第五十三話
「それで、土曜日の昼間に人が足りないから来れないかって言われたの?」
「そう。むちゃくちゃ困ってるらしくってね、ダメかなぁ?」
リビングでビールを飲みながらテレビを見ている貴志君に、私はおつまみのサキイカを出しながら、今週の土曜日に「海鮮ゆきちゃん」にパートに行っていいかどうかを尋ねている。
十二月に入り、「海鮮ゆきちゃん」では連日のように忘年会などの宴会が入りはじめた。平日の夜も満席が続く日が多いが、週末ともなるとさらにその忙しさは増し、店内飲食だけではなく、お持ち帰り用のオードブルなどの注文も入ってくるのだ。もちろん、いつもよりも働くスタッフの人数を増やして対応しているけれど、それでも日々ギリギリのところで綱渡りをしているような状態だった。
それでも私に声が掛かった事はなかったのだが、その日は元々予定していた大学生のバイト君が急に都合が悪くなったらしく、その穴埋めにと私に声がかかったのだった。今日の賄いのブリのあら炊きを食べている時のことである。
「さっちゃん、悪いんだけど、もしできるなら今週土曜日パートに入れないかなぁ? あ、そこ骨まで食べれるから」
「 あ、本当だ、骨まで箸で崩れますね。って、え? 土曜日、ですか?」
「そうでしょう? 三日かけて煮てるから味が骨まで染みてて美味しいのよ。あ、それでね、そうなのよ。今日面接に来る予定だった大学生がね、なんか用事ができちゃってこれなくなっちゃたんだって。もう、本当そういうところは大学生なんだからねぇ全く。今日面接して良い子だったら早速入ってもらって、お節の仕込みとか、いろいろやらせようと思ってたのに。あ、智美ちゃん目玉の真ん中の白い所は食べれないかも。美味しくないと思うわよ」
「えー、もう食べちゃいましたよ。目玉のとろっとろのところむちゃくちゃ美味しいですよね! 雪さん」
「でしょう? 目玉は最高にコラーゲンだわ。一匹に二個しかないから、智美ちゃん、よかったわね。あ、でねさっちゃん、その大学生の子、土曜日も大丈夫だって最初っから聞いてたからさ、倉庫の中を整理してお節の準備に備えようと思ってたんだよねぇ。なのに今日面接に来ないってことは、土曜日も来るかわかんないでしょ? そうすると、土曜日に倉庫の整理ができなくなっちゃうの! もう年末も近いから、土曜日に整理しとかないと、困るのよ。全く予定が狂っちゃったわ。本当、困ってるのよぉ。さっちゃん、お願い、ね。一日だけなら土曜日ダメかなぁ?」
「うんと、わかりました。じゃ……」
「ありがとう! 助かるわ! やっぱりさっちゃんは頼りになるわ。いつもくらいの時間から昼過ぎまでで良いからね、ありがとう! さっちゃん!」
という流れに巻き込まれ、じゃあ、夫に聞いてみてから、と私が言う前に、雪さんの中では土曜日に私が出勤することが決定してしまったのだ。雪さんは基本的に良い人だし悪気はないのはわかっているけれど、こういう時はやっぱり少し心がモヤッとしてしまう。平日の昼間であれば、子供たちが学校に行っていないから、ある程度の曜日の変更や、追加で入る事はできるけれど、土日ともなると、子供たちが家にいる。もしも私が土日の昼間にパートに行くことになれば、土曜日の光のそろばんの送り迎えや、夢輝の野球の付き添いなどを貴志君にお願いしなくてはいけない。主婦業がメインの私にとって、土日に動くという事は自分以外の家族との調整が必要になるのだけれど、雪さんにはそこまでの想像はないらしい。それどころではなく忙しいから、仕方ないと言えば仕方ないが、なんだか晴れない気持ちになってしまうのは事実だった。だから今貴志君に聞いているのは、ほぼ事後報告だ。「土曜日仕事に行きます」とは言えないので、「行っても良いかなぁ?」などと、伺いを立てているという体裁をとっている。
「うん、別に良いよ。何の送り迎えがあるんだったけ?」
「光のそろばんと、雨が降らなければ、午前中は夢輝の野球少かな。大丈夫?」
「大丈夫だよ、難しい事じゃないだろ? なぁ、夢輝も光もお父さんが送り迎えしても良いよなぁ?」
「えー! お父さんが来てくれるの?」
「私もお父さんの方がいい! 帰りにお菓子のヤスダ寄ってくれるよね」
貴志君は基本的に私よりも子供に甘い。子供たちもそれを知っているから、土曜日に私がいない事は喜ばしい出来事のようだった。きっと貴志君はそのついでにどこかへ行きたいと子供が言えば、連れて行くことだろう。貴志君が「土曜日に仕事に行くのはだめだ」と言わない事は、私もわかっているけれど、でも本人に聞くより前に、仕事に行くことを決めてきてしまった私は、どこかで後ろめたかった。別に束縛されたことがあるわけではない。ただ、なんとなく、家の外での自分の行動は、夫の了解を得ないといけないと思ってしまう自分がいる。父親が母親にも私にも厳しい人だったから、そのせいかもしれない。「母親はこうあるべきだ」とか、「妻としてこうするべきだ」みたいな、そんな何か変な「染み」みたいなものが私の中には染み込んでいる。自分の夫はそうじゃなくても。
