グアテマラの雨

高田 朔実

第1話

 最近やけに日が暮れるのが早い気がしてカレンダーを見ると、来週はもう秋分の日らしい。

 今日は普段よりも空が薄暗く、ふと窓を見ると、随分と分厚い雲が見えたので、思わず非常口へと向かってしまった。

 外の階段で雲を見ながら、実際に厚さを測ってみたら、いったいどれくらいあるのだろうなどと思う。何十メートルなのか、何百メートルなのか、あるいはもっとあるのか。太陽の光をこれでもかというほど遮る雲であることは確かだ。

 遠くにあると思っていた雲は、私がぼーっとしている間にぐんぐん近づいてくる。出張の予定がなくてよかった、と思う。

 事務室に戻ると、雨が降ってきた。会話もできないほどのざーっという音を立てて降った雨は、五分と経たないうちにけろっとおさまってしまう。こんなもんかと油断していると、また降り出す。そんな天気に翻弄されているうちに、今何時なのかよくわからないまま、勤務時間が終了した。帰宅する時間に辺りが暗いと、随分働いた気持ちになるのは、私が怠け者だからだろうか。

 勤め人としての暮らしを始めてからおよそ半年が過ぎた。金曜日の夜は、外食してから帰宅するのが習慣になりつつある。いつも立ち寄る職場の最寄駅の駅ビルが臨時休業だったので、電車に乗って、自宅の最寄駅にある駅ビルに向かう。より身近な場所であるはずだけど、仕事が終わったときは、とにかく早くなにか食べたいので、こちらの駅ビルはあまり利用していなかった。

 改めてぶらついてみると、どんな店があるのかほとんど知らない。とりあえずレストランが集まる階まで上がる。エスカレーターの斜め前にあるお店が目に入る。前に入った覚えがあったので、そこに決めた。知らない店へ行ってがっかりするよりも、ここなら安心だと思えるお店に入る方がいい。

 窓際の二人掛けの席に座ると、メニューを渡された。食事だけにしようかビールもつけようか、迷うところだ。

 窓に顔を近づけると、雨はさっきよりも強くなっている。あーあと思っていると、突然、ざーっという音量が倍増する。私の持っている折り畳み傘では太刀打ちしたくもない、激しい降りになりつつある。

 雨が強くなればなるほど、建物に守られている安心感が増してくる。普段も、寒さや虫や、その他の様々なものから守られているのだろうけれど、それが普通になってしまっている。雨の音は、室内にいるありがたさを、いつも思い出させてくれる。

 強かったのはほんの一瞬だったようで、数分のうちに音は弱まった。店内を見渡し、店員さんの姿を探した。

「ご注文はお決まりでしょうか」

「オムライス一つお願いします」

 口に出した瞬間、はっとした。「かしこまりました」という声が、壁の向こうから聞こえるようだった。

 そう、前回ここに来たのは半年ほど前、引っ越しをした日のことだった。

 早いのか遅いのかわからないけど、あれから、とりあえず五枚ほどカレンダーをめくったらしい。それぞれの月にどんな景色が書かれていたのかは全然覚えていないが、あのとき私は、大学を卒業したばかりだった。

 就職して定期収入が見込めるようになり、それまで住んでいた学校に近い下宿から、駅に近いアパートに引っ越した。大した距離ではなかったので、引っ越し屋さんは頼まなかった。遅い時期だったので、親しくしていた人たちは、実家へ帰ったり卒業旅行へ行ったりと、なかなかつかまらない。どうしようかと途方に暮れながら大学へ行くと、みんなが休憩に使っている部屋で漫画を読む橘君がつかまった。

 あまり話したことはない人だったけど、切羽詰まった様子が伝わったようで、彼は小声で「ああ、明日? うん、大丈夫」と言ってくれた。

 冷蔵庫や洗濯機などの大物は残していく予定だったので、移動するのは細々したものがほとんどだったけど、レンタカーの運転や本棚の運搬など、一人ではめげそうだったことを一緒にやってもらえて、とても助かった。ささやかなお礼として、ここでごちそうしたのだった。

 引っ越しが終わって疲れていたのに、なぜ近場ではなくわざわざビルまで来て、六階まで上がったのか。同じフロアにあるカレー屋さんが目当てだったのだ。残念ながらカレー屋さんは臨時休業だったので、代わりに入ったのがこの店だった。

 おしぼりで手をふきながら「カレーが好きだったの?」と聞くと、橘くんは小声で「うーん」と言った。

「しばらくカレーが食べられなくなるから、食べ納めにと思って。まあ、また来てみるよ」

「体調でも、悪いの?」

 手術でも受けるのだろうかと、おそるおそる尋ねる。

「ううん、しばらく外国へ行くんだ」

「カレーがない国へ行くの?」

「あるかもしれないけど、ああいうカレーがあるかどうかわかんないからさ」

 そのことに触れていいものかどうか迷ってしまう。

 外国に興味があったり縁があったりする人には見えなかったし、どこへなにしに行こうとしているのか、まるで見当がつかない。

「どこへ」も疑問だけど、「なにしに」も気になる。もし海外に就職するのだったら、仲間内でもう少し噂になっていても良さそうなものだった。あるいは、留学でもするのだろうか。そもそも彼は、外国の言葉を話せるのだろうか。

 外国の言葉といえば、私には英語しか思い浮かばないけど、もしかすると、もう少し身近なところで韓国語や中国語を習得しているのかもしれない。そっちに親戚がいるのかもしれない……、そんなことを一人考えていても、埒があかない。

「なにしに行くの?」

「まあ、旅行かな」

「どこへ行くの?」

「カナダ」

 カナダってどこだっけ、と一瞬考える。一応、英語が通じる国だったはずだ。

「なにしに行くの?」

 動揺して、もう一度同じことを訊いてしまう。

「だから、旅行だって」

 彼はちょっと苛立った。

「旅行した後は……」

「そんな、質問攻めにされたって困るんだけど」

 攻める、というほどのことはしていないはずだった。攻められているように感じるのは、自分がなにかしら後ろめたい気持ちを抱えているからではないか、などと思いたくもなってしまう。それに、突然こんな話を聞いて、なんの疑問も持たない人のほうが珍しいのではないか。

「ワーキングホリデーっていう制度があって、一応向こうで就労していいことになってるんだ。だから、ツアーガイドとか、そういうのができたらいいなと思ってるんだけど」

「英語、話せるの?」

「一通りは」

 日ごろの様子から察すると、かなり話せるととれそうだ。

 私が黙ったままでいるのを、疑わしいと思われているようにとったのか、

「英会話教室に行ってたから」

 などと、言い訳じみたことを言う。

「いつの間に?」

 生活のすべてを把握しているわけではないけど、真面目そうで――言い方は悪いが、あまり趣味などあるようにも見えなかった。熱心に課外活動をするタイプだとは思えなかったので、また驚いてしまった。

「スカイプで習ってたんだ。家で。時間のあるときに」

 英文を直訳したかのようなたどたどしい返事がある。

「英語、好きだったの?」

「まあね、日本語の方が得意だけど」


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