第2話

 冗談を言っているようにも思えるけど、笑っていいのかどうか、判断がつかない。普段あまり話さない人と話すのは、こういうのが困る。

 日本語で話すときですら人一倍口数の少ない彼は、英語を話すときはどんな様子なのだろう、そんなことを考えているうちに、食事が運ばれてきた。私はオムライスを、彼はジェノベーゼのパスタを頼んでいた。

「外国行くんだから、今のうちにお米食べておけばいいのに」

「日本食にそんなにこだわりないから」

 そんなことを言いながら、おいしそうにパスタを口に運んた。

 奨学金の返済はどうするのかとか(借りてるかどうか知らないけど)、社会保険はどうするのかとか、旅行資金はどうやって貯めたのかとか、気になることはたくさんあったけど、それらの質問は口に出される前にあぶくのように消えていった。会話を交わす間もなく、気づけば皿は空になっていた。

「パスタ、少なくなかった? 足りた?」

「うーん、できれば、もう少しなにか欲しいなあ」

「じゃあ、頼もうよ。私も、なんだか今日疲れちゃったし」

 日本食は恋しくならなくても、白玉あんみつが恋しくなることは予感しているのか。そんな心の声が口に出されることはないまま、二人分の白玉クリームあんみつを注文した。私はバニラアイスが乗っているものを、橘君は抹茶アイスが乗っているものを頼んだ。往生際が悪い、という表現はこういった場面当てはまるのかどうか。

「抹茶は好きなの?」

「うん」

「持ってったりするの?」

「そういうの、往生際が悪い気がしてあまり好きじゃないから」

「今抹茶アイスを食べているのは、往生際が悪いわけではないの?」

「まだ日本にいるんだから、いいんじゃない。固いこと言わないで」

 普段あまり見せない、意外に素直な笑顔がちらりと見えた。一瞬、この人すごく楽しそうだなと思った。

 外国へ行くと聞いてからの十数分間、なんだか現実味がないと思っていた理由がわかった。本当なら、もう少し楽しそうにしていてもいいのではないかと思っていたのだ。自分から、どこへ行くとか、なにをするとか、こちらが訊きもしないのに一方的に話し続けるような……海外旅行へ行く人の態度として、勝手にそんな先入観を抱いていた。さっきのような、淡々と訊かれたことだけを答える様子は、疑いを覚えさせるものだった。

 しかし、こんな笑顔をこっそり見てしまった日には、本当はうれしくてたまらないのを必死で隠しているのかもしれないとも思えてしまう。突いてみていいところなのか、そんなことしたら、角に触れられたでんでんむしのように、警戒して殻に入ってしまうのか。あまりに彼がおいしそうに白玉クリームあんみつを食べるので、気づいていないふりを続けるしかなかった。

 駅に着いて、それぞれ別の方向の電車に乗る十分かそこらの間に、とうとう、

「なんで外国に行こうと思ったの?」

 ここ一時間近くずっと口に出せなかった質問をしてみた。

 彼は首を傾げた。なんで私がそんな質問をするのかわからない、とでも言いたいのか、それとも答えを出しあぐねているのか。

「このまま日本にいても、なんだか、居場所がない気がするんだよね」

「居場所なんて、自分で作るものなんじゃないの?」

「ああ、そうだね」

 後から思うと、それまでの間に、私がそうしたであろう三倍くらいし続けていた質問だったのかもしれなかったが、そのときは、小馬鹿にされたような気がした。そうして、余計なことを言ってしまった。

「自分探しとか?」

 橘くんは、しばらく黙ったままだった。聞こえなかったのだろうかと思い始めたころ、

「佐伯さんの言う自分探しって、具体的に言うとどういうことなの?」

 と言った。

「え、えっと、それは」

「よくわからない言葉は、軽々しく使わないほうがいいと思うよ」

 それが私たちが交わした最後の言葉になった。私が乗る電車のほうが先に来て、慌てて「じゃあね」と言ってみたけど返事はなく、窓からも手を振れるような雰囲気ではない。彼は、なにも考えていないようにも見える、もしくは懸命に感情を抑えたようにも見える、そんな表情のまま、私のことをずっと睨みつけていた。なんだか悪かったかなと思いながらも、なんだあれはとも思った。

 確かに私は深く考えずに、世間でよく使われがちな言葉を右に倣えで使ってみただけだったけど、そんなの誰もが普通にやってることではないのか。そんなことで、いちいぷんぷんする人だとは知らなかった。今まで仲良くしてなくてよかったと思った。

 そんなことを思い出しているうちに、やがてオムライスがやってきた。

 あれからもう半年が経過したのだ。あの人は、今ごろどうしているのだろう。

 彼が今いるであろう、グアテマラとこことでは、どれくらい時差があるのかも、私はよく知らない。ほんの半年経っただけで、ずいぶんと遠くへ行ってしまったものだと思う。もっとも、私達が近かったことなんて、なかったのだけど。


 社会人って、もっと忙しくて厳しいものだと思っていたので、就職した組織は思ったよりも余裕があってちょっと驚いた。

 四月は研修が続いてほぼ例外なく定時で終わり、研修のあとはたびたび同期と吞みに行き、こんなんでいいのだろうかと思ってしまった。

 今まで周りにほぼ同世代の人しかいなかったのが、突然年齢も立場もばらばらの人達に交じって働くようになって、まったく戸惑いがなかったわけではない。ちゃんと求められている振る舞いができているのか、正直なところわからないし、自分の立ち位置を見定めるまでにはもう少し時間がかかるように思いながらも、もっとすごいことが待ち構えているのではないかと身構えていたので、拍子抜けした。

 例えるなら、小学生から高校生までの生活のようだ。毎朝同じ時間に起きて、同じ時間に電車に乗る。学校と似たりよったりの鉄筋コンクリートの建物は古びていて、ひびやしみが多く、ここが職場かと思うと悲しくもあるが、どこか懐かしい雰囲気でもある。帰宅する時間も寝る時間も、ほぼ毎日変わらない。

 よく使う電車のダイヤは、あっという間に記憶した。でたらめな時間に行動して、思いついた場所へいきあたりばったりで行けた学生時代が幻のようだった。ついこの間までその中にいたはずなのに、あれはなんだったんだろう。

 余裕があるとはいっても、最初のころは、毎日同じ時間に通勤しないといけなかったり、スーツでないにしても穴の開いたジーンズで通勤するわけにはいかなかったり、昼休みになるまでお菓子を買いに行けなかったりと、一般的にはごく普通の小さな制限に、息苦しさを感じたこともあった。

 規則正しい生活をするようになって少し痩せて、ある程度改まった格好をして、薄化粧もしているせいか、偶然道端で会った研究室の後輩に「雰囲気変わりましたね」と言われた。学生をやっていたころは、何年経ってもちっとも変わらないと言われていたのに、そんな人物を一月で変化させてしまうとは、就労するというのはそれなりに力のある出来事なのだと思った。それに伴った中身の変化はほぼないのは、ちょっと寂しいけれど。

 時間が経つのが早いなあと思っているうちに、瞬く間に五月の連休になった。


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