俺の妹がこんなにも可愛い④
永美と決着をつけて戻った放課後の教室は、地獄絵図だった。
一体何がどうして、こうなった?
廊下にまでも轟いていたのは、茜音の大きな声だけ。たったそれだけのヒントでは、何が行われていたのかは推察できない。ただ相違ないのは、修羅場であること。まぁ、それだけ分かれば十分だとも言えるが。
「何やってんの?」
「お、おに……」
振り返った茜音が、中途半端に俺を呼んで涙を落とす。そこで区切ると鬼が顕れて泣いてるみたいだから、やめろ。
「茅ヶ崎」
「ち、違うの! これは、その、私が勝手に……」
そりゃ、茜音は泣き虫だ。ちょっとしたことで、涙腺が決壊してしまう。けれど。けれども、だ。
「茜音は何もなきゃ泣かないし、こんなに耐えきれないような泣き方を人前でしない」
茜音は、どうあっても泣いてしまう性質をよく思っていない。確かに何でもかんでも泣いてしまうのは、世間的にも歓迎はされない。
そして、茜音はそういった趣に敏感だ。だから、ギリギリまで涙を堪えて、雫が零れたってなお、少しでも早く乾いてくれるように瞬きを繰り返す。茜音はそういう子だ。
その制御を超過する何かがあったのなんて、お見通しだった。
「茅ヶ崎?」
「……瑞樹君が目的だったって話しただけ」
バツが悪そうな茅ヶ崎は、少しは思うところがあるのだろうか。それとも、これさえも計略のうちであるのだろうか。推し量るには事を欠く。
「言うなって言わなかったか?」
「口止めはそこじゃなかったと思うけど?」
「……俺は全部にかけたつもりだ」
「でも先に言ったのは瑞樹君」
真理だ。茜音本人に仄めかしたのは、俺。多分、こうして号泣するまでに追いつめたのも俺。
結局、何もできないのは昔から据え置きである。気概だけは一人前で空回りばかりしている俺は、半永久的にそのままだ。
ガキのころ、茜音に一目惚れをした。あのときのままだ。
「それで、どうするの? お兄ちゃん」
揃いも揃って嫌味ったらしい連中だ。スズにしても、茅ヶ崎にしても。引用の感情は違うだろうに、引用の方針は虫唾が走るほどに生き写しだった。
俺はお前らのお兄ちゃんじゃねぇんだよ。
「俺は茜音と何があったって聞いてんだよ、茅ヶ崎さん」
「そんなに他人行儀に怒らないでよ。キスした仲でしょ?」
ばっとしゃにむに見上げてきた茜音の衣擦れと、俺の舌打ちはズレなく重なった。
「そういうことになったの?」
「違う。俺はちゃんと断った」
「考え中でしょ?」
「ややこしくすんなよ」
「嘘は言ってないもの」
性質が悪いのを敵にしたものだ。こういったものに敵も味方もないのかもしれないが、俺にとっては強敵だった。
「脅迫めいたことをしたのはそっちだろ」
「涼ちゃん……」
「交渉って言ってほしいなぁ」
こともなげに恍ける茅ヶ崎に、茜音は呆然としている。
可哀想なことをしてしまった。いつまでも詐取されているのが正しかったとは言えない。けれども少なくとも表面上、二人は友として順調であっただろうに。
友人は必ずしも、密接に分かり合わねばならぬものではない。学校にいる以上、馴れ合いなんてごまんとあるはずだ。そんなものだと割り切って、横槍を入れるべきでなかったのかもしれない。それも、あんな言い争いの最中に乱雑に放るものではなかった。
「……なんて、言ったの?」
茜音は、じっと茅ヶ崎を見つめる。
「お兄ちゃんに何を言ったの!」
指弾する茜音の姿は、苛烈だった。
俺以外に、後先考えず声を荒げる茜音はレアだ。そして、荒々しく茅ヶ崎を見据えて視線を外さない。頼もしくなったものだ。
「まだお兄さんのことばっかり気にするんだ?」
「……涼ちゃんが教えてくれないなら、答えて。お兄ちゃん」
突然、水を向けられてまごついた。自分の弱みをその存在に語るのは、感情的に難度が高い。気恥ずかしいというよりは、忸怩たる思いがあった。
茜音のせいには、したくはないのだ。
茜音のせいで、脅迫を受けている。そんな風に解釈されてしまっては、困るのだ。あれが恐喝になるのは、他でもない俺の案件であるのだから。
まったくもって、拗らせている。
「……答えられないようなこと? 女性関係のこと? 私には言えないようなこと?」
