さよならを忘れて

尾八原ジュージ

ともだち

 庭の桜の花が咲いて、母屋の座敷に花びらが吹き込んでくると、わたしはああ春だなと思いながら、亡くなった母が使っていた寝室の押入れを開ける。

 わたしのともだちは繭に包まれて眠っている。細い糸の層の向こうに、長い黒髪と桃色のくちびるがうっすらと見える。伏せた睫毛が微かに動いているのがわかる。ああ、春だ。

 ともだちはそれから三日後の朝に目覚める。白磁のような頬に真っ黒な髪がふりかかり、黒目がちの大きな瞳が不思議そうに瞬きをする。わたしと目があうと、彼女は「はじめまして」とうたうように言う。

「はじめまして」

 わたしは冬眠から目覚めたともだちのために、台所から水を一杯汲んでくる。

「ご親切に、どうも」

「いいえ」

 ともだちは湯呑を白い両手に包み、ひとくち水を飲んでから、「あなたの名前は?」とわたしに尋ねる。

「さとみ」

「さとみ」ともだちはわたしの名前をまた、うたうように呟く。

「わたしたち、ともだちになりませんか?」

 わたしの申し出に、ともだちは「はい」とこたえてほほえむ。

 ともだちはわたしが貸した桜の模様の小紋を着て、日がな一日縁側に座り、庭を眺めている。庭の木々、池の鯉、どこからか飛んでくる鳥。ともだちは「春ですね」と呟く。

「春です」

「さとみ」

 ともだちは何の脈絡もなくわたしの名前を呼び、無垢な笑みをうかべる。

 梅雨。ともだちは紫陽花の描かれた単を着て、相変わらず縁側に座り、水たまりに広がる水の波紋を飽きずに眺めている。

「夏がきますね」

 ともだちの髪は、だんだんと日に焼けたような茶色に変わりつつある。瞳は宝石のように赤く輝き、やがて暑い夏がやってくる。

 蝉の声があたりに満ちる。彼女は日に焼けるのも厭わず、朝顔の柄の浴衣を着て、縁側に座っている。入道雲が形を変えるさまを見つめ、夕立のにおいを嗅ぐ。

「夏です。さとみ、夏はすきですか」

「好き」

 わたしはともだちの顔を見て、そう答える。遠くで祭囃子が聞こえる。

 やがて夜闇に虫の声がきこえ、日に日に風が涼しくなる。桜の葉が紅葉し、やがて落ちて庭を埋め尽くす。

 落ち葉を掃き集めるわたしの姿を、ともだちは縁側でにこにこしながら眺めている。もう袷の時期だ。明るい栗色になった髪と金色の瞳が、紅葉の柄によく似合う。

 集めた落ち葉で焚火をするのを、ともだちは注意深く見つめている。

「おもしろい?」

「おもしろい」

 小さな子どものような真剣さで、彼女はこたえる。

 だんだん空気が冷たくなる。わたしはともだちに南天の柄の綿入れを着せてやる。

 ともだちの髪の色はどんどん薄くなる。亜麻色がやがて白髪になり、瞳の色もどんどん白に近づいていく。

 庭で霜柱を踏むわたしに、ともだちはさびしそうに話しかける。

「ああ、そろそろ繭になる」

「もう冬だもの」

 冷たい風に白い頬をさらして、うつらうつら舟を漕ぎながら、ともだちはささやく。「眠りたくない」

「どうして」

「眠ってしまったら、さとみのことを忘れてしまう気がする」

「いいじゃない。忘れてしまっても大丈夫だもの」

 わたしは縁側に座るともだちを抱きしめる。冷たい頬がふれあう。

「きれい」

 ともだちがつぶやく。灰色の空から、羽根のような雪が降りてくる。

「初雪ね」

「さとみ」

 ともだちはわたしの名前を呼ぶ。「さよなら」

 翌日、わたしが目を覚ますと、ともだちの姿が見えない。着ていた椿の絵の着物は、衣紋掛けにかけられている。

 わたしは母の部屋にむかう。南に窓のある小さな座敷の押入れで、ともだちは丸くなって眠っている。いつのまに吐き出したのだろう、細いほそい糸が全身を包み、白い繭を作っている。

 ああ、もう、ほんとうに冬なのだな。

 わたしは押入れの襖を閉め、ともだちが使っていた湯呑を丁寧に洗って棚にしまう。

 そしてこの古い家でひっそりとひとり、春を待つ。

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さよならを忘れて 尾八原ジュージ @zi-yon

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