俺が迫られて、怒ってる?②

 兄は普通の――女遊びを止めたただの高校生になったけれど、だからといって私たちの仲が突然改善するわけもない。

 一体どういった心境の変化だったのか。兄の変わり身についていけなかった。お兄ちゃんはいつだって、私のお兄ちゃんでいてくれていたというのに。

 冷戦状態といってもよかった中学時代。それでも兄は、私に対して普通だった。昔から変わらない、兄の姿を見せてくれていたのだ。けれど、それがまた私の焦りを加速させる要素でもあった。

 こんなにも平然としたまま、女好きになってしまった兄の心が分からなくて困惑したのである。結局、その謎は未だ解けないままだ。

 キモいと毒づくことはできても、本心を聴くことはおっかなかった。

 そんな得体の知れなかった兄が、女装コスプレをやっていると発覚したときは度肝を抜かした。引いたかと言えば、多少は。でもそれは、気持ち悪さとは別物だ。どちらかと言えば、ビックリして腰が抜けた。ミズキさんは私がSNSで偶発的に見つけた女装コスプレイヤーさんだったから、本当に驚いたのである。

 次に思ったのは、この兄は本当は女子に興味があるのではなくて、女子になることに興味があったのだろうかという性癖の疑問だ。

 それは女装をしている男子を見れば、あまねく思うというわけではない。

 ふと、思うところがあったのだ。我が兄は、女好きを公言してやまない割に、女子に執着しているのか分からないところがあった。すぐに相手が変わることもそうだが、熱心に口説いてくるようなタイプの子にはたじろいでさえいたように思う。

 徹頭徹尾、遊びだった。あの三年間に、兄の本気などなかった。だから、カモフラージュだとか、自分の性癖への苦難だとか。そんなものであったのかも、なんて邪推してしまったのだ。

 まぁ、これはすぐに否定されてしまったのだけれど。

 それじゃあ。と尋ねれば、兄はなんとなくだと笑った。それじゃあ、女の子好きになったのはどうして? と尋ねれば、兄はなんとなくだと笑っただろうか。きっとこれ以上ないタイミングだっただろうけれど、私は聞くことができなかった。勇気がなかったのである。それがすべてだ。

 そして、私は今もお兄ちゃんとの距離感を測りかねている。

 同じ趣味を持った仲間だと分かっても、ぎくしゃくしていた三年間が無に帰すわけではない。それは確然と横たわっていて、私は順応できないでいた。急に素直になることが、どこか気恥ずかしくもある。

 お兄ちゃんっ子なのは、今だって、昔だって、ずーっと変わっていない。けれど、それを表に出すことはもう随分やってこなかった。口汚く罵る時間を積み重ねすぎて、私はまた、どうしていいか分からない。

 それでも、オタク趣味を分かち合えることに舞い上がっていた。また、昔のように一緒に遊べる兄妹に戻れたことは、この上ない喜びだったのだ。

 そこに、彼女は現れた。

 和方永美。

 恩人です、と私たちを慕うお嬢様。転校初日にクラスの注目を掻っ攫ったらしい彼女は、それ以来兄に執拗に付き纏っている。私にもかなり話しかけてきてくれるけれど、目的が分からないほど、私も兄も馬鹿じゃない。

 お兄ちゃんは、当惑しながらも拒絶はできないようだった。

 優しいからなのか。過去の癖が抜けないのか。拒絶の鋭さに二の足を踏んでいるのか。何にしても、兄は混迷しているらしい。

 だから、真にデレデレしているとは思っていない。しかし、兄はゲスと呼ばれていたときも同一に、何食わぬ顔で女の子を相手していたのだ。この男は、またしれっとした顔で元に戻ってしまうんじゃないか、と心細くなる。

 どれだけ口で、ミシュに――コスプレに一途なんだなんて話していても、拭えない。信用していないわけではないのだ。いないのだけれど、兄はなんでもない調子で、日常の延長に、それを再発しかねない危うさがある。

 嫌なのだ。馬鹿みたいなことで言い合えるお兄ちゃんを取られてしまうようで。

幼稚な独占欲なのは、分かっている。

 けれども、女好きのお兄ちゃんは嫌なのだ。自分の兄がそういった目で見られていることも無論、薄気味が悪くて弱気になる。ごく自然な顔をして、そういったことをやってのける兄が分からなくなる。

