ダンス

 翌日になってもわたしの微熱は下がらなかった。マヤ先生は「連日の疲れが出たのよ」と言っていたが、わたしは少し不本意だった。これまでも毎日ジムでトレーニングはしていたし、体力には自信があったからだ。

「気が張ってると自分では案外自分の疲れに気がつかないものよ。特に今回、マリアちゃんは初めてのことだらけだったから。また元気になったら探検の続きをしましょう?だから治るまではゆっくり休むこと。いいわね?」

 わたしはイマイチ納得がいかなかったが、熱があるものはしょうがない。頭もぼーっとするし立ち上がるとフラフラしてツラい。外の世界に焦がれる気持ちを抑え、言われたとおりにおとなしくしていることにした。

 室内で過ごすことが決まると、マヤ先生はせっかくだからやりたくなくて放置していた仕事の書類を片付けると言って書斎にこもってしまった。溜まっていた仕事から今まで目をそらしていたらしい。レイ様も学校の課題をやるそうでダイニングテーブルに書類を広げている。

 わたしはというとベッドから起きて、レイ様のいるダイニングテーブルのある部屋の暖炉の前で毛布にくるまり、揺り椅子におさまっていた。どうにもベッドでは寝ていられなかったのだ。

 室内は静かで、時折聞こえるのは暖炉の薪が崩れる音と、レイ様のペンの音だけ。昨日の騒ぎが嘘みたいだ。

 わたしはレイ様の勉強の邪魔にならないように窓の外を見ていた。

 外は雪が降っている。

 まっ白い雪。

 以前は雪がどんなものか本当には知らなかったのだ。今は知っている。どれだけ冷たいか、どれだけ静かなのか、どれだけ美しいのか、そして恐ろしいのかを。

 何度、この揺り椅子にもたれて窓からの景色を眺めただろう。同じ窓からの景色を見ているはずなのに、とても同じものを見ているとは思えない。

 今のわたしは、あの湖の向こうに何があるか知っている。あの森の中に何があるか知っている。知識ではなく体験で知っている。

 ほんの一週間前まで私にとっての外の世界はただ遠くて手の届かない平らな景色だった。または文字でかかれた概念だった。それが今は立体的な実感をもって立ち上がってくる。

 マヤ先生との散策は、ほんのこの尖塔のまわりだけのことなのに、様々なことがあった。このあたりの地図によればこの尖塔がある湖一帯はほんの小さなちっぽけとも言える一地方にすぎない。世界地図でみたらほんの点でしかないのだ。

 世界は広いんだなあ。

 そんなことを思った。

 自分でも笑ってしまうくらいよく見聞きする表現だったが、初めて自分で見つけた、わたしだけの真実だった。

 わたしは目を閉じ毛布に顔をうずめる。わたしの意識はこの尖塔を満たし、湖を越え、洞窟を探検した。長い間、飽き飽きしていたはずの空想を楽しんだ。

「あの、さ……マリアちゃんは勉強得意なんだよね?この問題わかるかな……教えてもらってもいい?」

 少し前から、うんうんとうなりはじめていたレイ様が宿題の問題集のページを指差して言った。

「はい、わたしのわかる範囲でなら。見せていただけますか?」

 わたしが揺り椅子から立ち上がろうとするとレイ様は「あ、持ってくから座ってて!」と言って課題の書類束を持ってきてくれた。

 課題は植物学に関するものだった。レイ様が示した問題はリン先生から何年か前に習ったことのある分野だった。

「これはですね、ダイオウ草は花に幻覚物質を含んでいますから……」

「あー、そうだっけ?あれ、葉っぱは食べても大丈夫なんだっけ?」

「食用なのは根です。滋養強壮に効果があるとか。葉っぱを食べると三日三晩嘔吐と下痢に悩まされるので間違っても食べないでくださいね。花の他に種も幻覚物質を含んでます」

「そっかー。幻覚作用ってどんな感じなんだろうね……」

「わたしが食べたときはダイオウ草の花が話しかけて来ました」

「えっ!食べたことあるの?」

「食べたというよりは、ちょっと舐めてみた程度ですけれど。リン先生が、わたしの先生がなんでも自分でやってみるのが重要だとおっしゃって食べさせられました」

「それは……すごいね……」

「リン先生は大笑いしてました……おかげで忘れずに覚えていますけれど……」

 ちなみに葉っぱも食べたことがあるのは内緒だ。意外にも美味しかったのだが……そのあと起こったことを思い出すともう二度と食べたくない。

「じゃあこれは?」

「あー、これはですね……」

 役に立つことはないと思っていた自分の知識が役にたった。マヤ先生もそうだったけれど、レイ様も喜んでくれているみたいで嬉しい。レイ様が笑うとわたしの心の奥がじんわりと温かくなっていく。それがあまりにも楽しくて問題集を全部解いてしまった。

