、男は握り合わせた手を組み替えながら溜息を吐き出した。

「当人を目の前にしてよぉ、こいつがこうしないように手回しするとか、失敗してるのわかってて上げ足取るとか、当たり前にやって良いことじゃねえよ」

「僕も、そう思います」

「そう言うのは、みんな裏表があるってことだ。仕事を正しく進めてくには必要な場合もあるだろうけどよ。裏表のある人間ってどうなんだ。人道に反してるんじゃないか?」

 男が顔を上げたので、角無し鬼は深く頷いて、

「必要があっても、度を越されると腹が立ちます」

 と、答えた。男は鼻で笑って頷いた。

「腹が立つさ。でも、馬鹿な奴を馬鹿にするのは気持ち良いんだろうよ。踏み台にするのも都合が良い。頭の良い奴は俺みたいな馬鹿を騙して、都合よく立ち回るんだ」

「なんだか、嫌な世の中ですね」

 肩を落として角無し鬼が言うので、前屈みになっていた男は身を起こし、ははっと笑った。

「いや、賢い奴等には楽しい世の中なんだろうよ」

 と、今度は平手で自分の膝をぺんぺんと叩いた。

 角無し鬼は、小さく苦笑して見せた。

「ひとつ、お伝えできることがあります」

「なんだよ」

「死者の門を通って進むと、審査のようなものを受けるんです」

 角無し鬼が言うと男は難しい顔になり、

「合格しないと天国に行けないのか」

 と、聞いた。「善人は天国で、悪人は地獄なんだろ?」

「いいえ。審査は死者ひとりひとりの人生を見るんです。良い人か悪い人かなんて、単純なくくりではないんですよ。人間は必ず良い心や悪い考えをもっていますし、良い行いも嫌な行いもしています。本人は覚えていなくても、そういうものが人の中には蓄積しているんですよ」

 ゆっくりと説明する角無し鬼の話を、男は難しい顔のまま聞いている。

「決められた物差しはありません。法律のように他の誰かにとっての何かを与えられるのではなく、あなたを判断するんです。人によっては、ご褒美あり刑罰ありの死後の旅ツアーに出ることになったり、地獄で用意された刑罰をたっぷり受けてから次の世へ進んだりするんです。だから地獄では他の人にはわからない、その人だけが苦しむ刑罰を受けるんです。気付かずとも人を苦しませた人にも、同じように苦しませるような、その人専用の刑罰が用意されます。幽霊になってからは、そういう世界なんです」

