第7話
真っ昼間。眼前で焼きそばを啜る真衣の姿を、先に食べ終わった信春は眺めている。唐突に顔をあげた女は、少々気まずそうに、
「食べにくいんだけど」
抗議の声をあげた。信春は、そうか、と応じたあと、カエルの人形と木彫りの熊、そしてその後ろにあるイルカとサメの置物の方へと視線を移す。既に一月程前のことではあるが、まあまあだったな、と振り返った。耳には、そばを啜りあげる音が入ってくる。
本日、元々二限と三限の講義がなかった真衣と、教授の都合かなにかで三限が休講になった信春。空き時間ができた二人は、どうせなら節約しようと家に戻って手早く焼きそばを作ることにした。とはいえ、一人暮らしが長い割にさほど料理が上手くなっていない信春と、それよりはややましであるもののあまり手先が器用ではない真衣の力が合わさったところで、できるものにはたかが知れており、結果としてどことなく野菜の大きさが不揃いな焼きそばが生まれることとなった。もっとも二人共腹を空かしているうえに、さほど味に対しての高望みはしていなかっため、充分だったのだが。
それにしてもさほど量はないにもかかわらず、真衣の食事はなかなか終わらない。食べにくいものでもないため、怪訝に思いちら見すれば、こころなしか手つきがのたのたしている。黒い長袖のシャツに紺のスラックスを合わせた姿の女は、どことなく心ここにあらず、といった感じだった。
そうしていると、再び真衣は皿から信春の方へと視線を移す。
「なんか用? さっきからやたらとこっち見てくるけど」
「いや特には。ただ手持ち無沙汰なだけで」
「だったら、テレビでも見てればいいでしょ」
それもそうか。そう思ったものの、どことなく気乗りがしない。なんとはなしに眺めている昼の番組にあまり興味がないというのはあったものの、
「真衣の方こそ、なんか気がかりがあるんじゃないか?」
それ以上に、目の前で食事している女の方が気にかかった。真衣は、夏の頃より薄っすら白くなった顔をキョトンとさせたあと、不思議そうに、私が、と自らを指差す。どうやら、心当たりはないらしい。
「違うならいいんだけど。ただ、いつもより食べるのが遅いなって思っただけで」
この調子だと勘違いだったかもしれない。早くもそう思い直す。あるいは、突っこまれたくないことだったというのもありえた。
真衣は、おもむろに手元を覗きこんだあと、再び信春の方を見返す。
「もしかして、急ぎの用でもあった」
「いや、そういうんじゃないけど。ただ、思ったことを言っただけで」
「あっそ……たぶん、そういう気分なんだよ」
どことなく素っ気なく告げると、今度は一転して勢い良く残っていた焼きそばを口の中に突っこみはじめる。
なんだか、わからないが機嫌が悪いらしい。さしあたってそう解釈した信春は、これ以上踏みこんでもより苛々するだけなのではないのか、という気配がしたので、そうか、と応じ、真衣の席の背後に張ったカレンダーに目をやった。
紅葉した木々の写真が上に張られたそれは、十一月の日付をさらしている。今、あえて目線から外している同居人がやってきてから、三~四ヶ月が経過したのかとしみじみ思うのと同時に、いまだにこの関係が途切れずに続いていることの不思議に浸る。
「ごちそうさま」
低い声で我に帰るのと同時に席を立った真衣は、掌を信春に向けて差し出してくる。その示す先には皿と箸があった。
「俺が行くよ」
「いいから貸して。もう、立っちゃったし」
どことない苛立ちが滲んだ声に、半ば気圧されるようにして、ああ、と相槌を打ちながら、皿と箸を渡す。真衣は、ありがと、と平坦な声で告げてから、台所へと向かっていく。せめて自分のだけでもさっさと洗っておくべきだったなと反省しながら、頬杖をついた。その際、再びカレンダーが目に付いた。
あと、一ヶ月経てば十二月。更に年を跨げば一月。今年は辞めなければバイトがあるのもあいまって、例年より急がしくなるのはほぼほぼ間違いないだろう。その合間に、去年と同じくとりあえず帰省して、なんやかんやゆっくりしてからまたここに戻ってくる。こういうのはバイト先に、今から予定を作って伝えて置いた方がいいんだろうか。
「ねぇ」
顔をあげれば、いつの間にか戻ってきていた真衣が訝しげな目で信春の方を見ていた。
「なに?」
「それはこっちの台詞だよ。ノブ君、なにを考えてたの? なんか、不安そう……だけど楽しそうな顔してたけど」
真衣の言に、そんな顔をしてたのか、と自らに対する理解を深めつつ、信春は、ちょっと年末のことを考えててな、と応じる。
「年末? クリスマスとかお正月とかそういうの?」
真衣の言葉に、そういえば不思議と風物詩的なイベントについては考えてなかったな、と気付いたあと、
