花が咲くまで初見月。――2月号
年が明けたと思ったら、正月なんてほぼなかった。明けましておめでとう、と言ったきり、ひたすら研究室に引きこもる日々。寝に帰り、食事や風呂もおざなりにして洗濯された服で何とか人間の形をとっている状態。尊厳は保てたかもしれないが、精神は死んでいた、確実に。
卒論を終え、発表も終え、新しい年度を迎える今の方が正月に相応しい気持ちかもしれない。
部の送別会がお開きとなり、夜道を自転車を押しながら歩く。会場がバイト先の居酒屋ということもあっていつもより居心地がよかったようだ。飲みすぎた気がする。薄く割ってるのにな、と酒の弱さに呆れるが悪い気分じゃなかった。
痛みを感じるほどの冷たさが今は心地がいい。ほてった体を冷やし、白い息は雑事を忘れさせてくれる。
吐息の行き先を追いかけ、まばらな星空を見上げた。
明日は晴れだったはずだ。早起きできたら、弓を引きにいこう。きんと冷えた中で引く気持ちを味わいたい。
サドルを握りなおして、歩調を速める。
OBとして道場に立てるのは、あと何回か。この四年間は早朝に、講義の前や後に、大会前はライトを照らして的場に立つことができた。地元に帰ったら、大学横にある弓道場とは訳が違う。
社会人が出入りできる弓道場は数が少ない。車で通える範囲となれば、一つしかない。
弓
自転車の音と共にオツカレと後ろから声をかけられ、顔を向ける。
器用に自転車を操作する
おつかれ、と返せば、卒業とかいまいちピンと来ないよなと軽やかに続けられる。
「
自転車から降りた谷隅が横に並ぶと同時に訊いてきた。
軽く頷いて、谷隅はと訊ねる。
「県内のどっかの小学校」
「決まってないのか?」
「通知が遅いんだよ」
「大変だな」
「だろ?」
ピーヒョン、と通知音が鳴った。手持ち無沙汰に谷隅が携帯を眺めて取り落としそうになる。自転車同士がぶつかるが、彼の目は画面に釘付けだ。
「……大丈夫か」
俺の心配は無視された。いらぬ世話……ではなかったらしい。勢いよく迫まられ息がつまった。あまりの近さに曲げていた腕をのばしてのけぞる。
「柴田」
ついには自転車は倒れて、俺が二台分を請け負った。
真剣な声に無言で何だと返す。
「これって、デートのお誘いってやつか?」
言葉と共に携帯画面を谷隅がつきだす。
『自然科学博物館に行きませんか』
カワウソのアイコンからの吹き出しにはそう書かれていた。
デートの定義はわからないが、とりあえず確認してみる。
「付き合ってるのか」
「いや」
「好きなのか」
答えの代わりに、がばっと音がしそうなほど谷隅は過剰に身を引いた。奇想天外なものに出くわしたような妙な顔をしている。もともと百面相だと思っていたが、まだまだバリエーションがあるらしい。
こんな中学生のような反応をしていたかと疑問を抱きつつ質問を重ねる。
「彼女いなかったか」
「いた、けど、二年の時に別れた」
息継ぎをまじえながら答える谷隅が不憫に見えた。
「お前に生あたたかい目で見られるとかないわー」
「そう見えてるだけじゃないか」
「なんだよ、今日はめちゃくちゃ話すじゃん」
わりぃと言いながら、自転車の重みが元に戻った。
一瞬、否定しそうになって、彼相手にこんなに話すのは初めてかもしれないと思い出す。どおりで卒論発表の声が小さいと言われ、喉が傷むはずだ。
「悪い。思ったより酔ってる」
「しゃべり上戸、上等じゃん」
そうやって、あっさりと笑い飛ばすから谷隅は友達が多いのだろう。
やはり酔いが回っているらしい。むずがゆい気持ちとゆるむ口を深く考えないようにして会話を続ける。
「……どーするだ、その誘い」
「デートと思わずに乗るかな」
すでにそう思っているだろうとはツッコまないでおいた。哀愁に満ちた横顔に言うほど空気が読めないわけではない。
「なんか、また花見したいよなー!」
谷隅が唐突に叫んだ。いくら周りには学生用のアパートと田んぼしかないからって元気がよすぎる。
なんなんだろうな、学生特有のパワフルなテンション。よく見てきたけど、真似はできそうにない。まだ早いだろ、とツッコんでも、谷隅はめげない。
「言ったな。誘うから、ぜってー来いよ」
春が来て、ここを離れても繋がったままだろうという勘はきっと当たるはずだ。
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