 優しい声音で話し、角無し鬼は笑みを向けた。

 たくさんの話を理解は出来ない様子だが、男は軽く頷きながら、

「……そうなのか」

 と、呟いた。

「はい」

「俺が行っちゃいけない、死者の門とやらに行こうとしてたから……適当なこと言って追い返そうってんじゃないだろうな」

 言葉を考えながら、男は言った。

「いいえ。地獄を怖れる人には刑罰から逃げ出したくなるような話かも知れませんが、それはあなたが嫌いな人たちの場合だと思うので、あなたにお伝えしました」

 角無し鬼が答えると、男は角無し鬼の苔色の瞳をじーっと見詰めた。角無し鬼も、真っ直ぐに男を見詰めている。

 雑音もない懺悔室の中、角無し鬼の前に残るアイスコーヒーの氷が、カランと小さな音を立てた。

 男は数度、小さく頷いた。

「もう、俺は死んだからな。最後に、お前さんを信じてやっても良い」

 と、男は言った。角無し鬼は幼い笑顔を見せて、

「ありがとうございます」

 と、言った。

「さっきの列に並んで良いのか」

「はい」

「そっちの出口から行けば良いんだよな」

 そう言って、男は早々と立ち上がった。冥界側の扉へ向かい、

「コーヒーかけて悪かったな。風邪ひかねぇでくれよ」

 と、言った。

「平気ですよ。鬼ですから」

「なんだ、鬼だったのか」

「角のない鬼なので、角無し鬼といいます」

「そうか。死後ってのも面白いもんだな」

 そう言って、男は冥界側の扉をくぐった。後ろ手を振って、男は白い空間を歩いて行く。角無し鬼も手を振り返し、ゆっくりと扉を閉めた。


 黒テーブルに、タオルが用意されている。

 ソファに戻り、角無し鬼はコーヒーで濡れた髪をタオルで拭きながら、

「行ったよ、緑鬼」

 と、声を掛けた。

 横部屋から顔を出して緑鬼は、

「結局、アイスコーヒーでもぶっかけられるんじゃないか」

 と、言った。戸を閉めると横部屋は消えてしまい、元の白壁に戻った。

「……アイスで良かったよ」

 角無し鬼の灰色の衣服は、肩や胸元まで茶色くシミが広がっている。翡翠色の顔は斑模様になったままだが、額に黒い痣が増えていた。

 緑鬼は黒テーブルに空のグラスを置いた。

「おでこが黒っぽくなってるぞ」

「氷が当たったの。氷も結構痛い」

 緑鬼はソファの肘掛けに寄りかかり、

「他所からの仕事まで頼んで悪かったな」

 と、言って、タオルの上から角無し鬼の頭を撫でた。

「緑鬼も、頼まれちゃっただけでしょ?」

「まぁな」

 緑鬼が黒テーブルに置いたグラスに、もう一度アイスコーヒーが注れていた。角無し鬼の飲み物はホットココアに代わっている。

「コーヒーか。死者の門の奴等が飲んでる黒いものじゃなくて、これは薄めると茶色くなるんだな」

 角無し鬼の衣服に広がる茶色いシミを見ながら緑鬼は言った。髪を拭ったタオルも薄茶色く染まっている。

「こげ茶色の豆を挽いて抽出してるんだよ」

 そう言いながら、角無し鬼は肩や胸元のシミを手で払った。

 コーヒーは布地に染み込んでしまっていたが、まるで粉物のようにパラパラと落ちて消えてしまった。

 背中に跳ねたシミを指先で払ってくれながら、緑鬼は、

「小豆?」

 と、聞いてきた。

「ううん、コーヒーはコーヒー豆だよ。門番さんたちは黒いものを飲んでいるの? 墨汁?」

「味は無いのに不味かった。あそこは黒ばっかりだ。やっぱり良い色が無くちゃな」

 と、緑鬼は、角無し鬼の髪を撫でた。苔色の髪も、すっかり乾いていた。

「死者の門に並ぶ死者たちは、白っぽいでしょ?」

「半透明だな。何も無くなっちまった色だ。まだ、死ぬ前の中身のままなんだろうにな」

 緑鬼がそう言うと、角無し鬼はふふっと笑った。

「死者の門に並んでいる人たちは、みんな未練も忘れて、よくわからない状態で流れていくんだ。本人たちには、きっと安らかな状態なんだよ。さっきの人も、きっと門に着く頃には他の人たちと同じように落ち着いた気持ちでいられるようになってると思うよ」

 角無し鬼の笑顔を見下ろし、緑鬼はうんうんと頷きながら、

「さっきの死者は最初、濁って見えてたけど、すっかり他の死者たちと同じ色無しになれてたな。ちょっと話をしただけなのになぁ」

 と、言った。

 ホットココアのカップを両手で包み、

「本人の気持ち次第だからね。話すだけで何かが軽くなったり、何をしてもダメだったりするんだよ」

 と、角無し鬼は言った。

「さすがだな」

 言われて角無し鬼はヘヘッと幼い笑みを見せ、コーヒーのグラスに手を伸ばす緑鬼を見上げた。

「茶色いのに、ブラックコーヒーか」

「だって黒く見えるでしょ。ミルクや砂糖で濁らせないのがブラックコーヒーだよ」

 と、角無し鬼が言う間に、緑鬼はごくごくとアイスコーヒーを飲み干してしまい、黒テーブルにグラスを置いた。腰掛けていたソファの肘掛けから立ち上がり、冥界側の扉へ向かう。

「今度はホワイトコーヒーを飲みに来る」

 と、言って、緑鬼は扉を開けた。

「ホワイト……うん、探してみる」

「じゃあ、またな」

 緑鬼は床を蹴って、ぴょーんと跳ねた。

 白い空間に消える緑鬼を見送りながら、角無し鬼は笑顔で手を振っていた。

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