黒き鏡の玉兎。――9月号
もし、黒き鏡で未来が見えるという迷信を試していたら、こんなにも見返りもなく無駄な時間を過ごすことはなかっただろう。彼との出会いは私が生まれて間もなくだったらしいから、二十年以上が報われないものだとは思いたくない。それでも、この気持ちが無謀だと気付かされるには十分な時間だった。
自分はどうしたいのだと考えることは毎日で、区切りをつけなくてはと折を見て思うことがある。誕生日なんていい例だ。365日ある中で、たった一日、自分のために使いたいと思うのは本能に近い。
やば、と聞こえた声に今度は何をやらかしたのだと振り返った。家事をするのに邪魔だと束ねた髪が広がり、首筋に冷たい空気が触れる。
私と目が合った顔は色を無くしていた。何だと目で促せば、見るからにしおれた表情のゆう兄は泣きごとを言う。
「明日、臨時研修があるんだった。朝早いぃ」
「気付いたのが今日でよかったじゃない」
「もう十二時まわるよーぅ。今日が終わっちゃうよーぅ」
「泣きごと言わないッ」
一喝しても、塩をかけられたなめくじよりもタフな幼馴染みはすずーぅ、と嘆く。私の名前を呼んで何が起きる。大きな図体を丸めて、キーボードを打ち込む手が止まらないのだから大したものだ。
昨晩、送られてきた『すずの好きなもの買いに行こ』という言葉につられてショッピングモールでお昼を食べるまでは問題なかった。ウィンドウショッピングで品定めをしようとした時に降ってきた、やば、という小さな声。
その小さな声は浮かれていた私を谷底につき落とす始まりにすぎなかった。
続いたのは、レポートの締め切り忘れてたと絶望に染まった声だ。
プレゼントを買うとしぶるゆう兄を言葉で叩きのめして車に押し込んでエンジンをつけると共に自分を奮い立たせた。名残惜しそうにする彼に説教をしたい気持ちを抑えて、気力を運転に回す。景色が過ぎていく助手席で、誕生日の人に運転させている、と変な方向にいじけられた時の心情といったら、虚しいことこの上ない。
こんなにも甲斐甲斐しく世話する酔狂な女、絶対いないと思う。ハンドルを爪先で叩いてしまったのはご愛嬌だ。私だって可愛くないと自負している。
アパートに帰りついて、カビが生えそうなゆう兄にパソコンを開かせたら、予想通りファイル自体作られていなかった。手のかかる幼馴染とは学科は同じだが、ゼミまでは同じではない。レポートの規定が載ったメールを調べさせ、主題とレポート枚数を確認させる。彼の能力を逆算して四時間と見込む。時計を確認すれば、十八時。
「残り六時間か」
息と共に漏れ出た言葉に、うーと呻き声のような返事を返された。
丸まった背に同情して笑ってしまう。飲み物を入れてやろうと、勝手知ったる台所に立った。
何とかなるだろうと思ったら、私の考えは甘かったらしい。
誕生日たんじょうびと念仏のように呟く男のやる気を引き出す方法なんて誰が知っているのだろうか。ご飯を作り、風呂に入れて気分転換をさせても文字が増えることはない。
文芸部員で締切に追われた時は、怒涛の勢いを見せるのに、それはどこにやった。
無言で急かし、食器を洗い、洗濯物を干し終えた私は待ちくたびれて、机に片頬をくっつける。視界に転がり落ちたシュシュも気だるげだ。
無為に過ごす時間を持て余して、視線を漂わす。彼の顔はノートパソコンが隠していた。ラテを入れたマグカップは二つ、食事を終えた時に拭き終えた机は濡れていて、気の抜けた顔をよく映す。カーテンの隙間から見えたのは薄目を開けたような月だ。
だらけようが、綺麗にしようが、月の兎に呆れられようが、彼はそれ所ではない。
液晶画面を睨む顔に文句をつけるように言ってやる。
「締め切り越えて出しても大丈夫なんじゃない? 明日の朝までに出せば」
「んーん。メールで送信するから、時間バレる」
「ハイテクね」
「すずの方はアナログだよね」
私の担当教授はレポート提出先は研究室の扉についているポストだ。パソコンで作ったレポートを印刷して、研究室まで歩く手間がある。何か用事があればいいが、今のように長期休暇中ともなれば、非常に面倒だ。日頃の鬱憤と今のふつふつとした気持ちをがんじがらめにして口にする。
「効率が悪いと思う」
「でも、数時間ごまかせるじゃん」
「教授が朝早く来たらアウトだから。手、止まってる」
指摘に慌ててキーボードを叩き始めたゆう兄が、あっと手を止めた。
目で訊ねれば、気の抜けるような笑顔が返される。
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
「言ってなかったなぁと思いまして。すまんね」
「そんなことより、やることあるでしょう」
はーいと能天気な返事をして、ゆう兄はマウスのカーソルを動かす。そして、動きが止まった。
今度は何だと眺めていたら、ぎこちない動きで大の男が様子をうかがってくる。何をしでかしても驚かないと表情で返したつもりだ。
もう一度、画面を確認したゆう兄は罰の悪そうな顔で首を傾げた。
「なに」
「締切日、勘違いしてた」
「は、いつなの」
「十月の二十二日」
「……そう、十月」
「……うん、十月」
十月は来月のことだ。
ゆう兄も馬鹿ではない。だから気まずい顔をしている。
そう、うん、と互いにもう一度繰り返して、ゆう兄があははと覇気のない声でごまかした。
机の頬をくっつけたまま、腕に顔を隠す。さすがの私だっていじける時があるのだ。可愛くないことを言ってやると決めて、心のままに口にする。
「今日、私の誕生日だよね」
「何なりと」
「誕生日返して」
「面目ない」
項垂れる気配を感じとって、何だか私がいじめているような、訳のわからない気持ちが沸き立ってきた。明日も早いだろうと頬を持ち上げようとした時、先に口を開いたのはゆう兄だ。
「明日、やりなおす?」
明日の臨時研修も来月なのかとツッコむ元気は私には残っていない。腕におでこをこすりつけて呻く。
「明後日なら空いてる」
「じゃ、今度はすずが行きたいところに行こ」
「……梟カフェ」
「お、いいね」
月から見下ろす兎もさぞ呆れていることだろう。私の萎えることない恋心に。
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