第12話 昼食後は眠くなる

 食後も勉強をする。

 朝比奈さんに借りた数学のノートを写し終えたので、彼女に返す。


「今度は英語をお貸ししましょうか?」

「お願いします」

「お兄ちゃん、ちょっとは遠慮しようよ~⁉」


 妹に言われてしまったが。


「プライドと、時短。僕は間違いなく、時短を取る」


 ただでさえ、家族のケアをしながら、学校にも通っている。

 好きでやっていても、時間が足りないのは事実だ。

 頼れるものは利用するまで。


「開き直ったし~⁉」

「開き直ってはない。朝比奈さんには猛烈に感謝している」


 妹に言われたからでなく、心の底から礼を述べた。


 妹は事故の後、数ヶ月も入院していた。その間、医者や看護師、リハビリ担当者や、ソーシャルワーカーなど、様々な人に助けられた。


 日本の場合は公的な医療制度が整っているから当たり前といえば、当たり前なんだけど。


 大切な妹のために一生懸命に働いてくれているわけで。

 傲岸不遜な態度で、『制度を使ってやるんだ』みたいな態度は好きでない。


 朝比奈さんのノートも同じ。感謝したうえで、力を借りたい。


「茜さんのお役に立てれば、ノートもうれしいと思いますわ」

「そういうことだから」


 というわけで、朝比奈ノート英語版のお世話になる。英語も完璧にわかりやすかった。

 ひとりで勉強しているよりも、はるかに進む。


 だが、ひとつ大きな問題があった。


 どうして、昼食後は眠くなるのだろうか?

 勉強を始めて、30分もすぎた頃には睡魔との我慢比べになっていた。


 気分を変えようと、周りを見る。


 おばあさんはソファに寝っ転がり、芽留はテーブルに突っ伏していた。ふたりとも昼寝の世界に旅立った。


(なら、僕が眠ってもバレないよね?)


 と思ったが、鉛筆の音がカリカリ。ガリガリ。

 朝比奈さんだけは集中力が途切れない。

 朝比奈さんは慣れない介護をしながら、勉強も頑張れている。


(僕も見習わないとな)


 肩を回して、気を引き締めていたら、朝比奈さんと目が合った。


 僕を真似たのか、朝比奈さんも肩を回す。

 胸に大きな物をぶら下げて、問題集をやっているんだ。肩が凝るのもわかる。


「わたくし、芽留さんには感謝しておりますのよ」

「へっ?」

「芽留さん、おばあさまにも積極的に話しかけてくださいますし、わたくしよりも甘えるのがお上手ですの。おばあさまもかわいがってますのよ」

「まあ、芽留は天然の妹だから」


 朝比奈さんはクスリと微笑む。


「もう少しがんばりましょうか?」

「おかげで、少しは眠気がマシになったよ」

「眠いのでしたら、無理なさらないでくださいまし」

「ううん、授業中に寝ている分、直前だけでも勉強しなきゃ」

「学校で寝ていらっしゃるのは、家のことでお疲れ――」

「言い訳なのはわかってるんだけど、教師の声を聞いてると眠くなっちゃうんだよな」

「言い訳ではありませんわ」


 朝比奈さんはやや強めの声で言う。


「お年寄りが増えていて、経済的にも余裕がなくなっている現代日本。わたくしたちのようなヤングケアラーは社会的問題になりつつあります」

「そうだな」

「仮に、先生が茜さんを注意するなら、わたくしは断固として抗議しますわ」


 穏やかな朝比奈さんが僕のために怒っている。

 うれしいような、申し訳ないような。


「ありがとう」

「でも、どうにもならないから、なんとかやっていかなきゃなんだよなぁ」

「そうですわね」


 朝比奈さんはうんうんと大きくうなずく。胸もつられて動くから、怖い。


「勉強を続けましょうか」


 ふたたび、黙々と勉強を続ける。

 規則正しい鉛筆の音が眠気を誘ってきて――。


 気づけば、寝落ちしていた。


 机に突っ伏していて、手に額を押しつけているはずなのに。

 額には何も感じず。


 逆に、後頭部がぷにぷにした温もりに包まれていた。


 ものすごく落ち着けて。

 僕は兄という役目から解放されていた。


(こんなに至福な世界があるんだ?)


 なんだろうかと思って、目を開けてみる。


 視線の先、わずか10数センチの場所にあったのは、巨大な双山と白銀の糸。

 山を覆っているのは、朝比奈さんが着ていたブラウスだ。

 後頭部の感触から察して。


「あ、朝比奈さんっ⁉」

「あら。茜さん、目をおさましになられたのですね?」


 頭上から声がした。

 僕は抱き枕をされていた。


(妹にもされたことないのに⁉)


 むしろ、妹を抱き枕するのは週に10回はある。

 女子に抱き枕されるのって、こんなに気持ち良かったんだ。

 しかも、朝比奈さんクラスの巨乳になると、顔が見えないのも理解できた。


(そりゃ、足元もわかんないよなぁ)


 バランスも取りにくそうだし、彼女がよく転ぶ理由も納得した。


「ごめん、朝比奈さん」


 超極楽空間とはいえ、恥ずかしい。


「先ほども申しましたが、茜さんはお疲れなのです。わたくしの膝で良ければ、お貸ししますわ」


 ノートを貸すのと同じテンションだった。


「で、でも、迷惑じゃない?」

「いいえ、逆ですの。茜さんにご奉仕できて、うれしいのですわよ」


 うれしいとまで言われて、断るのも気が引ける。

 それに、強引に起き上がったら、間違いなく顔が胸に当たる。頭を横にスライドしてから動いたところで、腕が接触しそう。


「なら、甘えさせてもらおうかな」


 朝比奈さんが手で僕の髪を撫でてくる。


 妹の手に触るのは慣れていても、他の女子とは初めて。

 穏やかな触り心地に、日頃の疲労が癒やされていく。むしろ、朝よりも元気になったかもしれない。


 日常を忘れて、楽しんでいたら。


「あら、佳子よしこ。ボーイフレンドを連れて来ているのね」


 おばあさんの声がした。

 その瞬間、朝比奈さんの手が止まった。


 髪を通して、彼女の手が震えているのがわかった。


 顔が見えなくて、お嬢様の表情はわからない。

 けれど、繊細な指からひどく寂しげな様子が伝わってくる。


「あ、朝比奈さん?」

「えっ、あっ、ああ……なんでもありませんわ」


 なんでもないようには見えない。


 僕は事故が起きないよう注意して、朝比奈さんから体を離す。

 彼女の隣の席に座る。


 おばあさんは再び昼寝をしていて。

 朝比奈さんの琥珀色の瞳は潤んでいた。


「母ですの」

「えっ?」

「佳子は亡くなった母の名前ですの」

「そ、そうなんだ」

「おばあさま、ときどき、わたくしの名前がわからなくなります」


 普段の気丈な彼女の姿はなく。


「朝比奈さん、ちょっとごめん」


 僕は朝比奈さんの顔を自分の方に引き寄せると。


「僕も膝枕は得意なんだ。いつも、妹にしてやってるし」


 今度は僕が朝比奈さんを膝枕する。

 もちろん、髪を撫でるのも忘れない。彼女の銀髪はなめらかで、レモンのようにスッキリした香りがした。


「わたくしも休ませていただきますわ」


 朝比奈さんが寝つくまで、僕は彼女の頭をさすり続けた。

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