第9話 交通事故
どこからか、子どもの泣き声が聞こえる。
ソファでウトウトしていた角無し鬼は、目を開けて辺りを見回した。
小さな子どもの泣き声が母親を呼んでいる。親子幽霊の子どもが迷い込んだのだろうか?
目元を擦ってからぐーっと伸びをし、眠気を覚ましながら気配を探る。
扉の向こうに立っていたのは、黒いローブをまとった逝き先案内人だった。
魔女のような黒いとんがり帽子を被っているが、よく見ればそれは所々擦り切れた編み笠だ。目深に被った黒編み笠で顔は見えないが、体型は痩せた男性に見えた。
「どうかしましたか?」
角無し鬼が聞くと、逝き先案内人の裾の長いローブがもそもそと揺れた。その中から、少女のすすり泣く声が聞こえる。
首を傾げる角無し鬼に、逝き先案内人の男は、
「地獄の
と、聞いた。
赤ん坊の泣き声や女の悲鳴には厄払いの力があり、それを苦手とする魔物も多いらしい。
ローブに隠しても泣き声は聞こえるのだが、逝き先案内人は角無し鬼を気遣ってくれているようだ。
「大丈夫です」
と、角無し鬼が笑みを見せると、ホッとした様子でローブを広げた。
もう一枚ローブを着たような逝き先案内人と、小さな女の子が手を繋いでいた。
可愛らしいピンクのワンピースを着ている。涙を擦る女の子の泣き顔が角無し鬼を見上げた。
「母親が居るはずだと言うのだが、俺には見えない。ずっとこの調子で泣き止まないし、無理やり連れて逝くのも
「聞いてみましょう。どうぞ、中へ」
「俺は、ここに入れん」
「あ、そっか」
逝き先案内人も様々だ。
しかし、この懺悔室には、そんな場合の便利道具がある。
黒テーブルの上に、くるくると丸められたマットが現れていた。角無し鬼はマットを抱えて来ると、人界側の扉の前に敷いた。焦げついたような模様の灰黒色のマットだ。
「獄界からもらった絨毯です。この絨毯の上は獄界と同じですよ」
「おぉ」
逝き先案内人は女の子を促してマットに乗った。
角無し鬼は、女の子の前にしゃがみ込んだ。
「お母さんが居ないんだって? 中で、お話を聞かせてくれるかな」
優しく尋ねると、数度しゃくり上げてから女の子は小さく頷いた。
黒テーブルにはホットミルクが用意されていた。
灰色のソファに腰掛けた女の子は、黒テーブルに置かれたホットミルクのマグカップを見つめている。
「どうぞ。ホットミルクだよ」
と、角無し鬼が進めると、女の子は小さく頷いてマグカップに両手を伸ばした。
「お母さんのと同じ味だ」
「そっか。美味しい? 少し熱くないかな」
「平気。お母さん、ここに居るの?」
「ここには居ないよ」
角無し鬼が答えると女の子は残念そうに俯き、また目を潤ませてしまった。
ゆっくりとホットミルクを飲み干し、マグカップを黒テーブルに置く。
その様子を女の子の背後から、ソファの背もたれ越しに逝き先案内人が見守っている。
「車にぶつかっちゃったんだね」
角無し鬼が聞くと、女の子は、
「違うよ。車がぶつかって来たんだよ」
と、答え、潤んだ目元を片手で擦る。
「そっかそっか。ビックリしたね」
「怖かった」
「その時、お母さんが一緒に居たの?」
「ずっと手つないでたのに、お母さん居なくなっちゃった……いっしょに、車にぶつかられたのに……」
逝き先案内人が、困ったように肩を落として見せる。
小さな女の子だが、角無し鬼には、女の子が自分の死を理解していることが見えていた。
「あのね、リコちゃん」
角無し鬼が、優しく話しかけた。
名を呼ばれ、女の子は泣き腫れた目をパチパチさせた。
「日本ではね。一日にたくさんの赤ちゃんが産まれていて、交通事故や病気でも、たくさんの人が死んでしまうんだ。君とお母さんが一緒にいたとしても、実は、君の知らないところで君とお母さんの間に死んでしまった人がいたりする。そうすると、今は一緒に居られなかったりするんだよ。わかるかな」