 だから、和方さんの相手をしている兄は苦手だ。


「嫌ですわ、瑞樹さんったら」


 ふふふ、とオタクがやったらキモ笑いになりそうな優雅な笑みが耳朶に滑り込んでくる。

 今日も今日とて、和方さんは隣のクラスから出張中だ。してこなくていいのに。

 兄は、淡泊に相手取っている。それは思わせぶりではないけれど、拒否でもない。平凡さが苛立ちに変わるのは、この平素がブレないままに女の子を口説いていた姿を知っているからだろう。

 この男はスイッチが入れば、平気でそういうことをする。

 膝をついて手の甲にキスをぶちかましていたり、お姫様抱っこを繰り出したり。少女漫画の王子様のような態度を、ポーカーフェイスでやってのけるのだ。形になるので許容されているが、正直妹としては見限っている。


「茜音? 話聞いてる?」


 ぱたぱたと目の前で振られた手のひらに、はっとする。視線を引き上げれば、涼ちゃんが苦笑いで私を見ていた。


「ごめん。ちょっとボーっとしてた」

「最近、多くない? なに? 悩みでもあんの?」


 ラフに尋ねてくれる涼ちゃんは、優しい。

 茅ヶ崎涼ちがさきりょうは、高校に入ってから仲良くなった友人だ。黒髪のショートカットが似合うオシャレさんで、ちょっと気後れしてしまうほど可愛らしい女の子である。

 お前のほうが目立つ。とは兄の談だが、それは単純に私が金髪であるというだけの話だ。その証拠に、私は一切モテないけれど、涼ちゃんは男の子たちのマドンナだった。こんな風に人を心配してくれる真っ直ぐさも、魅力のひとつなんだろう。


「別にそういんじゃないんだけど」

「本当に?」

「本当。いいじゃん、もう。聞いてなかったのは、謝るから。なんだっけ?」

「まぁ、いいけどさ……お兄さん。また捕まってるねって話じゃん?」

「うっ……」


 はぐらかそうとしたつもりだったのに、何ひとつ逃れられていなかった。ここは適当に聞き流しておいたほうが正解だったのではあるまいか。


「あ、それ?」

「違うもん」


 反射のような否定は、涼ちゃんの言葉に被るように飛び出した。涼ちゃんは一瞬の間を置いて、ぷっと吹き出す。


「ブラコン」

「う、うっさい!」


 心の中では認めても、他人に指摘されると恥ずかしい。

 高校生にもなって、ベタベタした兄好きなのは珍しいのだと分かっている。いい加減、兄離れをすべきだろうと分かっているのだ。


「聞こえるよ?」


 涼ちゃんはすっかり面白がりながら、しーっと指を立てた。

 私はむぐりと空気を閉じ込めて、兄たちから視線を逸らす。知らないふり、知らないふり。


「そんなに嫌なもん?」

「なんていうか……」

「なんていうか?」


 律儀に尋ねられると、苦しい。嘘を言うわけじゃないけど、根っからの本心なんて、とてもじゃないけど口に出せない。言い渋る私を、涼ちゃんは待っている。とりわけて急かしたりはしなかったけれど、見逃してもくれないらしい。


「人目を憚らずにデレデレして、妹として恥ずかしい……的な?」

「デレデレしてるかなぁ、あれ」

「じゃあ、迫られていい気になってて??」


 さして変わらない意味合いに、涼ちゃんは「どうだろう」とでも言うように首を傾げた。

 目の当たりにすれば、兄に積極性が皆無なのは一目瞭然だ。けれど、噂は独り歩きするものである。美人転校生を転校初日に落とした男がいるらしいだとか、付き合い始めたらしいだとか。今やそのゴシップは学校中に広がっていた。

 因みにだが、兄の情報として双子の妹がいるらしいとも広まっているらしい。もしかせずとも、微妙に被害を受けているような気がする。


「迷惑してんじゃないの? あれ、助け求めてんじゃない?」


 涼ちゃんに言われ、私はそろそろと兄のほうへ視線を流した。両手を合わせ満面の笑みを浮かべた和方さんの横で、兄はこちらを見ている。

 ぱちりと視線が合った瞬間に、情けない顔を寄越した。もちろん、そんな顔を晒したのは一瞬で、すぐに平常に戻ってしまったけれど。私が見落とすわけもない。小さな秘密をシェアしたようで、心が落ち着かない。確かにこれは、助けを求められているんだろう。

 けれど――


「さすが、瑞樹さんですわ」


 にっこりと我が物顔で隣に並ぶ人間を、引き剥がす方法なんて知らない。浮かれた声をさせているのが煙たくて、躾のいい妹でなんていられない。


「知らないよ」


 ぷいっと視線を逸らせば、涼ちゃんは呆れたように笑った。


     *************

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