第二章

ノーコスプレ・ノーライフ①

「ぁあ……っ、待って、お兄ちゃ……!」


 ベッドに横たわった茜音が、悲鳴を上げる。ぱたぱたと動く足が、衣擦れを鳴らした。狭い部屋に茜音の物音が広がっていく。


「いつまで待たせんだよ」

「ぁあん、ダメ……ッ」

「早くしろって」

「だ、だって! 初めてなんだもん」

「だからこうやって手解きしてやってんだろうが」

「ひゃ! 急に動かないで!」

「言ってる場合か」

「もう、お兄ちゃ……そこ、だめ! ゃん」


 じりじりと駆け上がってくる限界に、俺は激しく身を操った。

 茜音の嬌声が耳朶を叩く。その吐息を、奥歯を噛みしめてやり過ごした。飲み込んだ生唾が、ごきゅりと音を立てて生々しい。


「やだぁ、もう助けて、おにぃ……」


 弱々しい甘えたな声音に、ぶちりと最後の何かがキレた気がした。俺は茜音に向かって、荒っぽくそれを打ちつける。


「きゃうん!」


 犬かよ!


「おっまえは! いかがわしい声を出すんじゃねぇよ!!」


 叩きつけたクッションは、大した威力もなく茜音の背を跳ねた。きょとんとした顔が、俺を見上げてくる。自分が悪事を働いたなど、少しも疑っていない緩い顔つきが恨めしい。

 目を離した画面は、ゲームオーバーの悲しいリザルトが浮かんでいた。俺だけのせいではない。俺が放棄をせずとも、茜音のクリアには無理があった。


「急に何なの?」

「何なのじゃなくて……」


 これは、俺が悪いのか? 歳も離れていない兄のベッドにうつ伏せになって、あられもない声を上げるなど、兄妹として一般的だっただろうか?

 いや、まさか。そんなことはあるまい。

 だが、当の茜音は喘いでいる自覚などないのだろう。ゲームのピンチにてんてこ舞いになっていただけのこと。責められれば、答えに窮するのは猥雑な考えを持っている俺のほうだ。言い逃れる道などない。


「また負けたし!」

「それはお前が下手なんだろうが」

「難しいんだもん」


 茜音はゲーム好きだが、デタラメに下手くそだ。PCゲーはまだやれるらしいが、携帯ゲーム機になるととんと駄目になる。再三のトライアンドエラーでも、上達の予兆は露いささかもなかった。

 付き合わされるこちらの身にもなって欲しい。挙句の果てに、いかがわしい声を聞かされるのだから、俺の鬱憤は募りゆくばかりである。

 まさかこいつ、よそでやるときもこんな声を出しちゃいないだろうな。

 エロい。

 そもそも格好もどうなんだろうか。ショートパンツにパーカーなんてラフさで、無防備に足をバタバタさせるのはやめろ。気が散って仕方がない。妹の中身に興味がなくとも、人体としての際どさには抗えないものがあった。


「お兄ちゃん、もう一回!」

「勘弁しろ」


 夜も更けてきている。眠ってしまいたい俺のベッドは、ちゃっかり茜音に占領されていた。徹底的に付き合わせる気概が透けて見えるようだ。


「付き合ってくれるっていったもん」

「常識的な範囲でだろ。連日連夜なんて約束してない」


 頬に空気を溜めて、不満を膨らます。せめて口に出せ。無言で咎めるのはやめろ。


「だいたいお前、宿題終わってんのか? 明日で冬休み終わりだぞ」

「お、終わってる。終わってる」

 

