第6話

 八月に入ると、仕事もにわかに慌ただしくなってきた。

 勤め始めてから半年も経っていないのに、もう来年の予算を編成する時期なのだという。今している仕事がどんな様子かもつかみ切れていないのに、来年のことを考えないといけない。いや、考えなくとも、昨年の資料を元に作成していけば、ある程度のお手伝いはできるのだ。歯車に組み込まれている感が強い業務である。

 任される仕事も増えて、なるべく言われたことはそれ以上にして仕上げるように心掛けていた。もちろん、期日はしっかり守った上でのことである。だから、そのことについて誰かに意見されるだなんて、思ってもみなかった。

 普段ほとんど話さない先輩と二人で残っていたときのことだった。今週中に終わらせないといけない試算が、全く終わっていないことが判明してしまった。

 エクセルと悪戦苦闘している私に、彼はぽつりと呟いた。

「あんまり頑張りすぎない方がいいよ。やればやるほど、仕事が増えるだけだから」

 一瞬、顔がかっと熱くなった。そんな私を意識してなのか、彼は独り言のように「こんなの、毎年目分量でやってるんだから」とつぶやいた。

 でも……と言いかけたまま、口が開かない。言われてみれば、日中私が「大変、この作業終わってません!」と言ったときに、みんながなんとなく「しまった」という雰囲気を醸し出していたような気がしないでもない。あのときはよくわからなかったし、急いでいたのでそれ以上考えなかったけれども、みんな「とうとう気づいてしまったか、そしてそれを口に出す人が現れてしまったのか」と思っていたのだろうか。

 そして、彼の異様な仕事の遅さ、もしかしたら、普通にできるけど、あえて鈍いふりをして余計な業務が回ってこないようにしているのだろうか。どうせ大きく昇給することもなければ、クビになることもないのだ。もしくは、できるだけ残って残業代を稼ごうとしているのかもしれなくて……、だから私がこうして残って手伝っているのは、私からすると手伝っているように思えても、この人にしてみれば残業時間を奪われているようなものなのかもしれない。だったら言ってよ、私は残業代よりも早く帰ってゆっくりしたいんだから、と思う。残業中じゃ、ユーコン準州の様子も見れないではないか。この間回覧されていた、「心の健康を大切にしましょう」の冊子のことが思い出された。

「じゃあ、私、そろそろ失礼します」

 八時になったので、そう言って席を立つ。二人しかいない部屋に、「おつかれー」とのんびりした声が響く。

 夜道を歩きながら、なんだか橘君に会いたいなと思った。「少しは、わかったかな?」と優しく微笑んでいる姿までが浮かんできそうだった。

 どれだけ英語の勉強をしても、けなす人がいないだなんて、うらやましい。ブログから察するに、英語を頑張りすぎて周りとぎくしゃくしたという様子は見受けられない。彼の語学力が上がって、コミュニケーションがとりやすくなれば、みんなは「便利になったよ」と言って褒めてくれるだけだろう。

 一方、日本にいたらどうか。英語の勉強をせっせとすることは、僻まれることにつながるのかもしれない。英語を使わない職場であれば、そんなことしてるひまがあったら仕事に関係ある資格取ってよと言われるかもしれない。英語を使う職場であっても、秀でることで、他人から疎ましく思われることもあるかもしれない。

 頑張っているのは、他人から見たらそんなに目障りなものなのだろうか。さっきの先輩も、「ほら、新人は頑張ってるんだから」などと上司に言われて、今までみたいにサボることが難しくなって、うざったく思ったこともあったのかもしれない。今まで三日かかることにしていた仕事が一日で終わることがばれて、チッと思っているかもしれない。今回はなにも言われなかったけど、そういうのもだんだん、「もう少し空気読んでね」などと言われるようになっていくのか。

 帰りの電車の中、いつものページを開く。写真の景色の雰囲気がいつもと違うな、と思う。文章を見ると、さらりと、メキシコにいますと書いてある。

 二日前に更新されたときには、ユーコン準州での生活を満喫していた様子だった。まもなくメキシコへ行くつもりだなんて、全く仄めかされていなかった。なんなの、このスピード感、この秘密主義、このなんでもありな状況は……。

 しかも、メキシコって……、大陸違うんじゃない?

 調べてみると、大陸は辛うじて同じだったけど、大陸の端と端のような位置になった。山口県と青森県よりも離れているのも、国が違うのも言うまでもない。またもや私の理解を超えている。メキシコへ行くのに、ワーキングホリデーのビザは使えるのだろうか。

 アップされている写真も、そう思って見ると、いかにも中米にありそうなものばかりだ。湿度を感じさせない風景、ピラミッド、砂漠、濃い緑色をした木々。雑然とした店頭に並ぶ、鮮やかな色をした、目立つ模様が織り込まれた布、サボテン……。さっそく観光しまくってるのか、元気なもんだ。気候も、おそらく言語も全然異なるであろう国では、英語は通じるのだろうか。

 とうとう彼はこんなところまで来てしまったのだ。あの瑞々しくて自然豊かな北の国も、彼の求めていた場所ではなかったのか。それ見たことかと思う反面、得体の知れない思いが湧いてくる。どういう経緯でメキシコへ行くことにしたのかは知らないけど、その自由気ままさに目がくらむ。

 どこへ行っても気にいらない出来事はたくさん起こるだろうけど、それでも、日本でなければ起きない類のこと、日本だから起きていないこと、天秤にかけて、日本でなければ起きない類のことに天秤が傾いてしまう。もうこんなところにはいたくないと思う。誰にだってよくあることだ。しかし、その針がずっと戻らないままで生きていかないといけないのは、けっこうしんどいのではないだろうか。

 一歩海外に踏み出してしまえばありきたりの風景なのか、普通に珍しいとしてよい風景なのかよくわからないが、今は、そこが日本ではないというだけでうらやましい。この中にいたとしたら、私はどんな服を着て、どんな顔をしているのだろう。そんな自分を見てみたくないでもない。そんなことを言ってみても、仕事を辞めて海外へ行く気は私には起きないので、わかる日は来ないだろうけど。

 ますます、明日仕事に行くのが憂鬱になってくる。熱中症にでもなって仕事を休んだりしたら、少しは心配してもらえるのかな、と一瞬思う。しかし、これくらいでいちいち熱中症になっていたら、これから数十年、やっていけないだろう。数日休んでみたところで、最初は多少心配してもらえても、休んで肩代わりしてもらった分の仕事は結局自分に戻って来るのだし、そうしているうちに段々とさぼることを覚えてしまい、能力も衰えていってしまう。けっきょくは淡々と出勤し、周りの様子を伺いながら淡々と仕事をこなしていくのが一番楽なのではないか、私の思考回路ではそれくらいの結論が精いっぱいだ。

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