ぎゅっと引き結ばれた口が、もぞもぞと最低限の動きで投じてくる。悲痛な呻きのように聞こえて、苦境に立たされた。がしがしと髪の毛を掻きむしって、頭を抱える。
「茜音の噂を流すって、そう言っただけよ」
「……え?」
張り詰めていた緊密度の高い糸が切れてしまったような、間の抜けた顔だった。その視線に正視されているのが分かる。
口に出されるとなんともアホらしくなるものだ。
茜音の噂を流されるから。
動機にしては軽易で、陳腐にもほどある。俺の中では、それより重要な項目なんてありはしないというのに。俺はどれだけ軽い存在なのだ。ほこりか、塵芥か。
「どんな?」
「茜音がお兄ちゃんに女装させて楽しんでるって。なんだったら、近親」
「黙れ」
それは、禁句だ。
どくどくと嫌な動悸がしている。
茅ヶ崎は、すっかり開き直ったように、あの日と同じ顔をしていた。悪趣味なほどに落ち着いていて、勝ち目がないのではないかと薄氷を踏む思いがする。勝負事なんかではないはずなのだけれど。
「……それだけ?」
茜音の声はどこまでも低く、整然としていた。俺でさえも血が凍るそれに、茅ヶ崎が能面のようになる。こいつがこんなにも青白い炎のような怒りを携えているのは、一体何が引き金だったのか。
「言えば、いいじゃない。それが、一体何の脅しになるの?」
「茜音……、お前」
「いいもん、そんなの! 私は気にしない」
ぎゃんと騒ぐのは別条ないが、瞳がギラギラと熱を灯していた。殺人的に眩しい。
気にしないは、どこまで含んでいる?
俺が堰き止めた言葉の先は、内包されているのだろうか?
「別に私がお兄ちゃんを女装させてようと、お兄ちゃんを好きだって噂を流されようと、そんなのどうだっていい。平気。お兄ちゃんが、困ってるほうが嫌」
目の周りは赤くなっていて、泣き上戸な茜音はまだ健在だ。けれど、ピンと伸びた背筋が一本気を強調して、茜音は茜音らしく輝いているようだった。
「お前が噂になると、俺が困るんだけど」
「どうして?」
「……泣くだろ、お前」
茜音は喉を詰める。
答えは明々白々としていた。へっちゃらだなんて嘯いていたって、こいつは傷心するのだ。繊細なのだから。
「泣く、かもしれない、けど! でも、私だっていつまでも子どもじゃないもん」
「あのな」
泣くことをイコール子どもだと認定したりはしない。ましてや、子どもであるから庇いたいわけでもないのだ。庇うなんて、傲慢かもしれないことも心得ている。
けれどもこれは、出だしから横柄な業なのだ。俺が長閑でいられるための処方なのだ。他に理由なんていない。
女だから――茜音だから、守りたいんじゃない。
不安定な場所にいる茜音を見て、感情を揉まれて自分がちぐはぐになってしまう。それへの処置であるのだ。
茜音のせいだなんて。茜音のためだなんて、詭弁など弄してやりはしない。俺は、これを自分の中に背負い込んで生きていく。
「私だって、お兄ちゃんの支えになれるもん」
がつんと頭を殴られたような衝撃に、地面が揺れる。俺はぽかーんと大口を開けて、茜音を見据えた。
「アホ面」
誤魔化すようにへにゃりと笑って毒を吐く姿にも、俺は直ちに反応ができなかった。それほどまでに、パンチが効いていたのだ。
「一人で抱え込まないでよ、馬鹿」
「……ごめん」
強情になっていたのは、分かっている。
「お兄ちゃんが、いいようにしていいから」
「いいのかよ」
「だって、信じていいんでしょ?」
ことんと首を傾げてくる茜音に、鼻の奥がツンとした。泣き虫が移ったかもしれない。
「お前、卑怯」
「知らなかった?」
「知らなかった」
こんなときにおどけられて、微笑みを浮かべる。こんなに逞しくなっていたのも、知らなかった。
「私なら平気だから、お兄ちゃんはもう後悔しないほうを選んでよ」
「……分かってる」
口角を上げる茜音の髪を撫でる。金髪はさらさらと指を通り抜けて、引っかからない。流れに身を任せる茜音の性格を表しているようで、そのくせしっかりとした芯が指に残った。
茜音の一切合切が愛おしい。
「茅ヶ崎」
息を吐き出して振り返れば、茅ヶ崎は腕を組んで立っていた。威圧的な態度のしどころが分かっている。
