待ち人

 リン先生は二日前に、南方にあるという実家に向けて旅立っていった。しかし、まだ代わりの家庭教師となるはずのリン先生の先輩は到着していない。リン先生が出発する間際、その先輩から道に迷ったから到着が遅れると連絡があったのだ。リン先生は「あら~、明後日の昼には着くんじゃないですかね~?わたしもちょっと遅刻するわけにはいかないので~……もう行きます~!」と言ってさっさと行ってしまった。なんだか焦っているようだったのでわたしは強く引き止めることができなかった。

 結局、ひとりぼっちのわたしは昨日の朝昼晩の三食に例の缶詰を食べた。そして今日、朝食としてまた食べている。

 しかしこの缶詰、何度食べても本当に本っっ当に不味い。お腹は空いているのに缶詰をすくうスプーンがまったく進まない。口に入れると湿った毛皮のような臭いが鼻に抜け、うすい塩味がひろがる。そしてヤギのミルクで作ったチーズのような後味が残るのだった。この缶詰の生産者は一体なにを考えてこの製品を開発したのだろう。こんな味ではまったく売れずに会社はすぐ倒産してしまうだろうに。

 早くリン先生の先輩が来てくれないとこの缶詰を食べ続けなければいけなくなる。正直なところ、最初は知らない人に会うのが怖くかった。しかし、今はこの缶詰から解放してくれるならばどんな人だろうと構わなくなってる。早く来て欲しいと思いはじめている自分に驚く。

 人は追いつめられるとなりふり構わなくなるというのは本当のことだったのか、などと感慨に浸っていた。本で読んだ時は、そうはいっても人は簡単には変わらないだろうと思っていたのに。実際は逆だった。人とは外部からの要因でいとも簡単に変わってしまう可能性があるのだ。それはいい。そのことはしょうがない。だけど、なぜ缶詰を食べて、こんなことを考えなくてはいけないのか。なんて忌まわしい缶詰だ。

 わたしはスプーンを置いた。一息つかないととてもじゃないが食べ続けることなんてできない。

 まだ半分も残っている缶を手にとって眺めてみる。

「……ん?」

 今まで気に留めてこなかったが缶に何か書いてある。異国の文字だ。

「エクスト……レム……ダ……?ちがうかしら……ディエトホッド?」

 異国語は得意でないので意味はよくわからない。ただ、この缶詰はリン先生が発注していた気がする。リン先生はなぜ手間をかけてまで、わざわざ異国からこんなに不味いものを取り寄せたのだろう?リン先生は不味い不味いといいながらもこの缶詰のことを気に入っている節があった。どうもよくわからない。

 まあ、リン先生の行動に多少解せないところがあるのはいつものことだ。気にし始めたらきりがない。リン先生の先輩がその後、迷ったりせずに順調にきていれば、遅くとも今日には着くはずだ。これさえ食べきれば缶詰ともおさらばできるのだ。

 わたしは時間をかけて(すこし涙目になりながらも)缶詰めを完食した。

 口直しにミルクティーをいれて一息いれることにする。甘い香りのする花で茶葉に香りのするお気に入りの紅茶だ。冷暗所から持ってきたミルクを先にカップに入れ、熱い紅茶を注ぐ。紅茶の芳しい匂いがふわっと部屋いっぱいに広がる。今日はいつもより多めに砂糖をいれよう。

 口をつけると甘い香りが鼻を抜け、缶詰めによって汚染された口の中が清められていった。あとに残ったのは満腹感。一息ついたらなんとか落ち着いてきた。

 ああ、どうして生物は甘い紅茶だけで生きられないのだろう。なんだかちょっと涙が出てきた。

 わたしは紅茶のカップをソーサーごと持って窓際のソファに移動する。青色が基調となった花柄のソファ。これもわたしのお気に入りだった。というか絨毯もカーテンも本棚もティーポットも、この部屋にあるものはすべてわたしのお気に入りである。汚れのつきやすいもの、濡れると色の変わってしまうものなどデリケートな部分はあるが、どれも綺麗で繊細なものたちだ。

 ソファに深く沈み込む。

 ふと視線をやると窓の外は猛吹雪になっていた。それもこの辺りではちょっと珍しいくらいの荒れ具合だ。朝方に昼以降は晴れる予報だとのアナウンスが尖塔群になされていたが、本当に晴れるのだろうか。

 リン先生の先輩は予定通りなら昼には到着するはずだ。この吹雪の中来るのは大変そうだから、きっと疲れてくるだろう。うまくおもてなしをしなければいけない。わざわざ遠くから、それも初めてこの尖塔群を訪れるお客様に悪いイメージを持たれてしまうのは悲しい。責任重大だ。そう思うと今度はなんだか急に緊張してきた。なにせ、わたしがお客様を迎えるのは生まれて初めてのことなのだ。知らない人に会うのことすら何年かぶりだ。わたしはこれでも王位継承権持ちなのだから一族の恥にならないようにさなければならない。

 昨日は床の掃除もしたし本棚も整理した。実験室もトイレも掃除した。時間があまったのでお客様をもてなす作法も本で調べて再確認してある。今日は朝食の前に朝早くから起きて、この尖塔の階段をすべて掃除して回ったし、階段の入り口に足拭きマットもキッチリと水平を出して置いておいた。お茶のストックもあらかじめリン先生に補充してもらってある。

 準備は完璧なはずだ。だけどいくら準備が完璧でもやっぱり落ち着かない。

 リン先生は先輩のことを元ヤンと言っていた。辞書で元ヤンというのは調べてみたら「異国語で元蛮族の意」とかいてあった。蛮族に元、というのも変な気がするが、不穏なニュアンスはわかる。

 もし蛮族なままの人だったらなるべく関わらずにリン先生が帰ってくるのを待ちたい。途中で部屋にひきこもって気まずくなるくらいなら、いっそのこと会ったらすぐに毎日の食事の運搬だけでお願いして下の階に泊まってもらうようにお願いしたほうがいいんじゃないだろうか。向こうだって知らない子どもの相手をするなんて嫌に違いない。お互い干渉しない方がどちらにとってもいいかもしれない。

 いやでも、会いもしないというは流石に失礼だろう。蛮族だとしたら礼を欠くのは危険だ。機嫌をそこねて暴れだしたら、わたしの部屋が滅茶苦茶にされてしまうかもしれない。

 むしろ挨拶だけすんだら、わたしの方が屋根裏に退避したらどうだろう?残りの部屋の全てを自由に使ってもらえば失礼にあたらないのではないか?いやいやいや、それではわたしがずっと屋根裏にいる羽目になる。トイレにいきたくなったらどうするのだ。

 いけない……わたしは多分混乱している。

 とにかく落ち着かないと。リン先生はもう落ち着いた人になってるはずだって言ってたじゃないか。大丈夫、リン先生はたまにふざけてイタズラするけれど予測や予想の的中率は折り紙付きなのだから。

 ああ……でもでも……。

 考えても考えても妙案はでなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る