逆光の樹影、ガラスのリノウ ――7月号

 鰻を焼くのは、昨年で最後だと思っていたが、運の悪いことに今年は丑の日は土曜日にぶつかった。土用が土曜日にぶつかったなと父さんに言われて肩を叩かれたのは先月末の話だ。勤めている会社はカレンダー通りの土日休み。

 つまり、スーパーの息子は鰻を焼く役を押し付けられた。

 実家がスーパー経営をしているのも考えものだ。父さんは機嫌がよさそうに、お前が焼いた方が売上が上がると笑いながら万札をちらつかされた。学生の頃はその半値ぐらいで働かされていたのに、惨い仕打ちだ。金欠気味の私にはひどく魅惑的に映る。

 それでも無言で抵抗したが、辛抱のない私も早々に諦めた。

 こういった時の父さんはごり押しなのに、正論ぶったことを言って引かないのだ。姉さんと同じでどうしても逆らえない。母さんは抵抗は無駄だとばかりに、はなから話に加わらなかった。

 結局、父さんの有無を言わせない圧と報酬につられて、営業回りで焼けた肌をさらに焼く羽目になった。去年と今年で違うことと言ったら、予約してくれた同僚や先輩が買いに来ることだ。


「お疲れ。あっつい中、働いてんだな」

「お疲れ様です。これでも去年よりマシですよ」


 今年はファン付のベストを着こんでいるから、幾分かは改善されていた。暑いことに変わりはないが、去年のようにシャツもタオルも絞れるほどに汗ではない。

 工事現場で使ってるやつじゃんと指差され頷く。よほど面白かったのか、笑いながら先輩は周りを見渡した。


「やっぱ学生の町だよな。客が若いのばっかり」

「おかげで生き残ってますからね、うちの店」


 季節行事に疎い彼らがバイトの時給より高い鰻重や蒲焼きを買うことなんてほとんどない、ということは言わないでおいた。

 一年中、ハレの日ばかりではないのだ。普段買いの方が割合が大きい。学生によってスーパーオノヤマは生き残っている。

 先輩に一番大きい鰻を渡して、見送った。サバ缶(オリーブ煮)を誤発注してしまった時は、自分で処理してみろと投げ出されたが悪い先輩ではない。その都度、さばき具合を確認し、鰻を予約してくれと頼んだらすぐに用紙のマスを埋めてくれる。口は軽薄さを装うが、世話好きなのだろう。

 見習えるところは見習いたいと考えながら水分を取ろうと体をかえした。視界に掠めたものを確かめるために顔を上げる。

 見間違えるはずのない、つややかな髪を持つ真城ましろさんだ。学生なのに、予約料理をたびたび買ってくれる。一昨年も去年も鰻の予約をしてくれた学生の中でも珍しいタイプの常連だ。予約限定のスイーツばかり頼んでいるから、甘いものが好きなのかもしれない。


「こ、今年も焼かれてるんですね……!」


 何の感情がゆれているのか、真城さんの声が絞り出すように言われた。いつもたどたどしく話す印象だから、気にする必要はないだろう。昼間に来るのも珍しい。

 私がたまにかり出させる夜間レジでもよく見かけるので心配になって声をかけたことがある。実験があるのでと彼女は言葉を濁していた。おっちょこちょいで落ち着きのない姿を見せるが、獣医学部に所属する将来有望な学生だ。

 会社勤めに加えて、家の手伝いまでする私とは雲泥の差だ。つい愚痴っぽい口調になってしまう。


「去年で卒業かと思っていたら、休みだからと駆り出された」

「オツカレサマです」


 片言の言葉を聞きながらため息をこぼせば、なぜか真顔をされた。時々、彼女の反応は私の把握できない範囲に飛んでいく。

 無駄に喉の調子を調えた真城さんは焼かれる鰻に視線を落とす。


「おいしそうですね。……買おっかな」


 今年で、この道三回目の若輩者が焼く鰻に価値があるとは思えないが彼女の購買意欲が刺激されたのならいいと思おう。


「気を使わせたようなら無理にとは」

「いえ! 好きなんで! 大丈夫です!」


 鞄の持ち手を強く握って、声を上げる真城さんは本気で言っているようだ。


「鰻も好きなんだな」

「え、あ、えっ。そそそそそうです。鰻が! 好きなんです!!」

「いつもスイーツばかりを予約してるから、甘いものが好きなのだと思っていた」

「甘い、もの、も、もちろん――」


 すきです、と小さな声で付け加えた。

 将来有望で、感情豊かな彼女が眩しく思えるのは、社会に出てしまったからなのか。

 呆然と見つめあっていた時間はほんのわずかで、意識を取り戻したのは彼女が先だった。息を飲んで慌てて鞄の中を探っている。財布を取り出す時に何かが引っ掛かって、中身をぶちまけた。

 相手が焦ると逆に冷静になるものだ。鰻をパックに移して、遠くに飛んでいったルーズリーフを追った。駐車場の樹木の下に落ちた紙は強く光を放っていた。不思議に思い、見上げてみれば、逆光が迎えてくれる。

 川底で光る石を拾い上げるようして、不思議な文字を見つけた。


「ガラスの……リ、ノ……ウ?」


 大きな歪んだ字は書かれたというより、罫線にしがみついているようなだ。

 駆け寄ってきた本人も不思議そうな表情で固まっている。


「……なんですかね、それ」

「自分で書いたんじゃないのか?」


 私の切り返しにえぇと。ははは、とごまかし笑いを浮かべた後、真城さんは手で口元を隠しながら言いにくそうに続ける。


「確か、成熟卵のガラス化の講義中だったと思うので、その関係だとは思うんですけど……ちゃんと聞いてなかったから、わからないですね」


 はい、と締めくくった真城さんがちらちらとこちらを見てきた。叱られることを恐れているような瞳が伺う。


「私もよく聞いてなかった」


 ひどく安心したような声が出た気がする。

 一緒ですね、と照れながら笑う彼女を樹影が包んでいた。

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