逃走劇

「!」

 わたしは音を立てないように動きを止め息を殺す。というよりは驚きのあまりに背中のあたりがこわばって身動きができない、というのが正しい。

 聞き耳をたててみるが何も聞こえない。深く雪の積もった森は静かすぎて、だんだんとさっきのうなり声が自分の聞き間違いのような気がしてきた。降る雪は音を立てずにつもっていく。自分の心臓の音だけがうるさい。

 しばらくのあいだそうしていたが、特に変化は起こらなかった。

 気のせい……だったみたいだ。思えば外の世界で一人でいることは初めてのこと。自分でも気がつかないうちに緊張していたのかもしれない。洞窟の事前調査はこれくらいにして、マヤ先生が空から探しやすいところに移動しておこう。急に心細くなる気持ちをなんとかごまかす。

 そして地面に置いた道具バッグを背負いなおそうとした時だった。

 ドサッ!

 後方約五十メートルほど向こうで木の枝から積もった雪が落ちた。

「ひゃぁっ!」

 心臓が飛び出るかと思うほどビックリした。思わず振り返って確かめる。とくに変わったものは発見できない。さっきモンスターの唸り声かとおもったのも雪の落ちる音だったのだろうか。

 大丈夫、大丈夫。雪が落ちただけ。全然特別なことじゃない、大丈夫。

 そう自分に言い聞かせた。

 ゆっくりと意識的に深呼吸をする。

 昨日までだって危ない生き物には会わなかった。このあたりで発見されていて図鑑にのっている生き物もおとなしい種類しかいない。それにマヤ先生もすぐに帰ってくるはず。

 もう一度ゆっくり深呼吸する。

 落ち着いて、落ち着いて。

 こんな明るいうちから一人でパニックになっていたらマヤ先生が帰ってきたときに笑われてしまう。こういう時どうすればいいか、リン先生はなんて言ってたっけ?

 両手を頬にあてて、興奮して熱くなった頬を冷やす。

 そして前に向き直った時だった。

 あ、ダメだ。

 いる。

 なにかいる。

 目の端で影が動くのを捉えてしまった。森側から何か巨大な影が見えた。どうやら音をたてないで忍びよって来ているみたいだ。通常の生き物であれば甘えたり戯れたりするために音を殺して忍びよってくることはだろう。多分、野生の生き物が忍び寄ってくる時はこちらにとって良い状況ではないはずだ。

 どうしよう。

 こういう時は下手に刺激しないように動かない方がいいんだったか、それとも距離があるうちに対峙して牽制した方がいいんだったか、思い出せない。前に何かのサバイバル本で読んだのに!

 でももし手の届く距離まであの大きいモンスターが来てしまったらどうしようもない。攻撃されたらなす術もない。幸いなことに、モンスターはまだわたしが気がついたことに気がついてないはず。襲ってくる前に洞窟の奥に逃げれば、なんとかモンスターを撒くことができるかもしれない。大きなモンスターだ。狭い通路でもあれば通り抜けられないだろう。

 そうとなれば急いだ方がよさそうだ。モンスターに気がついてないフリをしながら、ゆっくりと。でも可能な限り急いで。わたしはわざとらしくも平静をよそおって「ちょっとだけなら入っても大丈夫かな~」などと呟きながら洞窟の奥に足を踏み入れた。

 はやる気持ちをおさえつつ、歩を進める。洞窟の中は雪も風も無いのに外よりも寒い。だけど背中を汗が伝っていくのがわかる。

 洞窟の天井は数多くの大小様々な氷柱で覆い尽くされていて、ヌラヌラと光がきらめいている。一瞬「落っこちてきたらどうしよう」と頭をよぎったが、今はそれどころじゃない。壁は分厚い透明な氷が深い青を作り出していた。キレイだけど、キレイ過ぎて逆に怖い。それにこの洞窟の中は、なぜだか音があまり反響しない。自分の足音が聞こえないのだ。聞こえるのは心臓の音だけ。氷の特性にそんなものはなかった気がするけれど、今のわたしのおかれた状況からみれば好都合といえた。

 急いでいたあまり手袋を落としてきてしまったみたいだ。とにかく手ぶらになって身軽にしておいたほうがいい。そう思って手に持っているロックハンマーと採集瓶をバッグにしまおうとした時だった。採集瓶に視界の後ろがうつっ見えた。

 おおきな黒い影。

 やばい、ついてきてる……。

 すでにこれ以上ドキドキしないと思っていた心臓がさらに早く大きく悲鳴をあげる。もう全速力で走った方がいいんじゃないか?いや、こっちが気がついたとわかったら向こうも全速力で追いかけてくるだろう。まだ距離がある。気がついてないフリを続けた方がいい?どうしよう、わからない。

 早足で洞窟は奥に進むにつれて通路は折れ曲がっていた。わたしは通路の最初の角を左に曲がり、直接モンスターから見えなくなったのを確認して静かに走りだした。まずはとにかくモンスターとの距離を稼がないといけない。無意識のうちにどんどん走るスピードがあがっていく。

 わたしはとにかく走った。脚が熱いし脇腹が痛いし喉が苦しいし心臓も痛い。でも恐怖が足を止めることを許さない。足がもつれて走れなくなるまで、後ろも振り返らずにとにかく走り続けた。

 入り口から数えて十個目の分かれ道を曲がったところで一旦止まった。残念なことに、ここまで通ってきた通路にモンスターが通れなさそうな狭い通路はなかった。疲労か恐怖か焦りかはわからないが、ヒザがガクガクする。立ってるだけでやっとだ。

 膝に手をつき、なんとか息を整える。喉が渇いて何度も唾を飲み込んだ。モンスターとの距離はどのくらい離れただろう。別れ道がいくつもあったし、いくらなんでも別の道に行ったんじゃないだろうか。もしそうだとしたらモンスターが別の道へ行って迷っているうちに引き返して外に出てしまいたい。一秒でも早くマヤ先生と合流して安心してしまいたい。幸い、わたしは記憶力に自信があるので、ここまでの道は完璧に覚えている。帰り道の心配はない。

 しかし、いざ戻ろうとすると、足が前に進まなかった。走るのに集中しすぎたせいで、モンスターが今どこにいるのか全くわからない。モンスターと鉢合わせになるのだけは嫌だ。今まで通ってきた洞窟の内部は狭い通路がなかっただけでなく、モンスターに気がつかれずに通り抜けられるほど広くも無かったし、身を隠せるようなものもなかった。鉢合わせたらおしまいだ。

 やはり、もう少しだけ進もう。何か打開策となるようなものがなければ、できるだけ距離を稼いでおくのが懸命に思える。少し休んだおかげで息も落ち着いてきている。

 よし、大丈夫。まだ決定的に悪いことは一つもおこってない。なんとかなる。

 気を取り直して進みはじめると、また別れ道が見えてきた。入り口から数えて十一個目の分かれ道だ。

 分かれ道を曲がってしばらく行くと洞窟が広くなっている場所にでた。広場の奥は段になっていて高くなっている。あそこに登って伏せれば身を隠せそうだ。

 あそこに隠れて少し待ってみよう。それでモンスターが来なければ元来た道を戻ることにしよう。少し休んで大丈夫かと思ったけど、ちょっとこれ以上は走れそうにない。

 わたしは広場のおくのが段の上にやっとの思いで這い上がった。段差は思っていたよりも高く、地面からの高さは三メートルくらいある。今ほどもっと背が高かったらよかったのにと思ったことはなかった。

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