第3話
さほど忙しくないとは言っても、それなりに拘束されていた感覚があったことは否めなくて、連休前日の帰り道では、スキップしそうになった。
他県に就職した友人達も、早くも学生時代が恋しくなったのか、交通費が高めな時期なのにも関わらず戻ってくる人が多かった。連休初日の夜は、誰からともなくいつもたまっていた休憩室に集まり、未だ夜型生活のままの院生になった同級生や、夜の街へ行くよりも就職試験の勉強をしたそうな後輩たちを引き連れて吞みに行った。
ビールで乾杯して、少し落ち着いたころを見計らって、隣にいた人にそれとなく訪ねてみる。
「橘君、どうしてるんだろうね」
「ああ、カナダ行っちゃったんだよね、あいつ」
さらっと返されて、あれ、と思う。
「みんなには言ってたの?」
「俺、知らないけど。そうなの?」
斜め前にいた男子は目を見開く。
「訊いちゃ悪いと思って訊けなかったんだけど」
「ええ? 私普通に訊いちゃったけど、だめだった?」
そんな声も聞こえ、がやがやし始める。
「なんでまたそんな遠くに」
「日本語もほとんどしゃべってなかっただろう、あいつ。英語ならしゃべれるってか」
「それは言い過ぎでしょう」
「で、なにしてんだよ」
「なんかうまくはぐらかされちゃって、よくわかんなかったなあ」
「自分探しか?」
「なんか、むしろ自分を忘れに行くのかもとか言ってたような」
一瞬みんな静かになった。
「おい、橘、一体なにがあったんだよ」
普段から調子のよかった男子の一言に、みんな笑いだした。
知っている人と知らなかった人は半々だったが、なんだか妙に盛り上がってしまい、みんな好き勝手なことをいつまでも言い続けた。彼は、どちらかといえば、いるかいないかわからないような人だったから、余計そうなったのかもしれない。本人がいなくなってからこんなに人気者になってしまうとは、皮肉なものだけど。
どうやら彼は、「来年どうすんの?」と尋ねた人にだけ答えていたことがわかった。しかも彼が情報を開示し始めたのは卒論発表会が終わってからだったらしく、その時期は学校に来る人がぐっと減ったころだったので、それでほとんど広まらなかったようだった。
「今までの自分を忘れるとか言っちゃって、なんかかっこつけてない?」
「あれ? 佐伯さんもしかして淋しがってる? 仲良かったんだっけ?」
「全然だよ。ほとんどしゃべったこともなかったし。まあ、大丈夫なのかなとは思ってるけど」
「ブログを見る限りは、元気そうだったよ」
比較的仲の良さそうだった一人が答える。
「ブログやってたんだ。それは聞いてないな」
「まあ、それも訊いた人にしか言ってないんじゃない。あいつのことだから」
「ブログやってるかどうかって訊いたの?」
「いや、今どこでなにしてるのかってメールしたら、ブログのアドレスが送られてきたんだ」
あまり積極的に自分のことを宣伝する人でもないけれども、かといって全然関心を示してくれないのは寂しい、といったところだろうか。だとしたら、案外普通だ。「あいつのメアド知ってるやつなんていたんだ」との声に、みんな静かになってしまった。
「ツアーガイドやるとか言ってたけど、そうなの?」
「ブログには、特にそれっぽいことは書いてなかったと思うけどな」
「働いてないの? 滞在費どうしてんのかな?」
「さあ、資金がなくなったら帰ってくるか、なんか仕事探すんじゃないの」
「そもそも資金なんてあんの? あいつ、そんなにバイトしてたのか?」
流れで、みんなで橘君のブログを見ることになった。
タイトルを教えてもらい、見たい人がそれぞれのスマートフォンで検索する。教えられたキーワードを検索し、それらしきページを開くと、数枚の写真と、ほんの数行の文章が掲載されたいかにも地味なブログが現れた。
「なんていうか……、あいつらしいな」
誰かがひとことそう言ったきり、橘君の話は終了した。
あとは自然と仕事の話になった。会社によっては、早くも資格を取るように言われただとか、先輩と一緒に外回りへ行っただとか、忙しそうだった。四月も残業続きだったり、覚えることだらけでひーひー言っているだとか、よくある話で盛り上がる。
みんな愚痴を言いつつも、目標だとかをそれらしく語っている。ただ来たことをあるがままに受け入れていただけで、特にこれといった意見のない私は、完全に聞き手に回った。職場の雰囲気の違いなのか、個人の意識の違いなのか。この人たちとついこの間まで同じところにいたのが、不思議な気がしてきた。みんなは二次会へ行くらしかったが、私は一次会で帰ることにした。
みんなを見送って一人になると、橘君のブログをもう一度見てみることにした。
先ほどのページをもう一度開くと、数日に一度のペースで更新されているようだ。できあいのテンプレートを選んだだけで、特に工夫がみられない、やたらとあっさりしたブログだ。文字が小さくて読みにくいけど、もしかしたら、ここだけは自分で小さいフォントを指定したのかもしれない。
記事を読むと、毎回異なった地名が書かれている。違う場所に移動するたびに更新しているのだろうか。しかし、このあっさりした感じはなんなのだろう。写真に添えられた文章としては、「バンフに来ました。雪が残っていました」くらいしか書いていない。これでは生存確認のレベルだ。もしや、親に心配されないためにしぶしぶやっているのだろうか。
たったそれだけの内容なのに妙に気になってしまい、けっきょく全部の記事に目を通してしまった。卒業してからほぼ一月が経過した今。毎日同じ職場に通って、これからの数十年間、おそらく毎日同じようなことをして過ごすであろう私の毎日とは、かけ離れている。どちらがいいか悪いかなどは一概には言えないし、客観的にみれば私のほうがいいとされる立場なのだろうけど、そう思ってしまう自分が、なんだか一気に老けた気がする。とくに見たくもないと思いつつ、それなのに自然と指はスクロールを続ける。
カナディアンロッキーです、と山の写真が載っていたり、カナダのスタバのケーキです、などと、いかにも甘そうで大きく食べ応えのありそうなケーキの写真が載っていたりする。誰かが「もう少し感想書けよ」とコメントしていたのに対して書かれていた返事が、またやけに長い。
――感想と言っても、僕が思ったことを書いてみたところでどんな意味があるのか……。食事一つにしても、僕にとってはたいしておいしくないものが人気があったりもするし、僕の感想なんて書いてもそんなの何万分の一の意見にすぎないわけだし、意味がない気がする。
それに、山や湖がきれいだなんて書いたって、写真見たら、おそらく多くの人がそう思うんだから、わざわさ文字にしなくてもいいのでは? 僕なんかがありきたりな形容詞を使って頑張ってみても、どうでもいいことしか書けないし、読むほうにとっても書くほうにとっても不毛な時間になっしてまうんじゃないかな。
勝手に見ておいてなんだけど、ひまなんだろうなと思った。
けっこう書くなと思いながらも、こういう人だったよなというのが、じわじわ思い出されてくる。隣の研究室という微妙な距離にいて、交流がほとんどなかった私でさえ感じるくらい、積極性が見られない人だった。それでいてちょっとつっつくと、蜂の巣でもつついたかのように、いきなりわっと話し出したりする。なんで自分がこの作業を真剣にやる気がないのかなどを懸命に説明する、そんな人だった。彼の長いコメントの後に続く人はいないらしい。彼の交友関係はよく知らないが、やはり多かれ少なかれ、彼ほどひまな人はあまりいないのだろう。
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