最終章
第七十話
「はいお待ち」とおばちゃんの声が聞こえ、直径五十センチはありそうな大きな
「まじでこれ一人で食べるつもり?」
「うん、弘樹の
パチンと割り箸が割れる音を鳴らし、勢いよく田中は味噌ラーメンをすすりはじめた。俺は炒飯の中、五百七十五円を食べているけれど、目の前にあるのは一般的なラーメン店の炒飯大盛りに、さらに大盛りを重ねたくらいの量だった。
大学と目と鼻の先くらいにあるこのラーメン屋は、俺が通っている大学の学生たちの腹を長年満たしている。食べきれなければ持ち帰り用の透明なパックをくれ、炒飯中を頼んで持ち帰れば、昼と夜、二食分に相当する。それで五百七十五円はかなりお得だと、俺たちはよくこの「サッポロ二十七番大学前店」を利用していた。俺の場合はお持ち帰りをすること前提で、だが。
「確かに、ラーメンは食べきれなくても持ち帰れないしな」田中のラーメンを見ながら俺がいうと、田中は嬉しそうに色のぬけたキャベツを食べながらこちらを向いた。
「そうそう、だから奢ってもらえるなら一人でラーメン大を食べてみたかったんだよね。並だと物足りないし。しかし、全然食べても食べても減ってる気がしないわ」
そう言いながらも、驚くほどの速さで味噌ラーメンが田中の少しぽっちゃりとした体へ吸い込まれていくのをみていたら、なんだか食欲が失せて来た。
「それにしても、田中もインマルやってるとは思ってなかったわ」そう言いながらレンゲですくった炒飯を口に運ぶ。醤油味の少ししっとりとした炒飯はいつもと変わらない味わいで、自家製チャーシューの切れ端の旨味がじんわり口の中に広がると、いともたやすく俺の食欲は復活した。
「今時誰でもやってるって。それにしても弘樹スゲェな。思い込み激しすぎね? 」と、冬だというのに汗をかきラーメンをすすっている田中が俺にいうが、本当にその通りだと思った。
「自分でもそう思うわ。東京まで行くって、どうかしてた。バイトの件も悪かったな」
「全然いいって。ラーメン奢ってもらったし。でもごめん、他の人決まったみたいだ」
田中にそう言われ、「しょうがないって」と返しながらも、残念な気持ちはぬぐえなかった。飲食店のバイト、賄いご飯、食費が浮くと思っていたものがなくなり、それだけじゃなく、せっかく貯めていた貯金もだいぶ使ってしまった。宿泊費は、浮いたけれど。
「で、妹さん、明日には帰ってくるんだろ?」
「うん。本当人騒がせだよな」と言いつつも、自分の罪を知ってしまった今となっては、今回の五姫の家出騒動は俺にとって、家族とは何かを考えるいい機会になった気がしている。
――まだ土曜日だし、もう帰ってきたわけじゃないけどな。
五稀が帰って来たら、自分のできる限りで五稀に寄り添ってあげたいと思っている。五稀のインマルの投稿が更新されてないことも気になっているからだ。学校の友達ともまだうまくいってないなら、俺は何か、五稀の相談に乗ってあげれるだろうか。
思いを五稀に寄せて炒飯を食べ進めていると、向かい側の席で田中が「そういえば」と、何か思い出したように言葉を発し、自分のスマホを取り出して何か検索しはじめているようだった。ラーメンをすすりながら器用に左手で画面をタップしたりスワイプしたりしている。そして、探し物が見つかったのか、そのスマホ画面を俺の方に向けて来た。
「お前が見つけた俺のインマルってこっち?」
「こっちって?」
「いや、二個持ってるからさアカウント。アイコンはどっちも推しのアニメキャラだけど。ほら、こっちの猫写真の方は猫のキャラじゃん? で、こっちは魔王様にしてるんだけど」
「二個持ってるって、それって一人で何個でも作れるってことなのか?」
「そうそう、何個でも持てるはずだよ、確か。俺はこの猫写真のやつと、あとは好きなアニメとかそういう方のやつ。そうだ、弘樹が東京に行ってるならなんか限定グッズでも買ってきて貰えばよかったなぁ。そっちの方がラーメンより良かったわ。言ってくれれば良かったのに」
「まじで言わなくて良かったと思うわ」そう言いながら、田中のスマホでその猫写真専用のインマルを見ていると、田中が前から手を伸ばしてきて、スマホをまた自分の方に寄せた。
「可愛い猫いっぱい出てくるんだって。まじで癒される」と言いながらスマホを触り、またこちらに「ほれ」と向けてきた。正直猫には興味はないが、バイトの面接をドタキャンしてしまった俺としては、多少なりは会話に付き合うべきだ、と思った。
田中から渡されたスマホ画面には、猫好きとまではいえない俺でも可愛いと思えるような猫がずらりと並んでいた。子猫、野良猫、明らかに高そうな猫、伸びている猫に戯れあっている猫。猫、猫、猫ばかりの写真や動画が四角く並び続ける画面を指でスクロールしていく。
――どれくらい付き合えばいいだろうか、この猫ばっかの写真。って、あれ?
