第五章
俺の妹がこんなにも可愛い①
「すごいね、瑞樹君」
翌日、対面したスズの開口一番は感心だった。何のこっちゃ分からない。
「なに」
「徹夜? 気分悪い? 機嫌悪い?」
馬鹿丸出しだということか。
実質、寝付けたのは六時頃のはずだ。ほぼ完徹にも近い。今朝の顔色の悪さは壮絶であった。
「ちょっとな」
「ほどほどにしなきゃダメだよ」
スズは、不用意に詮索しようとしない。この心理的距離間が心地良くて、俺はスズとのコスプレの道に邁進したと言ってもいいだろう。
このスズの強みは、今日も今日とて活かされていた。他の候補を消去してか、それとも他の可能性は一寸も吟味していないのか。スズは徹夜であると完結して、原因を深く掘り下げなかった。
そして、くまを作った俺は近付きがたかったらしい。永美さえもやってこない一日は、侘しいほどに静かだった。
茜音とは、あれ以来口をきいていないどころか、顔を合わせてもいない。巧妙に避けられている。それが分かると、こちらも物音に耳を澄ませて逃亡してしまうものだ。母はラブラブな父の元へ行っていて、今は茜音と二人の期間である。自分以外のすべてが相手の音だと分かれば、距離を測るのはスムーズだった。
週の始まりに仲違いをした陰鬱さは、よっぽどである。週末になれば何かがリセットされるわけではないが、それでも週区切りにしてしまいたくなるものだ。残りが四日もあると思うと、気疲れが背中に重くのしかかる。
スズの言う通り、ほどほどにしてほしかった。
「大丈夫?」
まずまずで、自然解決するはずもない。何の進展もないまま、スズでさえも看過できなくなったのは、その週の終わり。金曜日のことだ。
朝一で下駄箱からチョコが出てきたところで、俺はもう崩れ落ちたかった。純真な好意と対峙するのが、これほどまでに心を滅多切りにするとは思わない。朝っぱらから体力は底をつきそうだ。
そこからありとあらゆるタイミングで、チョコが出てきた。こんなことならば、遊び人でもなんでも、悪い噂に弄ばれたほうが気楽だっただろう。俺はとことん、誠実とはかけ離れているらしい。
「モテる男はツライ」
「そうじゃなくて、茜音ちゃんと何かあったんでしょ?」
微妙にズラした中心は、華麗に軌道修正された。
勘がいいのも……いや、この場合俺たちが分かりやすいだけか。俺と茜音が喧嘩中であることは、どんな小さな子どもにでも明瞭だろう。
「細かいことは聞かないけどさ、そんなダメージ負うくらいなら、折れちゃったほうがいいんじゃない? 瑞樹君は、茜音ちゃんには甘いもんだと思ってたけど」
「自我がないってこと?」
「お兄ちゃんだってこと」
スズにそんな思惑はなかっただろうが、耳が痛い続柄だった。茅ヶ崎に義理だと揶揄られた傷が、じわりと疼く。
俺の中に兄らしさなんてものが、在中しているのか。俺でさえ不透明なものを、スズはこともなげに差し出してくる。
「違った?」
天然とは違う。しらばっくれてるわけでもない。純粋無垢な問いかけに、はて。と思考は鈍くなってしまった。
「……そうしてないと、嫌われるだろ」
「茜音ちゃんは、そんな簡単に瑞樹君を嫌いにならないと思うけど」
「どうだろうな」
少し前なら、おどけて頷けただろう。今だってあんな勢いだらけの大嫌いを、真に受けているわけではない。けれど、それが希望的観測であることもまた、視野に含めている。
「……茜音ちゃんはさ、瑞樹君のことよく分かってるよ」
「だったら、嫌いになるのは簡単だ」
「それでも、兄妹でしょう?」
「……そうだな」
スズは俺たちの事情を、認知しているのか分からない。
誕生日の開示をした覚えもないし、そうでなければ義理だとも明かすこともない。だから、スズは俺たちをどう捉えているのか読めなかった。
「茜音ちゃん、へこんでたよ」
「知ってる」
ささくれだっているだけじゃないなんてことは、俺のほうがよく分かっている。あいつは、他人と敵対することを嫌うから。悄然として、気に病んでいることだろう。そこまで推量しておいて、何の解決策を巡らそうともしない俺が性悪なのだ。
「困ったね」
「責ないよな、スズは」
「そこまでのことなんでしょ?」
けろっとした顔で、首を傾げる。「しょうがないよ」と続いた言葉に、励まされた気がした。
俺は、いい友達を見つけたものだ。これまでだって一目置いていたけれど、やっぱりいくら感謝してもし足りない。
「でもさ、またみんなで合わせやりたいし、仲直りはしてよね?」
おちゃらけた笑みで足された願いには、たじたじだ。苦笑いで、顎を引く。与えられた大義名分は、行動に少しばかりの弾みをつけるものだ。
「どうにかするよ」
「じゃあ、第一歩」
「は?」
スズは相変わらず、涼しい顔でいる。背に這わされた細い手に戸惑っていると、もう一方の手のひらが前方を指し示した。その先には、紙袋を抱えた永美がいる。
「さっきから、ずーっとあんな調子だし、気になっちゃって、気になっちゃって」
「なぁ、茜音から何か聞いたの? お前」
「どうだろうね? でも、今日が何の日で、和方さんが何でああしてるのか、なんて僕がわざわざ言わなくても分かるでしょ?」
忘れていた。
スズは、にこやかな押しに強い。この特性で茜音にコスプレをさせたのだから、その実力は折り紙つきだ。それも正論であるのだから、退路は残されていない。
「ほーら。頑張って、お兄ちゃん」
ぐいっと背を押す力強さに負けた。バランスを崩して、ぱたぱたっと踏み出した数歩。振り向けば、いつものように相好を崩したスズがいる。太陽みたいなやつだ。
それにしても「お兄ちゃん」呼びとは性質が悪い。実のところ、この不甲斐なさにやりきれない思いでも携えているんじゃないか? と怪しむ嫌がらせだ。
お兄ちゃんは、お兄ちゃんらしくなければならない。
こちらを窺っていた永美は、俺の挙動を時を移さずに看取した。ぴょんと伸ばした背筋は、驚きか緊張か。俺から永美に能動的に近寄ったのは、未曾有だ。
「瑞樹さん」
「……移動しようか」
「はい」
思いつめたように呼ばれれば、先の展開は読める。俺は鈍感主人公にはなれそうにもない。
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