第8話 誕生日と命日の確率

「これは、誰かに言ってやらんといかんと思ってね」

 深いしわの刻まれた老人は楽しげに言った。


 薄青色の寝間着ねまき姿で、老人にしては背筋が伸びて長身に見える。

 その老人は、自分の家にでも帰って来たかのように人界側じんかいがわの扉を開け、ソファへ腰かけていた。

 翡翠色ひすいいろの肌に、髪と目は苔色こけいろをした角無し鬼を見ても驚く様子はなかった。

 黒テーブルには、渋い緑茶が用意されている。

「4月8日。20時10分。これがね、私の命日と死んだ時間なんだよ」

 と、老人は、なにやら得意げに言った。

「よく覚えているんですね」

「4月8日。これはねぇ、私の誕生日でもあるんだよ」

 にこやかに老人が言うと、角無し鬼は大きな目をさらに丸くした。

「お誕生日の日に、亡くなられたんですね」

 驚く角無し鬼に、老人は満足そうな笑顔を見せた。

「一年間ね、365日あるだろう」

「はい」

「365日それぞれに、365日が組み合わさる確率になる。数学は得意じゃないんだが、計算機はあるかね」

 老人がそう言うと、黒テーブルは角無し鬼の前にそろばんを出した。すぐに角無し鬼はそろばんを黒テーブルの中へ押し戻し、小声で、

「電卓」

 と、呟いた。

 老人の目の前に、ボタンの大きな電卓が現れた。

 突然現れた電卓にも、老人は動じる事なく指を伸ばした。

「単純に考えて、365かける365で……133225分の一の確率だ」

 そう言って、老人は電卓の文字盤を角無し鬼に向けて見せた。

「凄い確率です」

「そうだろう。数が大き過ぎて、しっくりこないが凄い確率だ」

「誕生日が特別な日であるだけに、その数字の確率よりも、なかなかそうはいかないような気がします」

 角無し鬼がそう言うと、老人は角無し鬼を指差して、

「そう! そうなんだよ」

 と、身を乗り出した。

「まだ、どなたも気が付かれないんですね」

 と、角無し鬼は静かに聞いた。

「そうなんだよ……」

 なんとも残念そうに、老人は肩を落としてしまう。

「誕生日も忘れてしまうような歳でしたがねぇ。自分で気付いた時は嬉しくてね。誰かが気付くのを楽しみにしていたのに」

「ご家族には、あなたが亡くなられたという事実が大きすぎるのだと思います。余命宣告でわかってはいたつもりでも、なかなか受け入れられるものではありません」

 落ち着いた声で、角無し鬼は話した。

「……そうだなぁ」

 深緑の湯飲みに入った熱い緑茶を、角無し鬼はひと口飲んだ。

 老人の前には濃い青色の湯飲みが置かれている。老人も湯飲みに手を伸ばしながら、

「妻がねぇ、言うんですよ。私が寝起きしていた部屋に来て、居なくなっちゃったのねぇって。いつもお茶を入れてくれていた湯飲みを見たり、陰膳かげぜんに置いた私の箸を洗っていつもの場所にしまっちゃあ、こっちじゃなかったわーなんて言ったりね。見ていて、いたたまれなくなりましてね」

 と、話した。

「そうでしたか」

 数度頷き、そのまま項垂うなだれてしまった老人に、角無し鬼は、

「人と別れるって、淋しいですね」

 と、言ってみた。

「いや、私は一期一会いちごいちえのつもりでいましたよ」

 と、老人は項垂れたまま言った。

「……?」

 黒テーブルが、カンニングペーパーのように『四字熟語辞典』を開いて見せてくれた。

 ふむふむと角無し鬼が頷くと、辞典は姿を消す。

「近所の井戸端会議から、なかなか帰って来なかったくらい話好きな妻でね。友だちと出かけることも多かったが、葬儀も役所の手続きも終わったのに、一向に出かける気配がない。そんなに、落胆させてしまうとは思ってなかった……」

「あなたがお誕生日に亡くなられたことで、奥様がそれに気付いたとき、立ち直るきっかけになるかも知れません。だって、誰かに話したいじゃありませんか」

 角無し鬼がそう言うと、老人は目から鱗という顔を見せた。

「……確かに。私も、それでここに来たんだったなぁ」

 老人は、少し力の抜けた笑いを見せた。

「この先へ進むと、奥様が気付く様子を直接見ることはできなくなりますが」

「いや。直接見なくてもわかるよ。妻には妹がふたりいてね。きっと最初に、そのふたりにアプリでメッセージを送るんだろう」

 手元で何か操作する仕草を見せながら、老人は言った。

 立ち上がった老人の表情は明るかった。

「聞いてもらえる人がいて良かったよ」

 にこやかに言うと、老人は冥界側めいかいがわの扉へ向かった。

「お気をつけて」

「あぁ、ありがとう」

 きびきびと歩く後姿を見送り、角無し鬼は静かに扉を閉めた。


 ソファに戻ると、黒テーブルが『最新カタカナ語辞典』を開いてくれていた。

「あぷり」

 発音してみながら、角無し鬼は辞典を眺めた。

 あまり良く理解はできなかったが、

「お爺ちゃんお婆ちゃんも使いこなす、便利なものがあるんだね」

 と、言った。

 黒テーブルの上には、深緑の湯飲みだけが残っていた。老人の前に置かれていた青色の湯飲みは姿を消している。

「いつか、黒テーブルみたいなタッチパネルもできるのかもね」

 と、角無し鬼は真面目な顔で言う。

 黒テーブルは角無し鬼の緑茶を引っ込めてしまい、懺悔日誌ざんげにっし羽筆はねふでを出現させた。

「あははっ。怒らないでよ。あんまり渋くないお茶ちょうだい」

 角無し鬼は笑いながら黒テーブルをなでた。

「あと、一期一会だ。黒テーブル、いつもありがとう」

 少しだけ間を置いて、黒テーブルは答えるように温かい緑茶を出した。

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