第5話
学生時代は、貯金なんてする余裕はなかった。ちょっと大きな出費があるときは、食費を削って対処していた。一万円以上のワンピースなんて、いったいどんな人が買うのだろうと思っていた。
初任給が出てから、以前からちらちら見ていた一万円台の靴を買った。ボーナスが出たらナイロンのバッグを革のに新調したいと思っている。特に生活の大変さは変っていないようだけど、この違いはなんだろう。生活も人間関係も、むしろ学生時代よりも楽になっている気もするくらいだ。ここに馴染みつつあるということなのか。
橘君は、こういう生活には興味がなかったらしい。そこまで悪いものでもないと思うけど。ほとんど日本人しかいなくて、目に見えない不文律がたくさんあって、少し変わったことすると「空気読めよ」という空気を出され、確かにそういうところもなきにしもあらずだけど、お金がなくて、食べるのにも困りながら、放浪している方が幸せなのだろうか。
彼は今、農家に住み込みで働いて、代わりに宿と食事を提供してもらうというシステムを利用して旅行を続けているらしい。どうりでいろんな国からの旅行者たちと仲良くしていたわけだ。確かに、いくら旅行中だからって、例えば「写真とって下さい」なんて会話だけをきっかけに、多くの人たちとそこまで親しくなれるとは思えない。しかし意地の悪い私からは、楽しいかもしれないけれども、がっつりただ働きさせられているように見えなくもない。
最近彼は、ユーコン準州というところにいるらしい。そこが気に入ったらしく、しばらくいるつもりのようだ。準州だなんて、そんなものが世の中にあるとは知らなかった。もしかしたら地理の時間に習ったのかもしれないけれど、日本には準県なんてないので、その情報は私の頭からはこぼれ落ちている。
緯度が高い場所らしくて、夏至近辺は夜がほとんどないらしい。そういう話をどこかで読んだことはあった気がするけど、特に自分で体験してみたいとまでは思っていなかった。そんなところへ行っても、自律神経が乱れて大変そうだとしか思えない。
相変わらず、日本にずっといるのであれば、一生お目にかかることのないであろう風景が、パソコンやスマートフォンの画面から日々見られる。束の間の定住で毎日が安定しているのか、見せたいものがたくさんあるのか、ブログはここのところ、ほぼ毎日のように更新されている。
景色だけではなく、ビーバーの写真だとか(遠くだったみたいでブレブレだった)、ハリネズミの写真だとか(こちらも景色と同化していて、丸をつけてもらわないと見つからないくらいのものだ)、そんな中途半端な写真も載せられつつある。熊の写真はさすがにないけれど、野生動物と遭遇する率は高いらしい。普通に、車にも電車にも乗らずに、その辺を十分やそこら歩くだけでこういったものが現れるという。どれだけ田舎に住んでいるのだろう。
野の花の写真もたくさん掲載されている。黄色や濃いピンクのような、日本だったら高山へ行かないとなかなか見られないような花が、モニターの中にさらりとある。
八月になったら一斉に紅葉が始まって、九月末ごろにはもう冬の気配が始まるらしい。文句ばかり言いながらも、ユーコン準州に来てからの彼の写真を見るのは、私にとっても楽しみになりつつあった。日本人がいかにも好きそうな景色なのかなんなのか、日本では見ることはないはずなのに、懐かしさを覚える風景だった。
平らで広いだけでなく、小高い山や、林や野原のようなものが目に入るようになってきたのが違うのだろうか。自然がいっぱいというか、雄大な景色というか、簡単に言おうとするとそういう言い方になっていく、そんな風景の数々。その下に、彼はせっせと、「日本の夏と比べると気温も低めで、湿度も低く、今の時期は快適な気候であるといわれています」などと綴っている。
都合のいい言い方をすれば、「そう、こういうのが見たかったの」という景色、私も行ってみたい気がしないでもないけど、写真だけ見てればいいかなという気もする。十二月になってもっとボーナスをもらえるほうが、きっと私はうれしいし楽しい。
住と食は無料だとしても、仕事してないんだから、有り金が尽きるまで旅行したら無一文で帰ってくるのかな……なんて、余計なお世話だろうか。
スーパーの鮮果コーナーへ行ったら、西瓜が置いてあった。もうこんな時期かと思う。
カナダにも西瓜はあるのだろうか。あるとしても、日本のような大きさではなくて、日本のような赤さではないかもしれない。味も多少は違うかもしれない。確か英語ではウォーターメロンとかいったっけ。そんな呼び方をされる食べ物は、西瓜と同じ味がするはずないと思えてしまう。
あの人は、いつから決めていたのだろう。少なくとも私の知るところでは、就職活動らしきことはしていなかった。初めからそのつもりで、なにもしていなかったのか。
去年、西瓜が出回っていたころには、もう決めていたのだろうか。こんな風によく熟れた西瓜を見ながら、しばらく西瓜は食べられないな、などと思っていたのだろうか。秋には柿や梨に、冬は餅や蜜柑に、そういった日本にあるもの、ひとつひとつに心の中でお別れを言いながら去年一年を過ごしていたのだろうか。
そんなささやかなお別れの時間は、人との間にはどれくらい持たれていたのだろう。今思えば最後の最後で「カレーをしばらく食べられなくなる」などと言っていたのは、お別れを言うきっかけを作るためだったのかもしれない。「どうするか訊いてくれないの?」と主張したい気持ちがあったのかもしれない。
もしくは、最後でぼろが出たと考えるべきなのか、なにも言わないままでいるのはなんだか悪いと思ったのか。結局本人に訊かないことには、いくら考えても答えが出ることではないのだけれど、最近こんなことを考えてしまう。私もひまなのか。
ブログの存在を初めて知ったときには、そのうち飽きて見なくなるだろうと思っていたけど、不思議なことに、まだ見続けている。本人から直接教えてもらったアドレスではないので、少々後ろめたい気もするけれど。全世界に向かって発信されている情報だから、誰かに見られてまずいことは書いていないはずだけど、喫茶店で知らずのうちに近くに座っていて、人に聞かせるつもりのない打ち明け話を偶然聞いてしまっているかのような後ろめたさを覚えないわけではない。まあ、私のせいではないけれど。
七月に入ってから、いつ夏休みを取るのかだとか、夏休みになにをするか、など、休暇の話が増えてきている。夏休みのリッチな旅行なんて、縁のないことの一つだった。時間というよりもお金がなかったので、旅行なんて、鈍行電車とユースホステルを駆使して行けるところしか眼中になかった。
それに引き替え今は、五日間の休みの中であれば、行きたければ飛行機に乗って遠くへ行ってもいいのだ。まだ数万単位の交通費を払うのには抵抗を感じるけれど。
行きたいところ……カナダ? まさか。今更予約したって間に合わないだろうし、わざわざ遊びに行くほど、あの人と仲が良かったわけでもない。
橘君は、まだユーコン準州から離れる気配はなさそうだ。なにが魅力なのか、日本から離れていればいるほどいいのか、遠ければ遠いほどいいのか。
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