ノーコスプレ・ノーライフ②
結局、英語の宿題は茜音に強奪された。ついでに、俺の机までもしっかり奪取されている。
妹が宿題を消化するのを監視する羽目になろうとは、夢にも思わない。高校生にもなって、こんな面倒の見かたをするなど考えたくもなかった。少しは恥ずかしがればいいものを、茜音はけろっとした顔をしている。
しまいには、ゲームにさえも道連れにされてしまった。突っぱねる精気がなかったのは、既に宿題を見せる見せないの応酬で疲弊していたからだ。後になってみれば、上手く取り入られたような気がして気分が悪い。
そんな冬休み最終日を越して迎えた新学期は、雪が舞い踊るような冷え冷えとした開幕だった。
マフラーに顔を埋めて登校する茜音の後ろを追う。
一緒に登校なんて行儀のいい真似をしたのは、一体いつぶりだろうか。わざとではなかった……だろう。けれど、俺たちは相応に干渉しあわない兄妹であったのだ。
俺の趣味がバレて以来、距離感がおかしくなっているだけ。これがイレギュラーであることは、俺が誰よりも分かっていた。
「寒ーい」
「口にするなよ。余計寒くなる」
「耐寒魔法っていいよね」
「……無茶苦茶言うな」
茜音は何気ないところで、さらりと二次元を織り交ぜる。かといって区別ができていないわけではないのだが、何しろあまりに素朴過ぎて、穏やかでなくなった。
一様にコスプレをバラす行為ではないけれど、漫画趣味は早々にバレそうである。別に拘泥しやしないけれど、こいつは隠していなかっただろうか? 教室で身のこなしを思い巡らしても、まるきり思い至らない。俺は妹のそんなことも知らなかった。
実家から高校までは徒歩圏内。俺と茜音は前後に並ぶ形で、とぼとぼと通学路を辿る。校門が見えてくる頃には、生徒間のざわつきが耳につくようになった。
曰く、
「転校生だって」
とのことらしい。
好奇心を光らせたエメラルドが、早速食いついた。茜音のこの瞳が、潮時を知らない面倒事だとは、この数日で観念している。
教室に向かう道すがら、届いてくるざわめきに耳を傾ければ、詳細などたちどころに嗅ぎ取れるのだから、噂とは軽視できないものだ。
「綺麗な女の子だってよ」
「そーみたいだな」
「興味ないわけ?」
「お前は俺をなんだと思ってるわけ?」
「女好きでしょ?」
「……そうな」
際立って修正するのは大袈裟だ。それに俺は、女性を恋愛対象としているのだから、好きは好きである。
たとえ茜音の言う女好きが、度を越したものを指していようとも、否定できない素行をしてきた。苦みとともに、受容するしかない。
「本当にやめたんだ?」
「……なんでそういう結論に達したんだよ。俺、肯定したと思うけど」
「肯定するくせに食いつかないところが、本当っぽいなって」
「感覚的なことで」
「そんなもんじゃない?」
俺がコスプレに嵌った理由を答えたときと同じような言葉を、けろりと呟く。なんでもないことのような軽やかさ。これが無意識であることが、憎たらしい。
「茜音、おはよう」
「おはよう! 涼ちゃん」
教室に辿り着くや、かけられた声に茜音は遠退いていく。ごくごく自然な成り行きに、俺は息を吐き出した。
席に向かえば、ぱらぱらとクラスメイトから声がかかる。俺はそれに挨拶を返しながら、茜音と別れた。
兄妹を同じクラスにした学校側には、便宜を図って欲しいところだ。だがまぁ、教室での素知らぬふりも板についていた。一年を通して築いてきた塩梅は、冬休み程度では揺るがなかったらしい。そこに趣味の邂逅があったとしても、盤石であった。
高校一年生の三学期。
そういえば、こんな時期の転校生なんて稀ではなかろうか。いくら新年と言えども、年度末だ。キリが悪いと言えば、キリが悪い。こんな珍奇な季節にやってくる転校生に、ワケアリだというのはアニメや漫画の定番だな。
そんな考えを片手に、欠伸を噛み殺す。連日の夜更かしは、こたえるものだ。
結局のところ、ホームルームで明らかになった噂の転校生は隣のクラス。ワケアリも何もなく、俺は関わることすらもないだろう。
どんなに二次的な趣味を持とうが、語ろうが、物語はそうお手軽に起こらないものだ。
所詮他人事だった転校生が、よそ者でなくなった瞬間。俺はそれを大きなどよめきとして受け取った。
クラス中を瞬く間に活気づかせた転校生は、淑女と呼ぶのが相応しい美少女だった。これは噂になって当然だろう。
やってきた彼女は、きょろきょろと教室中を見渡す。かと思えば、その視線がひとつところに留まった。ぱっと光を灯した瞳の先を辿ったのは、無意識だ。俺に限らず、彼女に気を取られていた多くの生徒がそうしたことだろう。
ただし、先の人物を見た瞬間に、悪い予感を覚えたのは俺だけだっただろうが。
この教室内で一等見目麗しいブロンドは、ぱちくりと大きな瞬きを繰り返す。近付いていく転校生を前に、茜音はいつまでも佇んだままだった。
「あの!」
と躍動する転校生の声とは裏腹に、茜音の反応は芳しくなかった。
あいつ、人見知り発動してるな。
と、分かるのは俺くらいだろう。多くはこの状況に面食らっているし、茜音の鈍重さも同様のものであると判断しているはずだ。
慌てた茜音の視線が辺りを彷徨い始めると同時に、俺は教室中の的から目を離した。逃げるが勝ちだ。巻き込まれる。
「あっ」
立ち上がろうとした俺に、またぞろ声が跳ねた。
無視だ。知らん顔。と強く念じたが、どう考えても狙われているのは俺だ。なんなら、クラス中からも鋭い視線を注がれている。退路は断たれてしまったも同然だ。