「そういうのもだけど、いつ帰省するとかしないとかそういう話だよ」
とりあえずの事情を口にした。真衣は、ああ、と合点がいったというような顔をする。
「そうだよね。ノブ君は、別に実家に居辛いとか、そういうのじゃないもんね」
その言を耳にして、信春は、理由はわからないながらも家出女であったことを思い出した。家出中であるからには、事情はどうあれ、家にいられなかったりいたくないのだろう。配慮が欠けていたかもしれない、と自らの言を恥じた信春の前で、女はひらひらと手を振ってみせた。
「そんな気まずそうな顔しないでよ。仲が良いのはいいことだって。むしろ仲が悪くないのに、夏に帰省しなかったのは、ちょっと親不孝者じゃない」
薄く笑いとともになされた指摘を、もっともだ、と思いつつも、なんともいえない真衣に対するもやもやを抱えたままでいる。
「真衣は、年末、どうするつもりなんだ?」
今、聞くのはどうなんだという迷いこそあったものの、ここを逃せば話題すらあがらなくなる気配がしたため、思い切って尋ねる。真衣は、そうだなぁ、と天を仰いだあと、
「とりあえず、バイトを増やそうかなって思ってる。稼ぐにはちょうどいいタイミングだしね。だから、できれば年末もこの家を貸したままでいてくれるとありがたいんだけど、どうかな?」
再び信春の方に向き直り、おそるおそるといった上目遣いした。
「それは別にかまわないけど」
「ほんと? ありがとね」
どことなくぎこちない笑顔。それを指摘するのは憚られたものの、どことなく見ていられない気がした。
「これは、提案なんだが」
ゆえに、ついつい口が動く。
「俺も残る、とかは言わないでね。ノブ君の実家ってまあまあ遠いでしょ? さすがに夏に続いて冬も帰らないと実家のお母さんとお父さんも泣くと思うよ」
何かを察したのか、先んじてそんなことを口にする真衣に、いやそうじゃなくてな、と応じたあと、
「金に余裕があればなんだが、俺の実家に来ないか?」
思いつきを言った。目を丸くする真衣に、信春は、頭の中で言葉を探りながら、
「俺は去年から下宿してるから知ってるけど、この部屋、冬は無茶苦茶寒いんだよ。特に二人ならまだしも、一人だったらものすごく冷える。だったら、少しでもぬくぬく過ごせた方がいいだろうし、真衣がいたら、まあまあ楽しいと思うし」
なんとなくそれらしくまとめてみせ、どうだろう、と聞き返す。真衣は、何度か瞬きをしたあと、
「そのこと、ノブ君のお父さんとお母さんには言ってあるの?」
「いや、これから。今の話を聞いて思いついたばっかりだから」
「言われてみればそうだね。なに、馬鹿なこと言ってんだろ、私」
苦笑いを浮かべる真衣の感情を、信春はいつも以上に読めない。そもそも、普段から喜怒哀楽が目まぐるしく入れ替わっている様を見てはいるものの、実のところ正確に思っていることを理解していたことが何度あったのだろうか? その手の不安が急に押し寄せてくる。
真衣は、そうだなぁ、と軽く腕を組み、
「ノブ君への借金はほとんど返し終わったけど、もう少し稼いでおきたいかなって思ってたんだけどなぁ」
そう言ったあと、でも、と顔をあげた。
「ノブ君の実家っていうのも、それはそれで興味があるんだよね。でも、大丈夫? 雪国ってことは、こっちより寒くない?」
「北の方ってだけで、雪国ってほど雪は降らないところだよ。家の中にいる分には、暖房ましましだから温かいし。ただ、その分、外に出た時は寒いかもしれないけど」
「ふむふむ、そうなんだ。あとさ」
真衣はニヤリと笑う。
「私を実家に連れて行くってことは、そういうことだって受けとられるかもしれないけど、そこのところは大丈夫?」
その問いかけは、この提案がなされた時点でおそらく放たれるだろうな、と信春が予想していたものであり、
「真衣の方に不都合がなければ、俺はかまわないよ」
したがって答えもまた、少し前に用意していたものを口にすることになった。
真衣は思いのほか早く答えが返ってきたことに戸惑っているようだったが、やがて、そっか、と深く頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お世話になろうかな。もちろん、ノブ君のお父さんとお母さんから許可が下りればの話だけど」
「そっか。じゃあ、ちょっと話してみる」
言いながら、信春はポケットから電話を取りだし席を立った。その際、どこか照れくさそうな笑みを浮かべる真衣とその手前にあるカエルの人形、小さな木彫りの熊、イルカとサメの置物が視界におさまり、なんとなく見送られている気になって心強くなる。
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