俺が迫られて、怒ってる?③

 あの野郎、お兄ちゃんのSOS完全無視か。

 信号が通じていないとは思わなかった。傲慢かもしれないが、あいつはそういった機微に敏い。目端の利く、心優しい女の子のはずだ。彼女の助けた子が目の前で笑っているのだから、そのはずである。

 にもかかわらず、兄のことはスルーとは小癪な。

 ここのところ、茜音はずっとこんな調子だった。理由は歴然としている。永美の猛烈な攻勢だ。

 そして、俺の中途半端な対応が、茜音を苛立たせているのだろう。それこそ自意識過剰だけれど、あいつは嫌いだと切り捨てたのだから、間違いない。そんなところばかり実直じゃなくてもいいのに。まったく遠慮のないやつである。

 そりゃ、俺だって、こんな状況に甘んじているのがいいとは思っていない。半端な態度が面倒臭さを生むのも知っている。それと同時に、強い拒絶が生む軋轢も知っているのだ。激昂されて、ぶん殴られたこともある。軽いヤンデレと化して、ストーカーめいた事態に陥ったこともある。

 あのときほど、茜音と仲良くしていなくてよかったと思ったことはない。茜音を盾にすれば俺をどうにかできるという認識がなかったことは、救いだった。もしも、と思うと生きた心地がしない。考えただけでもおぞましい。

 だから俺は、強硬手段に出られないのだ。

 永美には、俺と茜音の仲が良好であることがバレている。永美が窮地にどういう性格を見せるような子なのか、判断が下せない。余計な警戒だと言われればそれまでのことだけれど、俺は意外と用心深いのだ。

 どうしたもんか。

 中学時代を思えば、茜音が不機嫌であることも、ある程度は平常だ。けれど、今はまた関係が変わっている。せっかくよもやま話ができる距離感に戻ったものを、投棄はできなかった。


「瑞樹君?」

「ああ……茅ヶ崎」


 どうにか永美から逃れた廊下でぱたぱたと駆け寄ってくる茅ヶ崎は、茜音の友人だ。先輩方に人気の女子だと聞いたことがある。


「困ってるっぽいね」

「はは、まぁな」

「茜音が怒るから?」

「それもある」


 眉を寄せると、茅ヶ崎はくすりと笑いを零した。俺としては、ひとつも笑い事ではないのだけれど。


「和方さん、すごいね」

「茅ヶ崎でもそう思う?」

「なにそれ。誰が見たってそう思うでしょ? 茜音が苛つくのも瑞樹君が辟易するのも分かる」

「そう? あんなお嬢様に好かれてマジ羨ましー、が男どもの感想らしいけど」


 当事者にならなければ、この七面倒臭さは分かるまい。難解にしているのは自分の性格だと分かっているし、贅沢な悩みだとは分かっているけれど。

 鬱陶しいだとか苦痛だとか、心置きなく口にしたら、非難轟々なのは目に見えている。


「単純だなぁ、男子は」


 俺の愚痴に相槌を打つ茅ヶ崎は、あっけらかんとしていた。

 ありふれたことのように同感してくれるのは、ありがたいものだ。いいやつだ。モテるだろう、これは。本当に。


「ねぇ」


 廊下の角を曲がった薄暗い踊り場で、茅ヶ崎が振り返る。丸っこい瞳が、キラキラと輝いていた。


「助けようか?」

「茅ヶ崎が?」


 唐突な提案に目を見開く。首を傾げると、茅ヶ崎は笑みを深めるだけだった。


「どうすんの?」


 とんと目の前にやってきた茅ヶ崎が俺を見上げてくる。この上目遣いが、目論んだものか身長差の問題かは判然としない。どちらにしても、人の注意を引くには十分な効力を持っていた。

 茅ヶ崎はそのまま踵を持ち上げて、俺との距離を一段と詰める。


「あたしと付き合ってるってことにしちゃわない?」


 囁き込まれた声が甘さを含んでいて、ぎょっとする。息を詰めたのは、一瞬のことだった。


「どういう気まぐれ?」

「なんでそう思うわけ?」


 これはまさしく、誘惑するための上目遣いだ。


「茅ヶ崎ってそういうタイプだった?」

「そういう?」


 ゆるりと傾げられた顔に、黒髪がさらりと流れる。幻想的な流れは、分かってやっている。


「別に俺のこと、好きじゃないでしょ?」


 そんな恋慕を感じたことは、一度もない。パーソナルスペースが近いな。と思ったことはあるが、それが好意だと思うほど自惚れてはいなかった。

 茅ヶ崎は、茜音とだって距離は近い。


「どうして?」

「どうしてって……」

「助けようって提案なんだから、好き嫌いの話じゃなくない?」


 隙のない微笑みがあまりにも手慣れていて、笑ってしまった。


「そうだな」

「でしょう?」


 でも了承したら、なし崩し的になる。そのくらいの推測はすぐさま立てられるような、そんな立ち居振る舞いだ。

 俺だって、馬鹿じゃない。

 愚かな火遊びは、それなりに厄介事も学んだ三年間だった。性癖なんぞそれぞれで、波乱含みで、そんなものだ。そして中には、人をオトすことに生きがいを見出す人種もいる。そのために、愛される努力をするのだから、人間とは奇怪な生物だ。

 でも、そんな特徴を持っているだろう茅ヶ崎の気持ちはよく分かった。俺だって、かつてはそうであったのだから。


「けど、断るよ」

「でもそうすると、和方さんは引き剥がせないよ」

「その代わり、俺は美人お嬢様を振って妹の友人に手を出したって評判が立つわけだ。茜音にぶち切れられるわ」

「……評判なんて気にしないくせに」

 

 かしかしと頭を掻いて、ため息を零す。

 昔も同じようなことを、誰かに言われたはずだ。評判なんか気にしないくせに、どうして駄目なの? と見上げていた女の子はどんな子だっただろうか。

 気にしてないわけじゃないんだけどな。

 けれど、これでもうひとつはっきりしたことがある。


「知ってたんだな」

「女好きのお兄さん?」

「やめろよ」


 兄という役割とそれを結び付けられると、胃が痛い。茜音を巻き込んでしまっているようで、罪悪感に蝕まれる。事実として、欠片も余波を与えてないはずがないのだけれど。

 それでも「お兄さん」という枠は、あまりにも直接的過ぎた。


「誰でもいいんでしょ?」

「もうやめたんだよ」


 ぐいぐいとやってくる茅ヶ崎に、俺は両手を上げて降参を示す。

 こういったタイプには、しかと線を引いてしまっても差し支えない。他人の手を借りたりはしないはずだ。この勘が違えば大問題だが、この俺によく似た少女は、きっと大丈夫だろう。


「退屈してないの?」

「してないし、戻るつもりはないよ。悪いな」


 これ以上の問答には意味がない。実力行使に出ることはないだろうけれど、こういうやつはアピールを続けるものだ。

 攻略をしたくなる。

 これが分かってしまう自分に、うんざりした。茜音が知ったら、軽蔑するだろうか。


「じゃあな」


 昼休みの一服。特に用があって、どこかに向かっていたわけでもない。俺は踵を返して、茅ヶ崎に背を向けた。


「残念。せっかく、茜音と仲良くなったのに」


 俺ははたと足を止めて、茅ヶ崎を振り返った。

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