俺の妹がこんなにも可愛い③


     *************


 意地になっていることは確実だ。それは兄か。私か。きっとどちらも同じで、きっとお互いにきっかけを掴めないままでいる。

 私たちは、まともな喧嘩なんてしたことのない兄妹だった。いつだって兄が譲歩してくれていたように思うし、私だって取り返しがつかないほど悪意的に侮辱したことなどない。

 口喧嘩のようなものは、所詮戯れでしかなかった。間合いが分かっているからできる芸当で、心からぶつかることは敬遠していたのだ。

 そんな風に避けてきたから、稚拙で決定的な語を食らわしてしまう。

 大嫌いだ、と口の中で転がすたびに、胸の奥がひりついた。そんなことを言いたかったわけじゃないのに。

 堪りかねたのは事実だ。具体例もなく涼ちゃんを非難したことは今なお、許せずにいる。

 けれど、兄は私に嘘をつかない。どんなに粗雑でも、女癖が悪くても、それでも兄は私の最大の味方であり続けてくれた人だ。嘘をついたり、私のためにならないことをぶつけたりするほど非道なことはしない。

 だからこそ、腹が立ったとも言えるけれど。

 マイナスなことは言わないと信じているけれど、だからといって楽々と感情を律せられるわけじゃない。友達を馬鹿にする兄を許せなくて、訳すら教えてくれない兄の身勝手さも許せなかった。

 だからって、大嫌いを言っていいことにはならないけれど。

 多分、初めて口にした。罵倒なら、過去何度も口外してきただろう。好きだと言われるたびに、ブラコンだと言われるたびに、口汚く押し退けてきた。

 けれど、そんな大嫌いなんて――心にもないことを言ったことは誓ってない。

小さなころは……まだ、私が兄のことを瑞樹と呼んでいたころは、大好きだと言うこともできていたというのに。

 いつからこんなにも天邪鬼になってしまったのだろう。こんなにも、頑固になってしまったのだろう。考えるだけで、涙腺が緩む。昔から泣き虫だと笑って慰めてくれたのは、誰でもない瑞樹だった。

 私が泣いた回数は、あんたを想ってのことが一番多いんだと言ったら、少しは驚いてくれるのだろうか。

 馬鹿みたいだ。


「茜音ってば」


 痺れを切らしたような呼び声に、はっとして姿勢を正した。そばに迫っていたのは、丸くぱっちりとした瞳でぎょっとする。


「な、なに?」

「どうしたの? って言ってんじゃん。また?」


 そういえば、少し前にも同じようなことがあった。

 涼ちゃんの顔が、呆れたように歪む。そのまま前の席へと腰を下ろす涼ちゃんの背景に、クラスメイトの姿はなかった。既に下校してしまった後らしい。

 私はどれくらいぼーっとしていただろうか。この一週間、腑抜けてばかりいた。


「なんかあった?」


 肘をついて小首を傾げる涼ちゃんが、目を細めてくる。なんだろう、その顔つきは。


「なんでも……」

「やっぱり、お兄さん?」


 何の気負いもなく名が挙がることに、喉が絞まる。

 それほど簡明な自分たちが嫌になるのと同時に、涼ちゃんと兄との間に何かがあったのではないかと勘繰ってしまうのだ。

 なんて無様だろう。

 仮に二人に何かがあったとして、私が小言を言えたもんじゃない。和方さんのこともそうだ。余計なお節介ばかり焼いている。

 やっぱり、怒ったよね。さすがに。


「こーら。すぐ黙らないでよ」

「いらいよ、りょーひゃん」


 びよんと頬を摘ままれた抗議は、舌足らずになった。涼ちゃんは朗らかに笑って、ぱっと手を離す。


「それで?」


 こんなに気配りができる子が悪い子だなんて、信じられない。けれど、兄を心底疑うこともできなくて、そうなると二人の仲を訝しんでしまうばかりで気が重かった。


「……ちょっと、喧嘩した、みたいな?」

「茜音が?」

「うん」


 いじけてしまうのを止められなかった。子どもじみていると分かっていても、唇を尖らせてしまう。


「何があったわけ? 仲良し兄妹が喧嘩とかさ」

「……仲良しじゃないもん」

「分かったから」

 

 賛同しているわけじゃない。口先だけのとりなしなのは、瞭然だった。

 どうしてこんなにも、口を揃えて仲良しと言われるのか分からない。実際、私たちは仲良しアピールをしてるつもりはないのだ。アピールは語弊があり過ぎるけれど、誰彼構わず指摘されるほどだとは思えなかった。

 ……どうして、兄妹じゃなきゃ駄目なのだろうか。


「何でも聞くけど?」


 うじうじしているのは、筒抜けのようだった。そりゃ、こんなにも逐一会話を滞らせていれば、悟られて然るべきである。

 常から分かりやすい、とは兄の談。お兄ちゃんだから分かるのだと思っていたが、どうやら私の問題であるらしい。


「……お兄ちゃんがね、言うの」

 

 涼ちゃんは言葉なく、首を傾げて相槌とした。

 私は深呼吸をして、決断をする。本人に言うのは、怖じ気づいて仕方がなかった。けれど、もう私には頼れる人はいない。

 スズさんは、頑張れ。と背を押してくれた。それ以上頼るのは、依存的だ。そして、私にはもう依存している相手がいる。それをスズさんに移動させることは、叶わぬ夢だった。


「……、茅ヶ崎との付き合い方を考えろって」

 

