第四十五話
すぐにバスはやってきた。もし少しでも迷いがあれば、このバスに乗り遅れ、実家のある駅に到着するのがだいぶ遅れただろうと思うと、すぐに行動できた自分を少しは許せた気がした。今から向かって到着予定時刻が午後七時近くになるということは、そこからなんとかその友達の家に向かったとしても、八時近くにはなってしまう気がしたからだ。それより遅い時間に中学生の女の子と話をするのは、さすがにまずい気がした。理由を知っているだろうから断られることはないだろうが、きっとその子の親にもいい顔はされないだろうと思った。
「良かった」
そう言ってすぐさまスマホを取り出した。駅までは三十分はかかる。その時間に、まずは田中にバイトの面接にはいけないと連絡をして、母さんにも、やっぱり向かってると伝えなきゃいけない。もしできるなら、駅に車で迎えにきてもらって、その子の家まで乗せていってもらいたい。
「いや、それはダメだ」
親が一緒に行ってその子に警戒されたら、本当のことを話してくれない気がした。俺が思うに、思春期の中学生の立場でものを考えて、そういうことに気をつけていかないと、真実にはたどり着けないはずだ。五稀が家出をなぜしたのかさえもわからないのだから。
「真実……、か」
真実をもし五稀が知ってしまって、それが原因の家出だとしたら。もしそうならば、自分と五稀の距離は埋めることができないかもしれない。そう思ったら絶望にも似た気持ちがむくむくと湧いてくるのがわかった。もしそのことが原因の家出なら、その原因を作ったのは誰でもない自分なのだ。
そんな風には思いたくないと、外を見た。窓の外は雨が激しく降っていた。今の時期にこんなに激しい雨が降るなんて、珍しいことだと思いながら、流れてゆく街路樹たちを眺める。頭の中を少し楽にしたかった。もし自分が原因で、五稀が犯罪に巻き込まれるようなことがあったとしたら、俺は一体どうすればいいのだろうか。それこそ、自分の幸せのために五稀を犠牲にしたようなものだ。その可能性を払拭したかった。街路樹の木々の葉はもうすでに落ちていて、寒々とした亡霊のような影を映し出している。
「そのせいじゃないよな?」
窓ガラスの枠に肘をかけ、手で口を覆いながら呟いた。バスの中は授業が終わっただろう学生たちが半分程度乗っている。みんなこれから家に帰るか、バイトに行くか、それとも遊びにいくのだろう。それぞれの普通の日常がこのバスに乗っている俺以外の全ての人にあると思うと、息が詰まった。
――田中にRINKしないとな……
スマホの画面からRINKのアプリを立ち上げて、田中にバイトの面接に行けなくなった事を連絡する。最後に白いウサギが「ごめん」の文字を持っている動くスタンプを押して、そのまま、五稀のページを開いた。俺が送ったそのままの状態、既読にもなっていなかった。その代わり、母さんからRINKが来ていて、「無理してこっちに帰ってこなくても大丈夫だけど、何かあったらすぐに連絡してね」と書いてあった。俺はそこにも「オッケー」のスタンプを押して、目を瞑った。
――まだ既読になってなかった。でももしも五稀の家出が俺たち家族のことなら、俺のRINKに返信をするはずはないよな……。
俺たち家族、と脳内で呟いて、何が俺たち家族だと自分を罵った。
――俺たちは四人で俺たち家族だろ。どういう頭してんだよ!
