妹が妹で困っています④

「義理なのに?」

『義理だから?』


 それは俺の自意識過剰であっただろうし、幻聴以外のなにものでなかっただろう。裁かれるかのような、ナイフが押し当てられているような、そんな冷や汗が背を撫でた。


「やめろ」


 震えないように抑制した声は、みっともなく掠れた低音になった。

 最も他人に突かれたくない箇所だ。

 俺は、その指摘がこの世で一番おぞましい。まるで、この気持ちを断罪されているような錯覚に陥る。何も疚しいことはない。被害妄想であることも分かっている。それでも、後ろ暗い思いをせずにはいられなかった。

 俺のせいで、いつまでも義理にしか見えないのだと。

 茜音の兄になど、なれやしないのだと。


「別にいいけど、それじゃあコスプレをバラすといえば、脅しになる?」

「お前、それ……」

「茜音の友達やってるんだから、SNSの付き合いもあるし、そういうのも観察するし」

「……大した努力で」

「ありがとう」

 

 褒めてねぇよ。

 口角を上げた完璧な微笑が、憎らしいほど垢抜けている。悪魔的だ。


「言っても困らないよ」


 そりゃ、積極的にバラしたくはない。仲間内だけで羽目を外せる環境を崩壊させるのは、不本意だ。しかし、交渉に使われるほどであるのならば、固執したりはしない。どうせカモにされるのは俺で、そんなものには慣れ親しんでいる。

 今度は何と呼ばれるだろうか。女装癖。男色家。変態なんて昔と大差がなくて、歯牙にもかけない。

 波乱は気鬱だけれど、それを回避するためだけに茅ヶ崎と付き合うつもりはなかった。


「じゃあ、もうひとつ」


 そういって掲げられた人差し指は、やけに尖った凶器に見えた。俺の勘は、嫌なときほどよく当たる。


「茜音が兄に女装させて喜んでる気持ち悪い妹っていうのは?」

「……」


 黙り込んでしまったのは、当たらずとも遠からずな文言だったからだ。苛立ちや焦燥よりも先に、真実味がある点に遠い目をしたくなった。

 俺が好きでやっているとはいえ、茜音は大いに楽しんでいる。初めこそ、戸惑いもあったようだが、今では何の逡巡もない。妙なところで順応性が高く、俺はそれにも翻弄されていた。

 ミシュたんやってくんない? と要望MAXで首を傾げたのは、気持ち悪いに相当するだろう。それは、不運にも茅ヶ崎の言う通りに違いない。お前がカノンをやるなら。と所望した俺も俺であったので、あれはイーブンだが。


「そっちは黙るんだ? 困る?」


 勝ち誇ったような楽しげな顔は、とても称えられたもんじゃない。

 沈黙したのは、答えに窮したからではないのだけれど。これは、黙っていたほうがいいだろう。

 それに


「勘弁してくれ」


 よくよく思案を巡らせば、忌避感を煽るアプローチであった。

 茜音に変態の呼称がつくなど、言語道断だ。俺以外にあいつの本性を知るものなど、いなくて結構。例外はスズだけである。これは、都合上やむを得なかったので、俺がどうこう言えることではない。


「嫌?」

「当たり前だろ」

「やっぱ、妹が第一なんじゃん?」

「ていうか、茅ヶ崎はそんな噂が茜音に立っていいのかよ。変態の友達だぞ?」

「知らなかったの! 本当に何考えてんのか分かんない。女装男子に興味があるなら分かるけど、実のお兄さんだよ? 気持ち悪いっていうか、禁断? みたいな??」


 きゃぴきゃぴしてみせる演技は、真に迫っていた。教室での茅ヶ崎のイメージに近い言動は、おおかたすんなりと受け入れられることだろう。


「最低かよ」

「リスクを伝えないと脅しにならないじゃない?」

「そんなに俺が欲しいの?」

「いかがわしい言い方するよね、本当」

「ステータス、なんてナルシスト気取ったほうがいいか?」

「どっちも変わんないよ」


 結果論で言えばその通りであるし、脅されている内情も曲がらない。何にしても、趨勢は変わらなかった。


「言うなよ」


 俺には否定する以外に選択肢はない。それすらも、変わらぬ確固たるものであった。

 茅ヶ崎は、軽い足取りで俺の前に立ちはだかる。見上げた表情は、光加減に阻まれてよく見えなかった。


「考えてもらえる?」


 腰を屈められて、視線が合う。突如鮮明になった瞳は、潤んでいた。嬉々にもとれる色味には、呆気に取られる。俺も大概捻じ曲がっているけれど、茅ヶ崎の攻略趣味は強すぎだ。