 一息で言い切って、机の角に瞳を伏せた。情けなかったけれど、涼ちゃんを見定めている勇気はなかったのだ。

 涼ちゃんの陰口を叩いていたようで。

 兄の告げ口をしているようで。


「ふーん。瑞樹君、言っちゃったんだ?」

「……え?」

 

 けろりと応じた涼ちゃんに、私は二の句が継げなかった。恐る恐る顔を上げれば、いつも通りの涼ちゃんがいる。

 ううん。違う。

 いつもの涼ちゃんなら、「何それ酷くない? あたし茜音に悪いことした?」なんて、訴えるはずだ。それを何の引っかかりもなく、応諾した。挙句、兄の私への忠告に意外性すらも感じていない。

 なにそれ……。


「瑞樹君から、聞いたんでしょ?」


 私はぶんぶんと、首を左右に振った。

 知らない。聞いてない。お兄ちゃんは何も言わなかった。だから、苛ついていたのに。今になって、はっきりと分かる。私のことを留意してくれているが故の、無言だったのだと。


「あたしね、瑞樹君を落としたくて茜音に近付いたの」


 どくりと心臓が跳ねる。

 嫌なのは、どっち? 涼ちゃんに利用されていたこと? 兄を奪われるかもしれなかったということ? こんなときでも、私は一般的に傷つけない。


「どうして?」

「だって、噂になってたから。谷山瑞樹。イケメンで腰が軽い……誰とでも付き合うって人がそれをやめた。愛する人ができたんじゃないかー、とか。本当は同性愛者でカモフラだったんじゃないかー、とか? だから、気になったの。でも、全然そんな気配ないじゃん? すごいフツーだし、きっかけなんてまったく検討つかなかったから、ちょっと面白くなっちゃったんだよね。だから、落としてみようかなってやめた事情ももしかしたら聞けるかも、と思って茜音に声かけたの」

 

 お兄ちゃんは、モテる。

 本人がフラフラしなくたって、相手から寄ってくるようなかっこいい兄だ。昔からそうだった。

 ピンチになると駆けつけてくれる私のヒーローは、私だけのヒーローじゃなかった。男女ともに好かれるみんなのヒーローだったはずだ。それはもう、遠い昔の面影だけれど。それでも兄は文句なしにかっこいい。

 高い背に、筋肉のついた身体。細マッチョなので、外側からはすらっとして見えるのがまた高ポイントだ。顔だって、中性的と呼ぶには少し男らしさが勝つけれど、端整であった。明るい赤茶色なんて下手したら大惨事になりそうな髪色にも、決して見劣りしないルックス。

 慰めてくれる大きくて温かい手のひら。抱き寄せてくれる優しさは、他の誰かに与えていなければいいのに。


「でも茜音は案外、お兄さんのこと話してくれないし。兄妹の仲だけは分かったけど、他の情報は手に入れられなかったから、無駄かなぁと思ってたんだよね。でも、瑞樹君は茜音がいないと女の子の相手しないし? 警戒心を解くためにはちょうど良かったんだよね。茜音の警戒心解くほうが早かったけどさ」

「……お兄ちゃんに近付ければ、誰でも良かったってこと?」

 

 なんだか視界が暗くなっていく。口の中がカラカラに乾いていた。


「言っちゃえばそうだけど、茜音以上の子なんていないわけだから、結果として茜音じゃなきゃ駄目だったよ?」

「それは私が妹だから、仲良くしてくれたってこと?」

「……まぁ、そうなるわね」


 涼ちゃんは、薄く笑う。こんな顔は知らない。初見だ。何で、そんなことを。


「お兄ちゃんを騙したの……?」


 涼ちゃんは、そこで初めて感情をぐらつかせたようだ。大きな瞳を落っことしそうなほどに丸くしている。


「バカなの?」

「何が?」

 

 首を傾げれば、涼ちゃんはますます表情を曇らせた。罵倒される意味も分からなければ、不審げにされる見当もつかない。


「普通、自分が騙されたことを怒るものでしょ? 瑞樹君が第一なんて、どういう感情なの? ブラコンにも限度があるってもんでしょ」


 矢継ぎ早に繰り出される疑問に、私は口を噤む。


「ブラコンじゃないもの」


 押し返せたのは、それだけだった。

 用心していたのに。私は、何においても兄を優先しがちなところがある。それが特殊であることは、弁えてきた。だからこそ、そんなことは腹に収めて生きてきたのだ。

 兄を好きでいるなんて、そんな禁忌を口になどするわけにはいかない。

 辛うじて一蹴できるのは、ブラコンということだけだ。だって、違うもの。妹だから、何度だって、いつだって、私は否定する。ただのブラコンでいられたならば、どんなに良かっただろうか。


「茜音、あんた」

「違う!」


 血相を変えた涼ちゃんに、私は瞬間的に反駁した。

 不吉な直感だけが身体中を這い回って、蝕んでくる。けれど、こんな真似をすれば核心を手渡すようなものだった。臍と言わず、唇を噛みしめる。

 早計。馬鹿なことをした。

 つんと鼻の奥が痛くなってくる。泣きそう。抗いたいのに、すぐに泣いてしまうのだ。涙腺がかばがばで、兄にも沢山苦労をかけた。


「俺の可愛い妹に何してくれてんの? 茅ヶ崎」

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