自分に怒りが満ちてきて、瞑っていた目を見開いた。外はまだ同じような街路樹が気味悪くクネクネとした枝を伸ばしている。その枝が今にも暴れ出し、俺を捕まえてどこかに放り投げてしまえばいいと思った。なぜ、括るのだろう。家族の単位を。そんなことは思ってもいないはずなのに、さっき脳内で聞こえてきた「俺たち家族」の中に、五稀が含まれていない事を誰よりも自分が知っていた。
――俺たちは、四人で家族なんだ。血が繋がっていても、いなくても、四人で家族なんだ。
あの日、初めて父さんにあった、中学三年の秋の日。あの日の父さんの驚いた顔が忘れられない。最初はまさか、自分に子供がもう一人いただなんて、にわかには信じられないという顔だった。でも、俺のことを拒否しようとはしなかった。まずは話を聞こうかと、近くにある、ファミレスの奥まったシート席で、俺の話を聞いてくれた。
「あの、俺、綾野と言います。綾野弘樹、綾野祐美の息子です」
「そうか、そういうことか」
「知ってたんですか?!」
「いや、知らなかった。祐美、君のお母さんとは大学時代交際していてね、それがある日、急にいなくなってしまって、僕はフラれたんだと思っていたんだ」
「急にいなくなって、探さなかったんですか?」
「探したけれど、探しようがなかったんだ。今みたいにスマホがある時代じゃないし、実家のこととか、詳しい話まで聞いていなかったんだよ。だから知り合いに聞いて回ってみるくらいしか、できなかったんだ。……そうか、君が」
「お母さんには内緒でやってきました」
「そうか」
そう言って父さんは、ただ俺の話を聞いて、その度に、「そうか、そうか」とうなずいてくれた。そして、最後に、「今まで知らなくて、申し訳なかった」と言って頭を下げた。
俺は最初、父さんがいない人生だと思って生きてきた。母さんと二人、それが普通だった。でも、ふとしたきっかけで父さんの存在を知って、それであの日、母さんには内緒で、父さんに会いにいった。会ったらなんてひどい父親だと罵声を浴びせる練習までしていたのに、優しい顔をした普通の白髪まじりのおじさんで、突然あなたの息子ですとやってきた俺に、誠実に対応してくれた。だから、父親が生きていると知ったその日からため込んできた酷い言葉の数々は、口から溢れ出ることなく、心の中からさらさらと浄化して消えていった。
その時から、今まで一緒にいれなかった父さんとの時間をどこかで求めてしまったんだ。
――だから俺は、母さんに内緒で、母さんともう一度やり直してくれないかと、父さんに頼んで、そして二人を再会させた。
それから時々三人で会うようになって、心の蟠りも少しずつ消えていった。何より、最初はびっくりしていた母さんも、父さんと三人で過ごす時間が嬉しそうだった。父さんは父子家庭で、なかなか会える日はなかったけれど、それでも、俺は嬉しかった。ずっと憧れていた父親をやっと手に入れることができたと思った。しかも、父さんは俺が学びたいロボット工学の先にあるような機械メーカーの開発部門で働いていた。
だから、父さんが離婚したという前の奥さんが新しい家庭を持つタイミングを待って、父さんと母さんも再婚することに決めたのだ。
――俺と父さんが血が繋がってるって、五稀がもし知ったら、自分だけ家族じゃないような、そんな気持ちになったりしないか? そしたら、自分は邪魔者で、居場所がないと思ったりしないか?
「居場所」と浮かんで、急に喉が締め付けられた。居場所がないから家出をしたというネットの記事を思い出したからだ。
「俺だ……」
得体のしれない何かが地の底から俺の身体を引き摺り込むように手を伸ばしている。俺の意識はずぶずぶと足元から沼地に沈んでいくような気分だった。
――五稀の家出は、俺のせいだ。
俺さえ父さんに会いにいかなければ、五稀は家出をすることはなかったかもしれない。離婚した父親との生活が続いていただけなのだから。耐えきれず、目を瞑ると、あのネットで調べた週刊誌の記事に書かれていた少女の遺体がまぶたの中に色鮮やかに映し出されてきた。
普通の家庭の、普通の少女。
居場所を求める普通の少女。
頭を切り取られ、血抜きされて内臓を綺麗に掃除された、足にタグがついた死体の少女。
血生臭く、生ぬるい赤い液体に塗れながら、五稀が俺を睨み、「これは全部、全てお前のせいだ」と言っているのが見えた気がした。俺はバスに乗っている誰にも気づかれないように、右手でまぶたを抑え、滲み出てくる熱い液体をその掌の中に押さえ込んだのだった。
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