 かちゃかちゃとボタンを鳴らしながら、言葉を繰り返す。またなんとも分かりやすい誤魔化し方だろうか。我が妹は、思っていたよりも馬鹿らしい。


「何終わってねぇの」

「……え、英語?」


 ちろりと上目に見上げられて、深く溜息を零した。

 茜音が要求を全部口にしないのは、俺の察しの良さも影響しているのかもしれない。先回りするのもほどほどにしておかなければ、茜音のためにならないだろう。


「見せない」

「え?! なんで!」

「なんでじゃねぇよ! 自力でやれ」

「お願い!」

「この冬休みで何回お願い叶えてもらうつもりだ、ばかね」

「ひどい! 人の名前を!」


 ぷりぷり目を三角にして、足を激烈に上下運動させる。高校生にもなって、そんな変則的な地団太を踏むな。肉感的な肢体との落差が付加されて、みっともないことこの上ない。


「とにかく、明日頑張るんだな」

「お兄ちゃんの鬼! 鬼ぃちゃん!」

「おーおー、鬼で結構だよ」


 ぼふっとくぐもった音と共に、顔面が真っ黒な塊に覆われた。身に覚えのあるクッションを、そのまま振り抜いてベッドへ叩きつける。

 今しがた俺が投げたばかりのものを、そっくりそのまま返してくるとはいい度胸だ。痛みなどたかが知れているが、腹立たしさは天晴である。


「お前なぁ!」


 仁王立ちで見下ろすと、茜音は膨れっ面で応戦した。そんな顔したって許すわけがないだろう。がばりと茜音の上に覆いかぶさる。


「ちょっ……なにっ」


 エメラルドが溢れんばかりに見開かれ、ゲーム機が枕元へと落ちた。離れた手が再びゲーム機に戻らぬように、片手でシーツへと縫いつける。細っこい手首には少々怯んだものの、それで折れるほど俺は甘くない。

 それにしても、もう少し反抗したらどうなんだろうか。


「お兄ちゃん……?」


 心細い声質が、俺を覗う。瞳がうるうると濡れ始めていて、こいつは涙腺ががばがばだったと思い出した。いくらなんでも、こんなことで泣きはしないだろうけれど。


「なんだよ、どうした?」

「何する気?」

「さぁ、なんだと思う?」


 片頬を持ち上げて首を傾げると、茜音の顔色が赤くなったり青くなったりした。意味深さは伝わったらしい。

 あれやこれや言いながらも、俺の妹なんだな。と、この場面で実感していることを伝えたら、真っ赤になって楯突くだろう。


「離して」

「なに考えたのか教えてくれたら離してやるよ」

「変態!」

「そんなん茜音が一番よーく分かってんだろ?」


 開いている手のひらを、するりと脇腹へと這わす。身体の輪郭を確かめるように撫でると、茜音の腰が震えた。


「馬鹿兄貴! やめろ!」


 組み敷いた女に罵られるなんて、そうあるもんじゃない。それも兄貴なんて野次は、なかなかエキセントリックだ。それを平然と見下ろす俺の性癖も褒められたものではないだろう。

 まぁ、俺が褒められたものじゃないのは、今に始まったことじゃない。


「ひっ」


 ずぼっとパーカーの裾から腕を突っ込めば、決まりきったように喚いた。お構いなしに素肌に触れて、その滑らかさを堪能する。脇腹へと指を移動させた。


「うひゃああっ、ひいいい」


 思いっきり、くすぐってやる。


「ちょっ、やめっ」


 ひひひ、と不格好な笑い声を上げて、茜音が身悶えた。

 もう手の拘束も必要ないだろうと自由を与えてみても、茜音の腕は俺を突き放す気力もないらしい。空いた片方も攻撃の手にすると、茜音はますます珍妙な笑い声を上げる。

 妹の弱点のひとつくらい、握っているのだ。


「茜音ちゃん、大丈夫?」

「この、ば、か!」


 息も絶え絶えに罵倒を繰り出されるが、痛くも痒くもなかった。それよりも、身体の下で身じろぎされることのほうがよっぽど邪魔くさい。俺はぐっと下半身に力を入れて、茜音を組み伏せた。

