妹が妹で困っています⑤

 そこからの俺は、まったく使い物にならなかった。

 授業内容などすっぽ抜けているのは当然、永美の相手も適当極まりなかったはずだ。もはや、記憶にない。

 腹の底からぐつぐつと煮えたぎる怒りが治まらず、不快感が昂るばかりだ。普段ならなんてことのないクラスの雑談さえも、癇に障る。見当外れだとは分かっていても爆発しないだけで精一杯。外面を繕うことも、威圧的な空気を鎮めることもできなかった。触らぬ神に祟りなし、とばかりに避けられているのが分かる。

 俺だって、刺々しさ満載のクラスメイトに話しかけようとは思わない。空気を悪くしてごめん。けれど、茅ヶ崎の言葉がぐるぐると頭の中を暴れ狂って消えなかった。

 茜音の代わり。

 強烈に響くものだ。

 もちろん、そんなつもりはなかった。その時々に、気持ちを持ち込んだとは思っていないし、茜音を重ね合わせて夢想したことはない。

 だが、結果として、最終的には茜音の代わりも同質だった。

 気分は極悪である。自業自得。最近は、めっきり巣食っていなかった暗い感情が、血液に流れ込んでくる。

 堪えられなくなった。

 だから、やめたとも言える。積もり積もった自分への憎悪が、重くなり過ぎたのだ。離れたことで、忘却したつもりになっていた。もう手が切れたつもりになっていたそれから、隔絶されることはない。過去の自分が、今の俺を絞殺しにくる。

 見て見ぬふりをしていただけなのだから、必然だ。

 過去を振り返って、後戻りしている暇はない。俺の失態は決して帳消しにはならないし、背負わねばならぬ業である。

 ケリはつけた。しこりを残さないように動き回った。

 今までも遊びだったのだから、これからだって遊びでいい。とごねられたこともある。俺は誠心誠意、言を尽くして収めてもらったのだ。

 必需ならば、土下座だってした。腹部にグーパンを決められようとも、金的を蹴り上げられようとも、受けるべき罰はすべて受け止めたはずだ。

 しかし、それで過去が丸ごと清算されるわけではない。無論、犯した罪を償うには、今を一新せねばならぬことは分かっている。他に信頼を取り戻す術はないし、過ぎたことは覆せない。

 俺はタイムトラベラーでもなんでもないのだ。


「お兄ちゃん?」


 ノックとともに飛び込んできた声に、腰を浮かす。自室であることで、油断にどっぷり浸かっていた。

 けれど、茜音が訪ねてくることは不測ではない。むしろ、最近は日課にも近かった。高校生にもなって、兄の部屋に入り浸っているのはどうかと思うが、要件は如実だ。ミシュ――ひいては、FOのことしか頭にない。俺の部屋だとか何だとか、そういった感慨はあいつにはないはずである。

 空疎だ。そう思っていることが、忌々しい。

 無言で扉を開けば、茜音はワンピースタイプのパジャマ姿で突っ立っていた。ネグリジェと呼ぶのかもしれない。ひらひらとした透け感のある布は、憮然とならざるを得なかった。

 やたらと目についている自分に、愕然とする。


「なに? どうした?」


 習慣としては、俺が扉を開けば茜音は問答無用で押し入ってきていた。手にはスマホを握りしめていて、要旨は目に見える形であったのだ。

 しかし、今日の茜音は違う。スマホも握っていなければ、部屋に入ろうという意志さえ見えなかった。へこんでいる。思い煩っているような顔つきで眉を寄せて、扉に体重をかけた。


「茜音?」

「和方さんと、何があったの」

「……ちょっと」

「邪険に扱ったの?」


 どうだろう。

 怒鳴ってしまったが、あれは一応の謝罪をしてあった。あの後も、永美から声はかけられていたはずだし、あれが原因だとは思われない。

 しかし、その後かけられた声にどんな対応をしていたのか、からきし思い出せないのだ。憤りに任せて邪険にしたであろうことは想像に易かった。


「お兄ちゃん?」


 黙った俺に、茜音は一歩距離を詰めてくる。

 上目に見上げられて、俺は目を細めた。同じように見上げられた顔なのに、茅ヶ崎と茜音ではこんなにも違うものか。どちらがいいなんてものは、比較するまでもない。

 茜音の姿は、見慣れた安心と愛嬌へのときめきが攪拌されている。後者の胸騒ぎを、茅ヶ崎のせいにしてしまっても許されるだろうか。あんなことがなければ、ここまでではなかったはずだと。そう正当化したくなるほどに、息苦しかった。


「だとしたら、どうだっていうんだよ」

「そんなの」

「……距離を置いてほしいって言ったのは、お前だろ?」

「……そんな風には言ってないもん」

「同じことだろ。お前は俺が永美と仲良くしてるのは気に食わない。でもこうなったら、俺を責める。どうしろっていうんだよ」

「和方さんは、遊んでるわけじゃないじゃん」


 茜音は涙目になっている。そのくせ、視線はひたむきだった。

 内向的な性格も、俺だけは対象外。それでも異議申し立ての際は、弱腰が見え隠れしたものだった。

 今の茜音に、それはない。


「適当に離れるんじゃなくて、ちゃんとケリをつけるようにして」

「なんでそんなに気にすんの」

「……お兄ちゃんに、後悔して欲しくないから」


 ぎょっとして、茜音を見下ろす。

 いつだって守るべき女の子だった。それは、ある意味で見くびっていたということだ。こいつがこんなにも観察眼の鋭いやつだったなんて、気が付いてもいなかった。


「分かってるよ。分かんないけど! お兄ちゃんが何考えてんのかまでは分かんないけど、時々苦しんでいることは分かるもん! 私、そこまで馬鹿じゃない。お兄ちゃんのこと、ちゃんと見てるもん」

