第7話
八月の末に、菜穂子さんが「夏休みを取った」と言ってやってきた。彼女は五月の連休の飲み会にも参加していて、会うのは三か月ぶりだった。彼氏がこちらに就職しているので、ちょくちょく来ているらしい。
「みんな忙しそうだよねえ。会ってくれるのは佐伯ちゃんだけだよ」
そんなことを言われると、ひまなのは佐伯ちゃんだけだよ、と言われたような気がするのは、被害妄想が過ぎるだろうか。
確かに、私は夜の八時以降職場にいたことはないし、休日出勤したこともない。できないわけではない。学生時代はもっと四六時中研究室にいて、文献を読んだりゼミの資料作りをしたりしていた。
そこまで切羽詰まってやることがそれほどないと思っていたけれども、それはもしかして、残り数十数年を働き続けられるだけのペースを無意識のうちに計算してのことなのかもしれないと、ふとそう思った。
「仕事は忙しいの?」
「あんまり」
曖昧に微笑むと、特にそんなことを思っていたわけでもないのに、ずっとそう思っていたような気がしてくる。
「この町で、知ってる人に会うとほっとするよ。昼間、大学へ行ってみたんだけどさ、研究室に寄る前に構内を一時間くらいぶらぶらしてみたら、知っている人には誰も会わなかったんだ。卒業して半年しか経ってないのに」
休日だからだよと言いながら、はっとした。知ってる人に会うとほっとする、私も多分そうだと思う。あの人は逆に、今、知らない人に囲まれている方がほっとしているのかもしれない。――むしろ自分を忘れに行くんだよ、私が直接聞いたのではない、彼の声が聞こえた気がした。
「そういえば、ブログ見てる? 橘君の」
訊こうかどうか決める前に、口から出てしまう。
「ああ、たまにね。私も行ってみたいんだよね、メキシコ」
ここにも仲間がいたと思う。
「あの人、いつまで旅行してるんだろうね」
菜穂子さんは驚いたように私を見る。
「佐伯ちゃんと橘君って……仲良かったんだっけ?」
「特にそういうわけじゃないけどさ」
「そうだよねえ」
菜穂子さんは大きなジョッキを両手で持つと、残っていたビールを飲み干した。
「なに考えてるかわからない人だったよね。英語が好きなのは、なんとなく知ってたけど」
「スカイプで英会話の勉強してたらしいよね」
「スカイプでもやってたんだ、進んでるねえ」
菜穂子さんは目を見開いて、微笑んだ。
「スカイプ以外でもやってたの?」
「私は、英会話学校から出てくるの、見たことあったよ。一回だけだけど」
なんの話をしているんだろうと、一瞬思ってしまった。私の知らないところでみんな過ごしていたのは承知の上だけど、だからって、そんなことがあったなんて、私は全然知らない。
「体験レッスンだったらしいけどね。すごく楽しそうな顔して出て来たから、どこ行ってたんだろう、そんな楽しそうなお店あったか? って思ってたら、英会話教室に行ってたって言ったから、ええ? って思っちゃった」
橘君のすごく楽しそうな顔は、どんな顔なのか。少なくとも、私は見たことがない。
「外国行く準備をせっせとしてたのかな」
「さあ、どうだったんだろうね。橘君、その日初めて外国人とマンツーマンで話したんだって。その感想が、ちょっと意外だったんだよね」
「なんて言ってたの?」
「ほっとしたんだって」
どきどきしたとか、楽しかったというのは聞いたことがあるけれども、ほっとした、というのはあまり聞かないように思う。
「こうやって、世界中に意思疎通ができる人が増えていくんだと思ったら、ほっとしたんだって。確か、そんなこと言ってたよ。いや、待って、解放される気がするって言ってたんだっけかな……。
海外行くって聞いて、私はさほど驚きはしなかったよ。なんていうか、彼、疲れちゃってたのかもね」
言語が通じるけど話が通じない人が常に周りにあふれかえっていて、心休まることがほとんどなかったとでも言いたかったのだろうか。私もそうした通じない人の一人だったのか。
「きっと今は、毎日が楽しいんだろうね」
「棘のある言い方だなあ」
菜穂子さんは笑う。
「それは、私が思ってるほど気楽ではないだろうけどさ。いいよね、今までのことをとりあえず全部置いといて、すぱっと旅に出られるんだから。私なんて思い残すことや心配が多すぎて無理だよ」
「それだけ未練がないっていうのも、寂しそうだけどね」
