恋よりも恋に近しい――6月号

 三年生になれば、ゼミも本格的になる、と言うと聞こえがいいが、共通科目を取り終えたから暇をもて余しているのが現実だ。

 確かに単位は取れたが卒業できるのかと不安に思うのはなぜだろう。講義が異様に減ったこともあるだろうし、手の付け所がわからない就職活動に頭を悩ませているのも事実だ。

 俺達の世話をしてくれる教授はフランス哲学をいろいろな文学を学ばせたい人らしく、純小説はもちろん新聞、はては条約文までも出して、同じ文字の世界なのに違う世界みたいでしょう、と語る。たまに西洋哲学の祖である古代ギリシャ語まで平気で出してくる強者だ。興味あったら読んでみたらいいよとにっこり笑う。

 大学教授ともなれば学問にここまでのめり込まないといけないのだろうか。俺が言うのもなんだが、こんな風に理解しがたい人間はいるものだ。嫌いじゃないけど。

 三年生になってよかったことと言えば、バイトが増やせたことだ。それなりに繁盛しているコンビニなので、暇すぎて辞めたいと思ったのは一度もない。家で効きの悪いクーラーをフル稼働させるより節電も節約もできて効率的だ。

 間抜けな開閉音と共に熱風が襲いくる。

 六月だというのに世間はもう梅雨が明けてしまったらしい。観測以来の一番早い梅雨明けとか。雨にはいい思い出がないが、この暑さだけはいただけない。

 熱風と共にやってきたのは、必ず第二か第四金曜日に来る小野山おのやまさまだ。爽やかなクールビズ姿で仕事中に来たらしい。その彼がしおらしく、何だか様子がおかしかった。

 新年度になり、仕事終わりに来るようになったのに、今日は真っ昼間に現れた。いよいよ暑さにやられたのだろうか。それは理解できるかもしれない。

 社会人になって、前髪の短くなり見通しのよくなった目が俺を見てくる。

 なぜ見上げる、勘弁してくれ。

 嫌な予感しかしない。


「なぁ、妹尾せおくん」

「何ですか、オノヤマさま」

「大量のサバ缶はどう食べたらいい」

「……何があったんですか」


 黙殺する選択もあったが、あまりにも情けない顔で見てくるので理由を聞いてやることにした。理由によっては対処しないこともない。


「間違って発注して、サバ缶が一万二千個も来た」

「安く売ればいいじゃないですか」


 小野山さんの実家はスーパーだ。今は実家から出て、地元の食品メーカーで働いているらしい。これは本人から聞いたわけではなく、渡瀬わたせさん情報だ。


「元々が高い商品だから、拒否される」


 ああ、誤発注したのか。それには同情する。俺も一度や二度、やらかして近くの店舗に助けてもらった。その時は店長が頼もしく見えたものだ。


「上司に相談しなかったんですか」

「相談したが……いい経験だ、と笑って流された」


 律儀に返事をする小野山さんはほとほと疲れた様子だ。上司は上司で考えがあるのだろうが、社会人一年目にそれはないんじゃないか。

 成人して、社会人に近づけば近づくほどなりたくないと思うのは、こういう話を聞いた時だ。どこでもかしこでも『責任』が付いて回る。

 遊んで暮らすつもりもないけど、プレッシャーなことに変わりない。


「サバ缶の水煮です? 味噌煮です?」

「オリーブ煮だ」


 また、変なの間違えましたねとは言わないでおいた。小野山さんが発言したオリーブ煮なんて、少数派中の少数派のだろう。


「茄子やズッキーニとトマト缶と一緒に煮るとか」

「それは考えた」


 母と姉と妹、それから父の世話を少しだけ焼いてきた俺は自炊ができる方だ。オリーブ煮にふさわしい提案はすげなく返された。

 薄切りした玉ねぎと酢をくわえてサラダでもいけるだろうが、それも面白くない。ワインで軽く煮込むのもハードルが高いだろうし、好みが別れる。

 水煮なら大根おろしとポン酢、味噌煮ならチーズ焼き、醤油なら卵とじもうまいのに、なぜオリーブ煮だ。

 オリーブに負けないものを考えて、できれば季節にあったものを考える。


「カレーはどうです?」


 俺の提案に小野山さんが固まった。まん丸な目を一つ瞬きして、口から言葉がこぼれる。


「サバ缶でカレーなんてできるのか?」

「煮込まなくても、出汁が出ているのでおいしいですよ」


 結論が出る前に、間抜けな開閉音が響く。レジに立つ俺を一瞥した客はすぐに舌打ちをして出ていった。

 俺も舌打ちをしたかったが、目の前に小野山さんもいるので控える。

 小野山さんは物珍しそうに客の背を見送り、出ていったことを確認してから口を開く。


「なんだ、彼は」

「ああ。なんか、俺の笑顔が胡散臭くて嫌いらしいですよ」


 そう言って、はは、とごまかす。嫌いなら、この店に来るなよと思うのは俺のわがままだろうか。

 何を思ったか、小野山さんがじっと俺を見つめてくる。

 嫌な予感しかしない。


「私は好きだぞ、妹尾くんのこと」


 またどうして、この人は率直で向こう見ずなことを言うのだろう。空気を読まないのは慣れたが、この爆弾発言を落とすところはどうにかしてほしいと思ってしまう。

 まともに対応するのも億劫で、ははと流す。小野山さんの上司より質が悪いかもしれない。


 アイスコーヒーを買った小野山さんを見送り、思いっきり息を吐き出した。あの人といると本当に疲れる。嫌いじゃないのが、不思議なぐらいだ。

 地獄のような暑さに外を出るのも億劫なのか客は一人もいない。

 レジ回りの備品を片付けながら、頭に引っかかった『好き』について考える。

 かの哲学者、プラトンは『恋されて恋するのは恋愛ではなく友愛である』という名言を残している。好きになってくれたから好きになるのは、恋とは言わない。という深いふかぁい意味があるらしい。

 じゃあ、互いに好きだったら『恋』は成立するのだろうか。

 こんなことを考えるのは教授のおかげか、夏の暑さのせいか。それとも、小野山さんのせいか。


 何が理由でも。

 小野山さんが恋の相手になるのはごめんこうむりたい。

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