キョトンとした表情で女の子は、
「……なんとなく」
と、頷いた。
「でもね、この先へ行ったところで会える時がくる。今だけ少し、ひとりでも我慢できるかな」
「この先にお母さんがいるの?」
「お母さんは後から来るんだよ。お母さんが来るまで、ひとりでお母さんを待てるかな」
女の子は角無し鬼の顔を見詰めていたが、両手で涙を擦り、しっかりと頷いた。
「ホットミルク、もう一杯飲んでいく?」
「ううん。もう行く」
「そっか」
小さな体には大きく見えるソファから、女の子はぴょこんと降りた。そのまま、とことこと冥界側の扉に駆け寄った。
内開きの小さな扉を開ければ、女の子のために用意された道がある。
「道、わかるかな」
「わかるよ。この道を、真っ直ぐ行けばいいんだよ」
と、女の子は道の先を指差した。
「うん。じゃあ、ひとりで大丈夫だね」
「おじちゃんは行かないの?」
と、振り返り、女の子は逝き先案内人に目を向ける。
「俺は、ここまでなんだ」
逝き先案内人は優しい声で答えた。
「わかった。ここまで来てくれてありがとう」
しっかりお礼を言うと、女の子は冥界への道を駆け出して行った。
懺悔室は、この世とあの世の狭間の真っ白い空間に浮かんでいる。逝く者だけに見える道は、角無し鬼の目には映らない。
「バイバーイ」
後ろを振り返り、女の子が白い空間から手を振っている。
「転ばないようにねー」
と、角無し鬼が手を振りながら声をかける。人界側の扉の前では、逝き先案内人も手を振っていた。
女の子の後ろ姿が小さくなると、角無し鬼は静かに扉を閉めた。
「……お兄さんと言って欲しかった」
懺悔室に残った逝き先案内人が、肩を落として呟いた。
「小さい子の目ですから」
「あの子の母親は、死んだ時間が離れていたのか」
「あの子のお母さんは、まだ生きているんですよ」
「これから死ぬのか」
「まぁ、いつかは」
「いつか?」
頷きながら、角無し鬼は悲しげな表情を見せた。
「一緒に事故にあった母親は助かったんです。娘さんは亡くなりましたが」
「……ほう」
感心するような声を漏らした。
「良いのか、あの子に嘘を言って」
「嘘は言っていません。この先へ行けば、いつか会える時がきます。死後は時間の感覚が曖昧になります。流れに身をまかせている内に時が来るでしょう」
「そうか。なるほど」
数度頷き、逝き先案内人は骨ばった手で角無し鬼の頭を撫でた。
「角無し鬼」
「はい」
「また、困った
「もちろん」
角無し鬼が笑顔で答えると、逝き先案内人はもう一度頷き人界側の扉を開けた。
「お疲れ様です。まだお仕事ですか」
「逝き迷う者は多い」
「……そうですね」
「世話になった。またな」
「はい」
逝き先案内人は人界側の扉から白い空間へ、滑り降りるように姿を消した。
足元を見下ろしていた角無し鬼は、扉を閉めると、敷いていた小さなマットを抱え上げた。
「お母さんは娘をかばって、とっさに車の前に出たんだ。だけど、スピードを出して突っ込んでくる車を止められる人間はいない」
小さなマットをしまい込んだ黒テーブルには、懺悔日誌と
「なんて悲しい結果なんだろう」
角無し鬼の目が潤む。
羽筆はひとりでに揺れて懺悔日誌に書き込んでいる。黒テーブルはホットミルクを用意してくれた。
ミルクを一口飲み、
「だけど優しい逝き先案内人さんに案内してもらえて良かった。きっと、あの子の日ごろの行いが良かったんだね」
肩を落とすように、角無し鬼は悲しげな笑みを浮かべていた。
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