退屈
暖炉の薪が音を立てて崩れた。
どうやら本を読んでいるうちに寝てしまったようだ。椅子の背もたれに寄りかかって寝ていたせいで首が痛い。膝の上には本が開きっぱなしのままになっていた。一応しおりをはさんで閉じる。読んでいたのは王都で今年発行されたばかりの図鑑だ。お父様が買ってくださったもので、この辺りの植物やモンスターについての生態とその容姿が色鮮やかに描いたものである。しかし、ざっと目を通したところ、以前に別の図鑑で読んだことのある内容ばかりだった。生態についても曖昧に濁した表現が多いままで、これといって目新しいものはない。本の体裁だけを整えなおしたものであった。
新しい発見がないのも、相変わらず生態がわかっていない種が多いのも、この辺りの調査がほとんど行われていないからなのだ。北限に近いこの土地で、この尖塔群以外に人の住んでいる場所はない。尖塔群での補給なしで長期滞在するには気候が厳しすぎる。腰をすえて研究するならこの尖塔群に寄るはずだが、よそから人が来たという話はもう何年も聞いたことがない。第一、広大な土地を有するこの王国には未だ前人未到の場所がたくさんあるのだ。わざわざこんな辺鄙な土地を調査する物好きは中々いないのだと思う。
わたしは知らないことを知るのが好きだ。空欄となっている部分を埋めていくのが好きだ。いっそのことわたしが調査してこの図鑑の曖昧な部分を埋めることができたならと思う。きっとそのほうが、この体裁だけは立派な図鑑も嬉しいに違いないのだ。図鑑を名乗っているのに自身に空欄や曖昧な部分が多いのはさぞ居心地が悪かろう。
自分の手で図鑑の空欄を埋める。それは夢にみるような素敵なアイディアだ。しかし、わたしには許されないことだ。わたしはこの尖塔から出ることを禁じられている。目と鼻の先に未踏の調査地域が広がっているというのに調査どころか、すぐそこにいるはずの動植物を自分の目で見ることすらできず図鑑を通して知るしかない。この部屋の窓からはどんなに目を凝らして見てみても外の世界に動物が住んでいるような気配を感じることなどできたためしがなかった。
ため息とともに膝の上の図鑑をサイドテーブルにおき、窓の外を見やる。雪がいつものように飽きもせず降っている。何もない空白の、退屈な白だ。
初めて図鑑をもらったときは心が躍ったものだった。見るもの全てが新しかった。
触った感じはどうだろう?どんな匂いがするだろう?
そうやって本を読みながら空想するだけで何時間も過ごすことができたのだ。しかし、今はもうそういったこともない。図鑑に載っているどんなに素敵な花も、可愛らしい動物も、自分の目で直接見ることは決してかなわないのだ。いつだったか、そう気づいてしまった。それからというもの、以前のようには、この紙に閉じ込められた極彩色の世界にのめりこむことができなくなってしまった。
それでも毎年のように様々な種類の図鑑がわたしの元に届けられる。幼い頃にわたしがお父様に一度だけ言った「図鑑が欲しい」という言葉がお父様の中では未だに有効なのだろう。大量の図鑑を納めた本棚は歪んできている。もうすぐ、重さに耐えかねて棚板が折れるに違いない。
不意にドアをノックする乾いた音が響いた。暖房の効いた部屋のドアはよく乾燥していて耳に心地よい音を立てる。
「どうぞぉー……」
わたしはドアのむこうに応える。
「失礼します~、お嬢様~」
すると、なんとも緊張感のない声とともに若い女の人がドアから顔を出した。家庭教師のリン先生だ。のんびりした調子でドアを開け、夕食の乗った台車を押して部屋に入ってくる。
長い黒髪にふくよかな体づき。縁の薄い丸メガネをかけ、フリルの少ないクラシックな作りのネイビーのメイド服を身にまとっている。ここ数年来わたしの家庭教師として勉強はもちろん、食事から服の用意、その他雑多な身の回りの世話まですべてしてくれている人だ。リン先生はおっとりとしているし、いつもヘラヘラと笑っているのでパッと見は有能そうには見えない。しかし、その立ち居振る舞いからは想像もできないほどに博識で頭がいい、とても優秀な人なのだ。
その昔、リン先生に「どうして先生はそんなに優秀なのに、こんな辺境で家庭教師などしているのですか?」と尋ねたことがある。するとリン先生は「ん~、わたしが家庭教師を引き受けたのはこの土地がわたしの研究をするのに都合がいいからです~」と答えてくれた。そして「べつに子どもの面倒をみるのが好きで教師をしているのではないのですよ~」ともつけ加えたのだった。しかし、わたしからみればなかなかどうして面倒見のよい先生なのだ。なんの研究をしているかは教えてくれなかったけれど。
今までわたしの家庭教師になった人はたくさんいた。リン先生に直接言ったことはないが、わたしは優しくて有能なリン先生が自分の家庭教師になってくれてよかったと思っている。リン先生の前の先生はもう名前も思い出せないし、思い出したくもないほどだ。ネチネチとしつこく嫌味を言う壮年の人だった。口を開けば昔話という名の自慢話か、わたしに対するイヤミばかりでノイローゼになりそうだった。というよりまさにノイローゼになる直前でその先生は突然この尖塔群を去り、かわりにリン先生がやって来たというわけだ。
「お嬢様~、またそんな格好で寝てると腰を痛めますよ~?何か掛けないと風邪もひいてしまいますわ~」
リン先生はコロコロと笑う。
「……はい」
寝起きを見られるのは少しバツが悪い。
「さあさあ、夕食にしましょう~!わたしもうお腹が空いてしまって何も手につきませんね~!早く起きてよだれをふいて本を片付けてくださいな。」
「よっ、よだれなんかたらしてません!」
咄嗟に口元を確認したがよだれはでてない。
「冗談ですよ、冗談~」
リン先生はそう言いながらクロッシュをとりテーブルに夕食を並べはじめた。いい匂いが部屋にたちこめはじめる。
「先生、わたしもお手伝いいたします」
「あら~、ありがとうございます~。でももう準備はおわりですので早くたべましょう?今日はこの辺りでとれた新鮮なごちそうですよ~」
わたしはお腹がグゥとなるのをリン先生にバレないように誤魔化しながらテーブルへといそいだ。
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