「ねぇお母さん、帰りにお菓子のヤスダ行ってもいいよね?」
子供たち二人がソファに座っているお父さんに引っ付きながらこっちを見て、大きな声で言って来た。貴志君も一緒になってこっちを見ていると、三人が間違いなく親子だということが誰にでもわかるだろうと思った。そっくりの眉毛、そっくりの口元。それが可笑しくて、愛しく思えた。
「もちろん、いいよ。だってお母さんのせいだもん。ごめんね、貴志君。お小遣い使わせて」
「え?! それ俺のお小遣いなの?」
「なわけないよ、大丈夫大丈夫。しかもお礼にいつもよりも一本多めにビールをサービスしてあげましょう」
「やったー!」
リビングにテレビの音よりも大きな声で家族四人の笑い声が響いた。ソファの上で引っ付きもっつきしている三人がけらけら笑い合っているのを見ているのは、とても幸せなことだと思った。ここは安心できる私の一番の居場所、大事な家族の居場所だ。そう思って微笑ましくキッチンから見ていたら、光が何かを思い出したのか、ソファから飛び降り、二階の自分の部屋に行って、手に小さな紙を握って戻ってきた。
「お父さん、お父さん、ねぇねぇ、これ見てこれ、またキナコがお手紙運んできたんだよ」
「すごいなキナコ。で、今度は誰からだったんだ?」
「あのね、あのね今度はね、まみちゃん!」
「まみちゃん家にもキナコは遊びに行ってるのか、それは驚いた。だってまみちゃん家は線路の向こう側じゃなかったけ?」
まみちゃんというのは、光より一つ年下の近所の女の子で、最近引っ越してきたばかりのお友達だ。我が家からはそんなに遠くはないけれど、まみちゃんの家に行くには、線路を渡り、ゴミ置き場の角を曲がって少し行かなくてはいけない。新築の建売が二軒並んでいる一件がまみちゃんの家だけれど、その辺りは昔の街道があった場所で、少し奥まった道がいくつか交差するような町内だった。私たちの青柳町内ではなく、お隣の柳田町内に建っている。そんなところまで線路を渡ってキナコが行くのかと、私も少し驚いた。
今年の秋ごろにキナコが変な手紙を首輪に着けて帰ってきたことがあった。その小さな紙は、おみくじのように折り畳まれた煤ぼけた紙で、中には「たすけて」と四文字だけが書かれていた。その時は気持ち悪くなって、「海鮮ゆきちゃん」の賄いの時に雪さんに相談したりもしたし、いまだ犯人が捕まっていない猟奇殺人事件の週刊誌記事を読んで「もしかして?」と、気が滅入ったりしたこともあった。家からそんなに離れていない場所の防犯カメラに、第一被害者の少女が写っていたと聞いた時はもっと恐ろしくなったし、指紋鑑定をしに、その小さな紙を警察に届けると雪さんが言った時も、結果が出るまで気が気じゃなかった。もしかして自分の飼っている猫の行動範囲の中に、そんな恐ろしい殺人犯がいるかもしれないと思うだけで、私の日常生活が乱れて、家の中が少し散らかる時もあったくらいだ。
――あの頃は本当毎日神経すり減らしてたけど、今となってみれば、なんてことない、ただの悪戯だったんだよね。
雪さんが警察に持っていった小さな紙は、指紋鑑定の結果、防犯カメラに写っていた少女のものとは一致しなかった。それを聞いた時、それまで緊張していた糸が切れて、私は安堵のため息をこれでもかというくらい吐いた。もうこれで、週刊誌の記事を読んで脳裏に焼き付いた、恐ろしい少女の遺体を思い出す事はないと思った。でも今でもたまに思い出してしまう。まだ、その犯人は捕まっておらず、その後も被害者が一人増えたのだから。
そんな私の心模様を知らない子供たちは、キナコの首輪についてきたお手紙はただの悪戯と私が伝えてから面白がり、今では自分たちでお手紙を書いて、キナコの首に結びつけて遊んでいる。
「お母さん、今日はゆいと君のおばあちゃんからだったよ」
「お母さん、今日はね、名前が書いてないけど、キナコちゃんかわいいねって書いてあったよ」
などと、お返事がついて帰ってくると喜んでいるのだ。でもその殆どは同じ子供会の子だったり、いつもキナコを可愛がってくれる御近所さんだったりする。それもそのはず、猫の行動範囲はせいぜい半径数百メートルなんだから。それでも、伝書鳩のように猫がお手紙を運ぶのは、どこかファンタジックで私も貴志君も子供たちからの報告をいつも楽しみにしている。
しかし、線路の向こうのさらに奥まで行っているとは。「海鮮ゆきちゃん」と自宅、子供の習い事と自宅、いつも行く近所のスーパーと自宅の範囲だけをグルグル回っている私よりも、キナコの方が行動範囲が広そうだ。キナコがどんなところに行っているのか、実は私も少しだけ興味を持っている。私よりもきっといろいろな人に会い、私には想像もできない経験をキナコはしているに違いないのだから。
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