 一層押し倒す形だが、最早茜音はそういった外聞に気を配っている余裕などないらしい。泣き所だと了承してはいたが、よもやここまでとは知らなかった。

 しかし、止めるつもりはない。俺を苛つかせた罰だ。


「おにぃ、ちゃっ……本当に、やめて……っ! お願い、だからぁあッ」


 いや、待て。罰はどっちだろうか。

 吐息の狭間に落とされる言葉は震えて、悲鳴は艶やかに濡れる。笑いすぎて、瞳は膜に覆われて潤んでいた。下手に身体を押さえつけたものだから、摩擦で服は乱れて、真っ白な肌が電光を浴びて目を刺す。

 俺は思わず、手を止めた。

 襲撃から解放された茜音が、息を整えることに躍起になっている。見下ろしたぐちゃぐちゃに乱れて目尻を拭う姿は、妹だと分かっていても下半身に響いた。

 理性をかき集めて、身体を退かして隣に転がる。ただの悪戯だったというのに、余計な欲を呼び起こしてしまった。

 最近、息抜きしてなかったっけ?


「って……」


 自省に巡らせていた思考が、物理的に遮られる。脇腹にグーパンが飛んできた。


「アホ」

「悪かった、悪かった」

「笑い死ぬかと思った」

「笑って死ねるとか幸せじゃん?」

「拷問だよ!」

「悪い悪い」

「思ってないでしょ! 生殺しだったのに……」


 言葉選びが変だ。そしてそれは


「……こっちのセリフだろ」

「なにそれ」

「なんだろうな」


 本当に何を言ってるんだろうか。

 どうにも、思考回路が切り替わってくれない。めくるめく艶の世界の入り口に立ったまま、俺は感情を押し殺した。

 茜音は、難解な顔をしている。どうやら、今度ばかりは兄のスケベ心に気付いていないようだ。押し倒されるなどの分かりやすいモーションがなければ、俺と同じ発想にはならないらしい。

 妹に悪影響がなかったのはいいが、自分ばかりが翻弄されているのはどこか釈然としない。因果応報であるのだけれど。


「ねぇ」


 だんまりを決めていたかと思ったら、調子を取り戻していたようだ。茜音の……というより、あまねく乙女心というのは、謎だらけである。秋の空にしても、もう少し情緒くらいあってはくれないものか。


「なんだよ」

「お兄ちゃんはなんで女装だったの?」

「また急に……たまたまだよ」

「なにそれ」


 そこに疑問を持たれても、俺だって困る。それこそ、アニメのようなロマンティックな動機は何もないのだ。


「お前なんでFO嵌ったの?」

「え、面白かったから?」


 いまいちピンとこない曖昧な返答がきた。当人もそれが明確な理由だとは思っていないのが透けている。


「そういうもんだろ」

「うん……分かった」


 茜音は得心したようだ。そのまま枕元に置いたゲーム機を手にして、またぞろ不器用な手つきを再開させる。ゲームに没入しすぎて、顔つきがえらく渋い。

 こいつは本当に、ゲームを楽しんでいるのだろうか?


「うー……」


 呻き声まで上げて、必死になることもあるまいに。


「お前、そんなに下手くそで楽しいの?」

「失礼な! 好きだから別にいいの。お兄ちゃんだって、好きだからやってんでしょ?」

「そりゃ、そうだけど。つかもう、寝ろよ。俺、付き合わないからな」

「えー……いいじゃん、別に。明日まで休みなんだし」

「昨日もそうやって寝たの何時だったよ」

「三時くらい?」

「時間を聞き出したかったわけじゃねぇからな」


 半眼で睨むと、茜音は力の抜けた笑いを寄越した。そこは笑うところじゃなくて、反省して欲しいところだ。

 俺は剣呑な態度を崩しているつもりはなかったが、茜音は取り合わない。だらしのないポーズで、無我夢中で画面に齧りついている。一極集中するパワーは素晴らしいと思うが、活用のしどころがずれていた。