菜穂子さんは、ビールのお替りを頼んだ。
「まあ、十年くらい経ってみないと、どっちがよかったなんて言えないよね。私が勤めてる会社なんて、十年後はもうないかもしれないし」
笑うところなのかよくわからないので、どちらとも取れるような笑顔を見せる。
「佐伯ちゃんが橘君のことをそんなに気にしてるとは、知らなかったな」
「え、そんなことないよ。でも、もう少し話をしてみたかったな。そんなに切羽詰まってるだなんて知らなかったし」
「切羽詰まってたかどうかなんて、そこまではわかんないよ。ちょっとふらっと、こことは違うところに行ってみたいなって思っちゃっただけかもしれないし。私だって、ふらっと放浪の旅に出たいよー。」
菜穂子さんは「ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」と言うと、途端に様子が変わり、それからしばらく職場での驚いた話を続けた。
彼女と同じ部署には、Aさんという先輩がいる。Aさんからは、朝まともに挨拶してもらった試しがない。こちらが「おはようございます」と言っても、返事が返ってくることはまずなくて、よくて一瞥される程度である。無視されることがほとんどで、嫌われているのかなと思って周りの人に相談したら、「あの人に、朝話しかけたって無駄だよ。自分のことで頭がいっぱいだから、耳元で手でも叩かないと、気づかないと思うよ」「まあ、朝だけの話じゃないけどね」などと苦笑いされた。
確かに、周りに配慮しないのは朝だけの話ではなく、菜穂子さんが保管していた書類をゴミと勘違いして捨てようとしたり、口頭のみで伝えたことは半分以上忘れられたり、かなりひやっとすることもあった。彼女になにかを頼まないといけないときは、どんな些細なことでも必ずメモを添えるのに加えて自分の手帳にも控えておくなど、自然とそういう対策をとることになった。
だんだん仕事に慣れてくると、そんなことをいちいち気にするよりも、自分でやってしまったほうがましだと思うようになってきた。そう思うのは菜穂子さんだけではないようで、みんなが少しずつそうやって自衛した結果、Aさんが任される仕事が減るので、「仕事が回って来ない」と騒いでいることがわかってきた。みんな明らかに物申したいはずなのに、本人と話そうとする人はいなくて、周りがせっせと我慢して肩代わりして仕事が回っていることに驚いている、自分も来年あたりはあの人の世話が仕事の大部分を占めるようになるのだろうか……そんな話だった。
「どうりでみんな冷静だなあと思ったら、あの会社、どうやら他にもそういう人がちらほらいるらしいんだ。私のいる部署は比較的余裕があるから、そういう人たちを入れ替わり立ち代わり配置するらしいんだよね……。いつ潰れても転職できるように、色々資格とっといたほうがいいのかもって気がしてくる」
菜穂子さんはビールを飲み干し、大声でお替りを頼んだ。
「相変わらず切り替えが早いねえ。でも考えようによっては、そう言う人達がいっぱいいても成り立ってるって、それなりに安定してる会社なんじゃない?」
「今はよくても、五年後十年後はどうなってることやら。
それにしても、社会に出る前は、そこまで会社で個性出していいなんて知らなかったよね。ああいうのが、個性なのかどうか知らないけどさ」
「確かに、面接ってなんのためにあるんだろうって思っちゃうね。ふるってそれだから、なければ収集つかなくなるのかもしれないけど」
それから、閉店までそんな話が延々と続いた。驚いたことに、あまり話すことはないとおもっていた私からも、どんどん話が引き出されていった。それなりにもやもやを抱えていたことを知り、ちょっと心配になってきた。
菜穂子さんと別れて一人になると、さっき自分で口にしていた「切羽詰まってた」という言葉が思い出された。いつから橘君のことをそんな風に考えるようになっていたのだろう。単に自由な人くらいにしか思っていなかったはずなのに。
私があの人とまともに会話をしたのは、あの引っ越しの日の夜の一度だけだった。それまでは影が薄すぎて、興味を持とうと思うことすらなかったのだ。
ブログにコメントでも書いてみようか。しかし、そう思うにはメキシコはあまりに遠すぎた。
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