意図してやっているのか。本能なのか。どちらにしても、俺とは劣悪に相性が悪いといえよう。
「断るよ、何もかも」
「切り札があるのは分かってる?」
「……分かってる。それでも、だ。それにな、もう茅ヶ崎に手伝ってもらう理由もなくなった」
「どういうこと?」
「永美ならもう振ってきたよ」
顕著な反応をしたのは、茅ヶ崎よりも茜音だった。面食らって、俺を見る。そんなに青天の霹靂かよ。
……まぁ、俺だって、こんなに穏やかに切り出せるのは意外性を覚えているけれど。だからって、身内にここまで露骨にされるとへこむものだ。茜音は俺の指標であるのだから、尚の事である。
「だから、端から理由はない」
「……そうね」
ふっと瞳を伏せた茅ヶ崎に、寂しさを覚えるのは筋違いだろうか。
「ごめん、茅ヶ崎。俺はもうさ、失敗してる場合じゃないんだよ」
「……最後のカードを切るかも、とは思わないの?」
「茅ヶ崎はさ、なんだかんだ言って茜音の友達なんだよな」
「は?」
「言わないと思ってるってことだよ」
茅ヶ崎はぎゅっと、きつく眉根を引き寄せた。忌々しさがあけすけに過ぎて、苦笑いするしかない。
「甘いんじゃないの?」
「……いいよ。そうなったら、そうなったで」
腹は括った。
気持ちのいい話じゃないのは、明白だ。けれど、凛とした茜音はきっともう、俺が頑なになっていなくてもいい。
受けるべき罰があると言うのなら、それはやむを得ないだろう。
「……分かったわよ。あたしが悪かったです」
涼が深い溜息をついて、両手を引き上げる。分かりやすいアクションに、脱力した。
「けど」
続いた逆説に、再び身体が固まる。どこまでいっても翻弄するのが、上手い女だ。
「落とそうとするのは自由でしょ?」
「不可侵主義が強すぎだろ……」
「悪い?」
「……嫌いじゃねぇよ」
そこまで振り切っているのなら、それは一興だ。
「じゃあ」
「それとこれとは別。俺には大事なやつがいるから」
「うわー……」
茅ヶ崎は、あからさまにドン引きした。
人を振り回してばかりだし、飄然としている部分も多い。けれど、感情を見る目が曇っているわけではないのだなと今更になって気が付いた。
「そのまま身も引いてくれればいいんだけどな」
「それとこれとは別、でしょ?」
立て直すのが早いものだ。茅ヶ崎はにこりと笑って、それから真顔で茜音に向き直った。
「ごめんね、茜音」
「……いいよ、別に」
泰然としている。牙をむき出していた茜音は、蒸散していた。相変わらず、感情はジェットコースターだ。
今は素晴らしい長所として褒められる素養であるのだけれど。
「私は何も損してないもん。涼ちゃんは、仲良くしてくれたし、優しいし、心配してくれたし。何も損はないよ」
人が良すぎる。聖人かよ。
でも、この場ではこれが正解だ。茜音の清潔さに、俺たちは救われる。同時に杞憂にもなるので、少しは改めて欲しいのだけれど。
「バカだね」
「でしょ? 治らないんだよね」
「ありがと」
照れくさそうに茜音が笑う。それも、隠そうとしない純朴さでそうする。
茅ヶ崎の感情は手に取るように分かった。その顔を見たら、しょうがねぇな。と思うのだ。人間味がある限り。そして茅ヶ崎は、それほど薄情なやつではない。
利用したと嘲弄したけれど、本気でそのつもりならば、今なお友達でいる必要はないのである。俺とパイプが繋がった時点で、いつまでも「仲良く」しておく必要はない。ある程度の距離を保っていれば、それで為せば成るのだから。
馬鹿なのは、誰も彼も同じだ。
「じゃあ、もう行くわ。仲良し兄妹に付き合ってらんないし」
「一言余計」
「また月曜日ね」
茜音は仲良し発言に、口答えしなかった。代わりに、茅ヶ崎を繋ぎ止めようとしている。まだ友人関係を続けようとする心根は、やっぱり人が好い。
「うん。分かった。月曜ね」
やっぱり、友達だったんじゃないか。
最初は俺ありきのものだったかもしれないが、今では別の感情が生まれているのであろう。人でなしではない限り、情は湧くものだ。
ひらりと手を振って去っていく茅ヶ崎の後姿は、なんだか肩の荷が下りたようだった。
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