 残っている英語の宿題を片付けるために使えよ、それは。


「茜音ちゃん、帰ってくれよ。頼むから」

「これだけ! これだけ手伝ってよ」

「いや」

「女装コスプレバラすよって言ったら手伝ってくれる?」

「お前を殺して俺も死ぬ」

「過激~」


 名台詞を捻った俺も悪かったが、茜音の相槌は完全に茶化しだった。しくじったのは確定的である。


「バラすなよ、マジで」

「分かってるよ。冗談じゃん」

「洒落になってない」


 別に俺は、この趣味を恥に思っているわけではない。けれど、公表するべきかと言われればそれは慎むべきであろう。アンダーグラウンドであることは、確実だ。

 表沙汰になれば、少なからず身辺は騒がしくなる。そういった厄介事は、真っ平ごめんだ。俺はこの趣味を没頭できる、安息の高校生活を送っていきたい。揉め事は中学時代でもう懲りた。


「ミズキさんのことは秘密。分かってるもん。ファンとしてちゃんと守るよ」

「……そっちか」

「どっちがあるの?」


 きょとんとされて、俺は首を左右に振った。なんでもない、という動作は何の壁もなく通じたらしい。

 それにしても茜音の言い草は、本来ならば兄の趣味を流布して回るのも知ったことではないとでも言いだしそうなものだった。俺がミズキでなければ、こいつの口に戸を立てることはできなかったのではなかろうか。だとすれば、こいつが俺のファンであったのは僥倖だ。


「そんなに心配なら約束しとく?」


 何を思ったのか、茜音が問いを重ねてくる。ご丁寧に差し出された小指には、眉が寄った。


「いいよ。ガキじゃあるまいし」

「昔はよくやってたじゃん」

「だから言ってんだろうが」


 そりゃ昔は、小さなことで指切りをしたものだ。実に下らない約束事だったように思う。今思い返しても、内容はてんで思い出せない。

 ただ、茜音の小さな手の感触だけは覚えていた。もちもちの肌が今でも変わっていないことには、ついさっき触れたばかりだ。


「しないの?」


 ゲームの手を止めて、茜音は甲斐甲斐しく手を差し出している。そこまで意識をこちらに向けてくれなくてもいいというのに、変なところで律儀だ。

 中学時代をあまり関わらずに過ごしてきた報いなのか。俺は茜音の性格が掌握しきれないままでいる。

 目と鼻の先に突き出され続けている小指に、深く息を吐き出した。本心が読めなくても、引く気がないことは分かるのだ。こんな半端な把握なら、しないほうがマシであるような気がする。

 小指を絡めてやると、茜音は暢気に指切りげんまんを歌い始めた。

 いい歳をした高校生の兄妹がやることではない。妙にくすぐったくて、今すぐ指を切ってやりたかったが、ムキになるのも負けた気がして茜音の歌が終わるのを待った。


「指切った!」


 ぶんと振られて離れた指に、ほっとする。

 茜音は、役目は終えたとばかりにゲーム機に向き直った。なんて感慨のない約束だろうか。まるで俺がうるさく言ったもんだから、やむなく交わしたとでもいうようなドライさだ。

 俺じゃないだろ。言い始めたのは。


「茜音、部屋戻れよ」

「ダメ?」

「だーめ。兄ちゃん、疲れた」

「若いんだから大丈夫だよ」

「耐久値じゃなくてHP的な話をしてんだろうが」

「ヒールかければいいの?」

「……MPまで吸い取るアンデッドが生意気言うな」

「はぁ?! 例えるならカンナちゃんじゃない!?」

「厚かましいわ! カンナはもっと慎み深い」

「それはお兄ちゃんの理想じゃん」

「あぁ?!」

 

 熱を入れたが最後。

 こうして今日も、俺の睡眠時間はアンデッド茜音に吸われていくのである。

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