明らかにそれまでの猫ばかりの写真たちとは違うものを見つけた。四角い紙に何かが書いてある。
――なんでこんなものが? 猫なんだ? まぁ確かに猫ではあるけど。
と思い、タップすると、そのアカウントのページが開いた。その下には投稿者の書いた文字が下に続いてるようだった。〈続きを読む〉と書いてある小さな文字にそっと指を触れると、ずらっと全文が出てきた。
《 パートさんが飼っているキナコちゃんがまたもや伝書猫をしたようです。なんて賢い猫ちゃん。今度のお手紙は誰からかな? 毎回そのお話を聞くのが楽しみです。まるで伝書鳩のようにお手紙を運んでくれるなんて、素敵ですよね。 #猫 #猫好き #保護猫 #海鮮ゆきちゃん 》
――へぇ、そんなことあるんだ。
そう思い、その投稿の写真を横にスライドしてみると、その「キナコちゃん」らしきキナコ色の猫の写真があった。首輪をしているからその首輪にお手紙をつけて伝書猫をしているのだろうか。
「ね、田中これ見て。猫が鳩みたいに手紙運んでるらしいぞ?」
「え? 猫が?」
「ほら、これ」
「本当だ。ひでぇ飼い主。猫外に出すなんて、危ないじゃん」
「え? 危ない?」
「そうだよ。この子、保護猫っぽいから、保護団体が知ったら怒るんじゃね? 」
「でも猫って、外でよくみるじゃん」
「それはほとんど野良猫だって。うちのテベちゃんなんか絶対外出さないよ。危ないもん」
「そうなのか。危ないって、例えば?」
「交通事故とか、あと悪戯されてもやだし。病気もらってきたりもするだろうし? 自由に外に行くってことは危険がいっぱいあるんだって」
そう言いながら田中はいつの間にかスープばかりになったラーメン鉢に箸を突っ込んだ。それを見て多少の胸やけを感じ、俺は炒飯を食べていたレンゲを皿に置いた。
――でも、田中がいうような、ひどい飼い主に飼われてるって感じがしない猫だったけどな。
もう一度田中のスマホを引き寄せてその投稿者のページを見る。投稿されている写真は三枚。キナコ色の赤い首輪をつけた猫と、四角い紙に誰かが書いた手紙らしきもの、それと「海鮮ゆきちゃん」と書かれた看板の店先に並ぶガーデニングの写真だった。思わず「#海鮮ゆきちゃん」と書かれた小さな文字を触ると、ずらっと海鮮料理の写真が出てくる。どうやら同じ県内、しかもそう遠くない場所にある定食屋のようなお店だと思った。髪の毛をすっきり刈り上げたおばさんが大きな鯛を持っている写真もあるから、きっとその人が女将さんなのだろう。
――へぇ、今度行ってみようかな。五稀、お刺身好きだから喜ぶかも。
五稀が明日帰ってきたら、この話をして、冬休みに自宅からこの店までドライブして連れていってあげるのもいいなと思った。車だと二時間以上はかかるけど、それくらいの時間があれば色々な話ができるかもしれない。
――それに、この手紙に書いてある猫の絵って、あれだよな。五稀の好きなやつ。
猫が運んできたというその小さな手紙の差出人の名前があるだろう場所には、真っ赤なラインがゆらゆら引かれ消されていた。しかし、その手紙の中には五稀が好きなあの「猫伯爵は今日もご機嫌ななめ」の主人公がつけている猫マスクのイラストらしきものが描かれていた。細いペンで簡単に書かれているけれど、間違いなく、あの猫伯爵だと、俺は思った。
――そんなん聞いたら、きっと興味も湧いてくれる気がするし。兄妹で一緒にドライブしてランチって、なんかいいよな。
俺は呑気にそんなことを考えながら田中にラーメンを奢り、レンタルビデオ店のバイトへ向かった。明日の朝はゆっくり起きて、髪の毛を切りに行ってから実家に帰ろう。そう心に決めていた。
けれど日曜日の夜になっても、五稀は帰ってこなかった。俺に変な動画を一本RINKで送っただけで。
――いったいこの動画は何なんだ?
「真っ赤な部屋で、一体何してるんだよ五稀。それに、なんだよ帰ってこないって。帰ってくるって言ったじゃんか」
父さんも母さんも、もちろん俺も、また真っ暗な深い海の底へと放り込まれたような気持ちだった。寒く凍える家の中で、時計の音だけが気味悪く、時が過ぎていくのを告げていた。
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