釣瓶落としの後始末――11月号

 日が暮れるのも早くなったと考えてしまった。時が過ぎるのは早すぎる。年寄りくさい自分を嗤うように、やっかいごとが階下から舞い込んできた。


「ああぁぁあぁぁッ」


 ほとんど同時に聞こえたド派手に割れる音。生徒達が教室を出て行ったのはついさっきのことだ。

 つまり、そういうことだろう。

 あらゆる自体を思い浮かべつつ、階段を駆け下りる。運動不足がたたってすぐに息が上がるが、誰もからかう奴なんていなかった。

 目に飛び込んできたのは、ガラス扉に蜘蛛の巣を張り巡らしたようなひび。幸いなことに飛散防止加工をされているため、周辺にガラスの欠片は飛び散っていない。

 自転車のサドルがめり込んでいるから、十中八九そういうことだろう。


「せんせぇ」

「怪我は」

「ないぃ」

「泣いてんじゃねぇよ。世話焼かすな」

「ごめんなさいぃ」


 正直、頭をぶん殴りたい衝動にかられるが、世の中は体罰にうるさい時代だ。

 講師の心労には労災なんてものは発生しない、やってられるか。ため息を腹の奥に押し込んで、状況を整理する。


「自転車はみなみのであってんのか」

「……私のです」


 南に説教しようとしていた矢先に藤木ふじきが出てきた。余計にややこしくなったじゃねぇか。

 しどろもどろになってる南より、藤木に説明させた方がいいだろう。考えるまでもなく結論づけて、目で説明しろと示した。

 空気の読める藤木は、言葉を選びながら話し始める。


「帰ろうとした時に、忘れ物に気が付いて、みんなの邪魔にならないように入り口にとめたのが悪いんです……」

「んで、ふざけた南がぶつかって、ドアが割れたと」


 所在なさげな二人が頷く。南は今さら、尻がいたいと泣きべそをかいている。

 幸いなことに怪我はないし、教室の鍵をかけてガラス扉を開けて置けば通行には問題ない。面倒なことは夜半なので修理業者に来てもらえないことと、修理代とかのもろもろの始末。

 うちの塾が貸しビルの一室を借りているだけで、保障に入っているかも塾長と貸主に確認する必要があるだろう。いくらかかるのか、誰がどのように負担するのか。

 授業しごと終わりにこれか。疲れるわ。


「せんせぇ、これ、弁償かなぁ……」


 弱弱しい声にすぐには返事はできなかった。ぬか喜びさせるわけにもいかないので不確かなことはいうべきではないだろう。周りにいる生徒も心配そうに見てくる。残念ながら、俺が判断することじゃねぇんだわ。

 我慢しすぎて吐き出しそうだ。誰かに押し付けて帰りたいが、子供に投げるわけにもいかない。

 とりあえず、塾長に報告するかと思った矢先、ふわふわの髪がいきなり現れて、目を瞠った。


「横から失礼します。ビルのもですけど、彼らの保険、確認しました?」


 覚えのある声と姿に警戒するよりも前に言葉が滑り出る。


「物損は対象外だろ」

「保険も進化してるんですよ」


 まるで俺が化石みたいな言い方に、少々面白くない気持ちになるが、まぁ仕方あるまい。興味がなかったのだから。

 今時は・・・病気や怪我の保証だけでは収まらないらしい。

 中学生と変わらないような小柄な女を見下ろす。なぜか見覚えのある横顔に記憶をたどるがなかなか出てこない。頻度としてはそう多くないが、何度か会っているのだろう。そうでなければ、人を観察対象として認識する俺の記憶にひっかかるわけがない。ゾウをいちいち個々で覚えないのと同じことだ。思い出せないのは、名前も知らない希薄な関係だからだろう。


「どちら様」


 目の前の女は見下ろす俺にひるむどころかにっこりと笑う。


石崎いしざきといいます。身元を証明するの、運転免許しかないんですよね……バイト先、ここなんで店長に保障してもらう形でも大丈夫ですか」


 やわらかそうな見た目とゆっくりとした口調に反して、話している内容はまともだ。

 俺は彼女の指すバイト先を眺めた。駅前ならどこでも見るような居酒屋チェーンだ。平日の夜のせいか、暇を持て余しているらしい。制服をきちんと着こなしてはいるが、ふわふわの髪は束ねられもせず、自由気ままに広がっている。彼女の指さす方では店長らしき男も心配そうに顔をのぞかせていた。


「ほぉーん」

「子供達は見ておくので、電話してきてもいいですよ」

「――塾長に連絡してくる」

「はい、いってらっしゃい」


 ただ電話するだけで見送るなんて、なかなか乙と言ってやるべきなんだろうか。俺は全く前向きにならなかった気持ちを引きずって教室に戻る。ホワイトボードや教材の片付けをしつつ、塾長に報告する。貸主に連絡して保険の確認をしてから折り返しをしてくれることになった。待つ時間を利用して教室の鍵を閉める。

 件のガラス扉はビニールとガムテープで簡単に補修されていた。

 さすがに驚いてガムテープをはがす音の根源を覗き込む。


「修理、今日中には来ませんよね。危ないから勝手にしましたよ」


 石崎は事も無げに言った。見返りも同情もない現実的な言葉に肩が軽くなったような気がする。


「助かった」

「どういたしまして」


 砂糖菓子みたいに笑った顔は、すぐさま作業に戻る。ふわふわな髪が邪魔になったのか、横の低い位置で束ねられ、俺の記憶は甦った。


「お前、銭湯の――」

「石崎さーん! 戻ってきてー!」

「はぁい! じゃあ、後はよろしくお願いしますね。ガムテープはレジに返してもらえたら!」


 呆気なく石崎はバイト先に戻って、タイミングを見計らったように着信が鳴った。

 今回は塾が修理代を払うことで落ち着き、生徒達には厳重な注意と家庭への連絡をすることで収着した。

 泣きべそと青ざめた顔が申し訳なさげながらも色を取り戻す。周りの生徒と一緒に二人をてっとり早く帰らせ、補修作業を再開した。

 粘着をはがし、冷たいドアとビニールを繋げるように張り付ける。ビニールにもガムテープにも皺が寄ったが、慣れないなりにきちんとできただろう。そう思うことにした。

 世話になった居酒屋にガムテープを持っていけば、店長が災難でしたねと労ってくれる。少し石崎のことが気になったが、騒がしい店内の様子に訊く雰囲気ではなかった。

 縁があったら、また会えるだろう。手繰り寄せるつもりもないので、一切悩まずに車のエンジンをかける。三十分後の授業のため、普段使わない裏道を急いだ。街灯が少ないので運転しにくいが、背に腹は代えられない。

 日が落ちるのが早すぎるんだ。

 何とか間に合い、授業を終え、二つ分の申し送り、塾長への報告。他にもやりたいことはあったが、明日もあるので投げ出した。予想外の出来事に対応した俺を攻める奴なんていないだろう。

 何があったかなんて思い出すこともなく眠りに落ちた。



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