「ダメ?」


 避難経路を塞いでおいて念押ししてくるのが、遺憾である。

 俺の舌はこんなにも硬くて、言うことをきかない生命体であっただろうか? べらべらと屁理屈をでっち上げていたはずであろうに。こんなろくでもないことにも、ブランクは生じるようだ。


「和方さんを諦めさせるために使ってくれていいって言ってんだよ? 少しだけ、ね?」


 誘惑するように囁いた唇が、そのまま押し当てられて呼吸を止める。一秒にすら満たない。そんなコンタクトであっても、驚くには事足りた。

 茅ヶ崎は、再び唇がひっつきそうな距離を維持し続ける。いやらしさはないくせに、艶やかさが香っていて、それが厭味ったらしい。


「瑞樹君が望むなら、イイことしたって……っ」


 言葉を断ち切って、噛みつくように口付けた。

 首の後ろに手を回して、顔を手繰り寄せる。ぱっと見開いた瞳は、無視をした。抉じ開けた唇から漏れた喘ぎにも、耳を塞ぐ。くちゅ、っとわざとらしい音を立てて、主導権を握った。

 茅ヶ崎は、抵抗にも届かないわずかな身じろぎこそすれ、じきに弛緩した。そのタイミングを見計らって、貪るように咥内を犯す。角度を変えて、計算通りにできあがった茅ヶ崎の頬を洞察してから、舌を引き抜いた。

 最後に唇を合わせるだけの軽いキスを送って、解放する。


「少しなら、これで許してくんない?」


 はふはふと息を整える茅ヶ崎に、目を眇める。

 性欲ってのは、不便だ。久しぶりのディープキスは、正直クるものがある。そこはかとなく、腰が重い。


「……、こういうこと平気でするんじゃない、やっぱり」

「茅ヶ崎が先に匂わせたんだろ。イヤらしい女だね、お前」

「嫌い?」

「いや? 最高じゃない?」

「そっちは最悪ね」

「下手じゃねぇだろ?」


 目を細めて威嚇すれば、茅ヶ崎はわずかに身を引いた。ハッタリだったんだが、及第点だったらしい。


「でも、最悪。妹のために、手を出すんだもの」

 

 氷水をぶっかけられたような気がした。性欲なんざ、一瞬で消し飛ぶ。


「何人も茜音の代わりにして、抱いたんでしょ?」


 茅ヶ崎を撥ね退けたのは、無条件反射だった。一刻も早く距離を取りたくて、咄嗟に立ち上がる。かっと身体に灯った熱は、先程までのものとは訳が違った。


「黙れ」

「図星」

 

 ちかちかと視界が明滅する。

 これは誰に同情されるわけもない。そして、同情などされてはならない真実だ。吐き気がする。


「お兄さんにはこっちにほうがききそうだね」

「……やめろ」


 地獄の底を這うような、相手に届かないような低音だった。響かない音が、がらんどうに滑り落ちて、不安定さを奏でる。


「どうだった? どんな気分になるの? 倒錯的?」

「やめろ」


 胃液が競り上がってきそうだ。

 どんな気分? 自己嫌悪で死にたくなる。


「想像するの? あか」

「茅ヶ崎!」


 腹式呼吸で捻り上げた声は、階下にも届いたことだろう。そんなものを斟酌している余裕は、粉微塵もなかった。


「やめてくれ」

「ひどい顔」

「……茅ヶ崎もな」


 こいつは本当に、恐ろしい。普遍的なトーンで、とんでもないことを口にする。

 なるほど、そういうやつは確かに怖い。茜音が俺のことを怖いと言った気持ちが今になって、よく分かった。


「まぁ、こっちは秘密にしておくから、茜音のことで考えておいて」


 無言を了解と受け取ったのか。それとも、端から答えなど期待していないのか。茅ヶ崎はさらりとした調子で、階段を駆け下りていった。スキップ交じりの軽やかな足取りが、絶望へのステップに見えたものだ。


「くそがっ……」


 壁を殴った拳の痛みなど、ないも等しいものだった。

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