「ごめん、なんかわたし調子に乗って聞きすぎちゃったみたい。自分の課題なのに」

 すべての問題を解き終わった問題集を手にレイ様は苦笑いした。本当は自分で解かなきゃいけないんだろうけどマリアちゃんと遊ぶ時間が出来たからいいよね、と。

「でもマリアちゃんは本当に物知りだね!わたし何かお礼しないと……」

「いえいえ、そんなつもりでは」

「いいのいいの!お礼と……あと、お詫びもかねて!洞窟ではいいところみせようと思ってマリアちゃんを危険に晒しちゃったし」

 レイ様は手に持った問題集をダイニングテーブルの上においた。羽織っていたカーディガンを脱ぎ椅子にかける。

「お礼、と言っても大したことできないんだけど」

 レイ様はそう言うと、室内履きを揃えて脱ぎ、準備体操をはじめた。スレンダー、というか少し筋肉質なのだろうか。引き締まっていてスラリと長い手足。窓からの柔らかい光をうけて浮かび上がる姿は、本棚にある画集の一場面のようだった。

「よしっと。わたし箒に乗るの得意っていったじゃん?踊りも得意なの。どっちかって言ったら踊りのほうが本職。だからマリアちゃんのために一手」

 レイ様が目を閉じると、体のすべての動きがピタッと止まった。部屋中の空気が張り詰める。やがてレイ様は目を開けると滑らかに動き出した。流れるように手足を運び、テンポよくステップを刻む。そして時に鋭く切り返す。

 静かな部屋にトン、トン、トン、っと小気味良い足音が響く。

 動きの滑らかさもさることながら、わたしはレイ様の動きが作る一つ一つの形の美しさに目を奪われていた。

 たとえば宙に伸ばした腕。肘の角度、手首の角度、指の形まで計算されているに違いなかった。

 蹴り上げた足だってそうだ。足先は完全に天頂を突いていて、身体は一本の芯が通っているかのようにまっすぐでブレない。臀部から大腿の曲線や、ふくらはぎから足首はの曲線は綺麗すぎて見ているだけでなんだかムズムズしてくる。

 踊りが終わるころにはわたしは自分が具合悪いのなんてすっかり忘れて元気になっていた。

 わたしは力いっぱい拍手する。

 が、わたし以外にも拍手している人が一人。マヤ先生がドアの戸口に寄りかかって拍手をしていた。

「やっぱり、あんた踊り上手いわね~」

 マヤ先生はそう言いながら料理の乗った台車を押して部屋に入ってくる。

「それにしても課題やってもらったのがそんなに嬉しかったの?」

「え?」

 確かに踊りはすごかったけど、どういうことなんだろう?

「ああ、今の踊りは収穫祭とかで踊る感謝の踊りなんだ」

 私が首を傾げているとレイ様が教えてくれた。さらにマヤ先生が補足する。

「しかも今のは簡易版じゃないフルバージョン。フルバージョンは収穫祭でも滅多に踊らないのよ。単純に難しいっていうのもあるけど、本来は収穫が例年よりかなり多かった年に特別な感謝を捧げるために踊る、神聖な舞なの。感謝を捧げて奇跡を起こすっていう謂れのね。それをまったくこの子は自分の課題やってもらったからって……現金なんだから」

 やれやれとマヤ先生はため息をもらした。

「違うよ!これは宿題やってもらったからとかそういうことじゃなくてね?いや、実際そうなんだけどっ!その、マリアちゃんとのお近づきのしるしに……決していいところを見せたいとか、挽回したいっていう下心はなくって……なくって」

 そんな神聖な踊りだったのか。正直なところ、踊りの難易度はわたしにはわからない。でも、わたしはレイ様の踊りを見て確かに心を動かされていたのだ。

「とっても素敵でした。ありがとうございます」

「ふふふ、喜んでくれてよかった!感謝と喜びの踊りなんだもん、こういう時に踊らないと!」

「あんたねぇ……まあマリアちゃんが満足してくれたならそれでいいのかな。さっ、夕食もらってきたからみんなで食べましょう!退屈なデスクワークでお腹減っちゃったわ!」

「わたしもお腹へった~。テーブル片付けるからマリアちゃんはもう少し待っててね!」

 レイ様はそう言うとテーブルを片付けに行った。なんだか風邪のせいで自分のほうがお客様になったみたいで申し訳ない。わたしのおもてなしの実技は落第確実の情勢だった。

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