ワケアリなんて、現実ではろくなことにならない。空想なんざするんじゃなかった。
「……知り合い?」
俺が苦肉の策で声をかけたのは、茜音のほうだ。
そうじゃないことは百も承知であったけれど、それ以上の言葉は浮かんでこなかった。随分とアクシデントに弱くなったものだ。
茜音はぶんぶんと首を横に振る。分かりきっていたことだ。その横で転校生の顔が曇っていくのは、少しばかり不憫に見えた。
「先日、助けていただいたのですけど……」
ぼそぼそとした説明が俺たちの間に入り込む。俺と茜音は顔を見合わせて、記憶を遡った。
「あっ……」
先に到着したのは茜音で、転校生をまじまじと見つめて、答え合わせを始めた。
その不躾な瞳を、転校生は穏便に受け止めている。むしろ、思い出してもらえることを期待する眼差しをしていた。
「電車の子!」
ぱんと打った柏手に、釣られるように記憶が弾けた。転校生の表情も、釣られるように華やぐ。こんな美少女を思い出すのに時間がかかるとは、情けないものだ。
しかし、その日の俺は恐慌状態であったのだから、やむを得まい。
「はい。助かりました。ありがとうございました」
転校生は、礼儀正しく腰を折る。俺たちはあたふたと、それに倣うことになった。
「本当に困っていたので……」
「大したことはしてないよ。俺も茜音も駅員さんを呼んだだけだし」
「いえ、わたくしには十分ありがたいことでしたので」
「役に立てたのであれば、それは良かった。それにしてもこんな偶然あるものなんだな」
「そうですわね」
かしこまったお嬢様口調は、彼女の口からでなければ違和感しかなかっただろう。茜音が使ったら、気持ち悪くて吐き気がする。俺は救急車を呼ぶ自信があった。
「わたくし、
「ああ……俺は谷山瑞樹。こっちは茜音」
隣……というよりは、俺の後ろで絶賛人見知り中の茜音を示すと、永美はゆるりと首を傾げた。ふわりとウェーブのかかった髪が、連動するように揺れる。
「お二人は……?」
恋人? 兄妹? ご関係は?
セリフこそ立ち消えていたが、尋ねたい関心事など図るに容易かった。似ていない俺たちを即座に兄妹判定できるやつは、ほぼゼロだ。過去一度たりとも、即断されたことはない。
「兄妹だよ」
「仲の良い兄妹さんなのですわね」
「え」
兄妹と断じられることも少ないが、仲の良さを取り沙汰されることも少ない。ましてや、和方とはそれを見極められるほどの交流もないのである。何を以てしての査定なのか見当もつかず、戸惑った。
「だってあの日もご一緒に出掛けておられたのでしょう?」
なるほど。心当たりは読めた。
「あれは偶然」
「そうだったのですか。でもやっぱり、仲が良く見えますわ」
にっこり笑顔で押される性向に、苦々しさが込み上げる。
殊更に仲が悪いとも思っちゃいないが、あえて仲良しにさせられると非常に落ち着かない。
「取り立てて仲がいいわけでもないよ、本当。いたって普通の兄妹だから」
「でもとてもはしゃいでおられたようですから」
「……たまたまだよ」
「わたくし、今日まで恋人同士だと思っていたくらいですわ」
「勘弁してくれ」
邪気のない思い込みは、生きた心地がしない。一体何の冗談だ。
「それはない」
茜音も黙っていられなくなったらしい。表情が死んでいる。キモいと罵倒する声が聞こえてきそうだ。今回ばかりは、激しく同意である。
「フラれちゃいましたね、瑞樹さん」
「縁起でもないこと言わないでくれよ」
和方は楽しげに間を詰めてくるが、俺としては看過できるものではない。
茜音と恋人と勘違いされることも無論。加えて、それにフラれるなど、考えたくもなかった。この俺が、フラれる? それも茜音に? それはない。茜音が妹でなかったとしても、それだけはない。
居心地の悪さは上々で、茜音の顔色も同等だった。
こんなときばかりは、感情がリンクするものらしい。こいつはこいつで俺に告白されるなんざ、ごめん被ると言ったところだろう。悪癖への罵声を思えば、それ以上の悪感情を抱えているかもしれない。
「それではわたくしはこれで失礼しますわ」
「ああ、うん」
「またお伺いしますね」
顔の横で緩く振られた手は、皇后だかがテレビでそんな風にしているのを見たことがある。それほどの、お淑やかさだった。一から十まで、お嬢様である。財閥の娘だなんだなんて騒がれていたのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
彼女の粛々とした後姿を見送る最中、予鈴が鳴り響く。あっさりとした引き際は、そういうことかと合点がいった。あのフレンドリーさがあれば「仲良し」はもう少し、立ち入ってきそうであったのだ。あくまでも時間制限による引き上げか。
……これから変な方向に流れなきゃいいけど。
「偶然、怖っ……」
恋愛ごとにぶち込まれそうになった戯れに、ダメージを食らったのだろう。そこから立ち直った茜音はぽつりと呟いて、自席へと去っていった。
確かに。偶然とは恐ろしいものだ。
応援してくれていたファンが、妹だなんて偶然、恐ろしくなければなんと言うべきだろうか。茜音よりも、俺のほうが身をもって分かっている。
嵐のように過ぎ去った時間に、ため息をひとつ。俺も席へと腰を落ち着けた。
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