第4話
連休が明けると、職場でも、さすがにやることが増えてきた。
大学でも使っていたエクセルを使った書類を作り直すにも、前年度の書類を見ると、見たこともない機能がふんだんに使われている。エクセル関数なるものにも、初めてお目にかかった。それまでに使っていたのが古いバージョンだったので勝手がわからず、初めに先輩にきいたのは、情けないことに「ヘルプボタンってどこですか?」だった。
近ごろ、橘君のブログを開くのが日課になっている。
相変わらず写真が占める面積が多く、申し訳程度に「どこそこにいます」と書いてあるだけだけど、ドイツ人と親しくなったとか、四か国語を話せる人と知り合ったとか、韓国人と間違えられただとか、近況に変化が生じつつあるようだ。コメント欄に書かれた文章のほうが長いのは、相変わらずのようだけど。
海の向こうにいるのだから、全然違う世界が広がっているのは当然だとしても。少し前まで同じようなところで似たり寄ったりの日々を過ごしていた人が、こうして非日常的な生活を送っているのを見ると、自分の生活がより地味に思えてくる。ちょっと損した気分かもしれない。地味が悪いわけではないけれど。
考えてみると、大学の研究室に入ってからの一年半、同じ階にある研究室で物理的な距離は近かったものの、それほど接点はなかった。たまに廊下ですれ違ったらあいさつくらいはするけど、くらいの仲だった。彼がどんなキャラクターだったのか、私はほとんど把握していない。
引っ越しのときだって、やむを得ずお願いしただけだった。それほど親しい仲ではなかったのに、よく手伝ってくれたものだと今でも思う。旅行中危険な目に遭わないように、情けは人のためならずとばかりに、せっせと善行を積んでいたのかもしれないけれど。
橘君は、どんな人だったのか。しいて言うならば、印象が薄い人、という印象だ。あるいは、影が薄い人か。あえて影を薄くすることで、はっきりした影を持っている人であれば受けるであろう抵抗を受けないようにして、ひょうひょうと過ごしている人、そこまで言ったらちょっと失礼になってしまうか。
そんな彼は今、海の向こうでどんな印象を周りの人に与えているのだろう。いくらなんでも、多少は違った態度で生活しているだろうけど。自分の顔写真をブログに載せる人ではないので、どんな顔でいるのかは知らないが。
こうして日々彼のブログを見ながら、この人いつ音をあげて帰って来るのだろうという気持ちが全くないわけではない。気まぐれで外国へ行って、のほほんと楽しく暮らせるほど人生甘くないんだよと、そうあってほしいと、心のどこかで思っているのかもしれない。モラトリアム期間がちょっと長くなっただけでしょう、日本に帰って来たら、新卒で就職活動するより大変になっているんだから。じゃないと、真面目に働いてる私達の立場がないじゃない、とまでは言わないにしても。
しかし、そんなこと言っている私の日々はどうなんだろう。まだ覚えることがたくさんあるから毎日が新鮮ではあるけれど、この新鮮さがなくなったら、次はどんなことが待っているのだろう。新鮮さがなくなったら……、映画館へ行き、非日常的な感覚を味わって、よその世界を垣間見た気持ちになって、満足して、明日からまた頑張ろうと思うようになるのか。三連休が来るたびに旅行へ行ったり、夏になったら富士山に登ってみたり。そういうときだけ、普段見られない珍しい景色を見て。日ごろ頑張って地道な仕事をして安定した収入が得られているからこういうところに来る交通費も捻出できるのだ、などと、なんとなく納得して日々を送っていくのだろうか。
「心の健康を大切にしましょう」という趣旨の見出しの冊子が回覧され、掲載されているグラフを見て、この業界でも療養休暇を取っている人が多いことを知ってびっくりした。しかしまあ、それは長期旅行でも同じことかもしれない。毎日違う景色を見るのは新鮮でも、いつかはその繰り返しに味気なくなって、自分なにやってるんだろう、と思う日が来る。旅行はたまにするからこそ、新鮮でいいものなのだ、やっぱり、少し僻んでいるのだろうか。
ここに来てから、職場で同世代の人と会うと、この人とこれから云十年一緒に働くのか、とつい思ってしまう。この人、こんなずうずうしい態度でこれからもつき合われたら嫌だなあとか、あの人の初々しさがはがれた後にどんな人格が現れてくるのだろうとか、反射的に思ってしまう。十歳年上の先輩たちを見て、同期の人たちも十年したらああやって普通に仕事できるようになるのだろうかと思い、五年後にはこの中の何人かは子持ちになっているのだろうかなどと、思ってみたりする。
今までの友達は、ほんの数年しか一緒にいないと思っていたからか、わりとみんな素を出していた。同じ空間にいても、気まずい空気になるのは気にも止めずに、口をきかない者同士もいた。A君とB君の組合わせはだめだと周りの人が気を使って、そういう人たちの不仲が目立たないように配慮していた。ここでは、表面上は普通にしているので、そういうのはわかりにくい。それなりに周りを見て振る舞い方を考えていかないといけなさそうだ。
私がそんな風にして日々を過ごしている間に、橘君は、リジャイナとか、ウィニペグとか、聞いたこともない地名の場所へ行き、見たこともない写真を撮り、せっせとブログに載せている。「この場所は、六千年も前から様々な人々が集まっていた、古い交易地だそうです」とか、「見たことのない黒い鳥がたくさんいました。名前をきいたら、ブラックバードだと言われました」などと書いてある。カナダか。私もよく知らないけれど、オーロラが見えるとか、メープルシロップを大量生産しているだとか、その程度のイメージしかない。そんな状況なので、彼の経験がどの程度の価値があるものなのかは判断できない。しかしそこには、実際行った人、しかもありんこのようにこつこつ旅している人でないと知りようもないような贅沢な時間の使い方が見られる気がする。多分、普通に勤め人をしていれば、長期休暇といってもせいぜい休めるのは一、二週間程度だ。どうせ行くなら、もっと知名度の高い場所へ行くことだろう。貴重な経験なのか、どうでもいい経験なのかはよくわからないけれども、珍しいことは確かそうだった。
六月の末に、ボーナスが出た。
まだ勤めて数か月だから大した額ではないとのことだけど、少し前までアルバイトで今回のは時給千円だなどと喜んでいた者にとっては、驚きの額だった。ただ休まずに勤務しているだけで、月々の給与以外にこんな上乗せがあるとは。噂には聞いていたものの、唖然としてしまう。それと同時に、私がしている仕事で、自分一人を養うだけでなく家族をも養っている人もいることに思いいたる。少数ながら、勤め出してすぐに結婚式をして新婚旅行へ行った人や、学生時代にひっそりと子を得ていて、子育てしている同窓生もいないではない。親から援助してもらっているのかどうかは知らないけれど、私と大差ない給料の中からその費用を捻出することが可能である、ということなのだろう。
仮に一人で生きていくとしたって、車は必須ではないものの、家を買ったりすることもあるのかもしれない。もちろん、一人で慎ましく暮らしていくには十分すぎる額だけど、そういう生活が今後控えていて、それに向かう者を対象として、定期収入の額がこの程度と決まっているのだ。そう思うと、給与明細の紙切れが重みを増す。それと同時に、私はこれからもボーナスをもらい続けたいと思った。
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