「……だったら、放っておいてくれよ!」


 お前がそうして、俺をちゃんと理解してくれようとするから、俺は自分を見失う。遥か彼方までいっても、濃やかな女の子を忘れることはできやしない。

 こんな絶叫は、お門違いだし理不尽だ。

 ごめん。ごめん、茜音。


「俺が誰とどこで何をしようと、どうなろうと、お前には関係ない。逆もそうだろ? お前が他で何をしていようと俺が口を出すようなことはない」


 強く拳が握り込まれる。


「違うかよ」

「……じゃあ、お兄ちゃんは私が変な仲間と仲良くなっても口出さないわけ?」

「……永美はそういうんじゃないだろうが」

「不特定多数を先に指定したのはお兄ちゃんじゃん」


 涙腺だけは弱いまま。泣き出しそうな顔をしながらも、昔と違う厳しい口調が続いていく。いつの間に、こんなに強くなったのだろう。それでも、変わってしまったなんて無念に思ったりしない。

 また、ずっと凛々しくて艶麗になった。


「言わずにいられるの?」

「……それは」


 困難だ。

 今の俺は、まともな彼氏との付き合いでさえも、深入りしかねない。茜音が危険な集団と距離を縮めれば、俺は無茶を通してでも引っぺがすだろう。

 茜音に幻滅されたって、茜音の安全を第一に考える。そういったリスキーな面が自分にあることは、肺腑に染みていた。俺の依存度は、危険水域だ。


「自分はやるんでしょ。私のためだって、言うんでしょ? だったら、私がそういったっていいじゃん! お互い様でしょ」

「それでも、したことはないだろう。実際、お前の友人関係に口を出したことなんて、一度だってないだろうが!」

「言いたいことがあるなら、言えばいいじゃん!」


 ぎりぎりと、拳を握り締めた。

 鏡写しのように瓜二つのポーズをしている茜音が、唇を噛み締める。俺たちは本当に、どうでもいいところばかり似てしまったものだ。


「言えないようなことなの? 嘘つかないっていうけど、お兄ちゃんは誤魔化すもんね」


 かっと激情に駆られた。やめろ、と遠くで叫んだ自分の声は、何の役にも立ちはしない。


「茅ヶ崎との付き合い考えたほうがいいんじゃねぇの」

「は?」


 ぽかんと口を開ける茜音に、顔を顰める。


「なんで?」

「なんででも。あんなやつ」

「理由ないの?」


 引き締まる表情に、苦味を飲み下した。


「最低」

「言えって言ったのはお前だろ」

「もうちょっと理由くらいあるものだと思ったの! 涼ちゃんのこと何も知らないくせに、そんなひどいこと言うとは思わなかった」


 理屈を告げるのは、告げ口になりそうでたじろいだ。ここまできても、茜音を傷つけたくない気持ちが先行する。

 それさえも計算済みだったのではないか、と茅ヶ崎の挑戦的な顔がチラついた。


「弁明もしないんだ?」

「……どうせ、趣味も合わないようなやつだろ」

「はぁ!? それでも一緒になって楽しめるから、友達なんじゃん。そりゃ、ミシュたんの話できたら嬉しいけど、それはスズさんとかお兄ちゃんとかとすればいい話だもん。そんなくだんないことで付き合うの考えろとか意味分かんない。それなら、スズさんと必要以上にくっつくなとか言うほうが、まだ納得した」


 息つく間もなく詰め寄られて、俺は黙り込むという未熟な反応しかできなかった。

 茜音はふぅふぅと肩で息をして、ボルテージを上げている。悲憤が昂って、瞳が濡れていた。茜音はどんな感情であったとしても、涙腺に直結するタイプだ。

 悲しんでいても、喜んでいても、怒っていても、悔しかろうとも。喜怒哀楽がごちゃ混ぜになって、涙に変換される。いつも分かるのは、感情が爆発していることくらいのものだ。今に限って言えば、ダイレクトな怒気を感じ取れるが。

 スズとのことに、少々妬いていることを直言されたことも生気を削がれる。俺は茜音には、逆立ちしたって敵わないのだから。


「言うことないわけ?」


 ぎろりと切れ味鋭い視線が、身を切り裂く。

 俺は、今まで茜音の度量に甘えていたのかもしれない。ここまで攻撃的な顔は、前例がなかった。


「……もう、言った」


 茜音の頬に朱色が広がる。

 こんな形で見たくはなかった。どうせなら、いつもみたいに怒ったように照れる紅潮なら良かった。そうなるような、気の利いたことを言えれば良かった。

 俺は、茜音の前では予想以上にぬけさくなのだ。一番格好をつけたい人の前でこそ、出来損ないである。


「お兄ちゃんなんて、大っ嫌い!!」


 語彙力が尽きるのは、馬鹿の一つ覚えだったが、その抉り方は尋常ではなかった。

 言い捨てて超速で逃げた茜音を、追いかける気迫は根こそぎ奪われてしまっている。俺はその場にへたりこむことすらもできずに、ただただ茫然自失としていた。

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